最近、仲間由紀恵さんとの結婚を発表した俳優の田中哲司さん。NHKの大河ドラマ「軍師 官兵衛」で、黒田官兵衛を有岡城の土牢に幽閉した荒木村重の演技が話題を呼んでいます。青春18きっぷの使用期限が迫った9月初旬の一日、荒木村重が築いた兵庫県伊丹市有岡城とゆかりの地を、相棒と一緒に歩いてきました。
JR尼崎駅で福知山線に乗り換えて、昼前にJR伊丹駅に到着しました。
駅からイオンモールに向かう陸橋上から撮影した有岡城の本丸跡です。有岡城跡は、南北朝期から戦国時代にかけて、この地を支配していた伊丹氏が築いた伊丹城があったところにあります。伊丹市の東を流れる猪名川の河岸段丘上に築かれていたようです。
これは、福知山線の三田方面を撮影しました。写真の左側が有岡城跡です。線路からは切り立った崖のように見えますが、これは、明治26(1891)年、阪鶴鉄道(福知山線の前身)の線路を敷設したときに、本丸の東半分を切り崩したことによるものです。
伊丹駅の前、下から見上げた本丸跡です。荒木村重の父義村の代から池田城主の池田氏に仕えていたといわれています。天正2(1574)年、荒木村重が伊丹城を攻撃し伊丹親興(ちかおき)を追放して伊丹城に入りました。そして、伊丹城の大改修に着手し、有岡城と改称しました。有岡城は、城だけでなく城下の侍町と町屋を、堀と土塁で囲った惣構(そうがまえ)のつくりでした。南北1.7km、東西0.8kmの規模だったそうです。
JR伊丹駅から古城橋(陸橋)を渡り本丸跡に向かいます。正面にあったフランドルの鐘です。伊丹市の姉妹都市、ベルギーのハッセルト市から平和と友好の象徴として贈られたそうです。
フランドルの鐘の脇に、藤の花がありました。有岡城に幽閉された官兵衛が、力強く咲く藤の花を見て生きる勇気を得たことにちなみ、姫路城の藤から育てた藤を植樹したものです。
陸橋を下って本丸跡に向かいます。荒木村重は摂津で石山本願寺と、播磨では羽柴秀吉とともに毛利氏とも戦っていました。天正6(1578)3月、村重らとともに毛利氏と戦っていた三木城主、別所長治が毛利方に寝返ったため、織田信長の命で村重と秀吉は播磨に入り毛利の援軍と戦いました。この戦いの最中に、荒木村重は、10月、突如信長を裏切って石山本願寺の光佐(顕如)と盟約を結びました。小寺政職(まさもと)の命で、村重のもとへ説得に行った家臣の黒田官兵衛は、村重によって有岡城に幽閉されることになりました。
本丸跡です。平成15(2003)年に発掘された後、公園風に整備されています。手前に建物の礎石跡が見えます。
二ヶ所残っていた井戸跡です。 さて、天正6(1578)年11月、織田信長が摂津に出馬し、滝川一益(かずます)、丹羽長秀らに茨木城を攻撃させました。12月には、一益や長秀は塚口に陣を敷き、有岡城に総攻撃をかけました。有岡城の支城だある中川清秀が守る茨木城と高山右近が守る高槻城は降伏。有岡城は10ヶ月間持ちこたえますが、天正7(1579)年9月、荒木村重はひそかに有岡城を脱出し、嫡子荒木村安の守る尼崎城に移りました。しかし、有岡城は10月15日総攻撃を受け落城します。村重の妻子ら700人は捕えられ、京の六条河原や尼崎七ツ松で処刑されたといわれています。
本丸跡の正面にあった有岡城の石垣跡です。急いで造ったからでしょうか。中に墓石も使われていました。この日は、土曜日で、リュックを背負った中高年のカップルの姿を本丸跡で多数お見かけしました。印刷物を手に、「NHKの大河ドラマは信長の立場で描いていますので、『荒木村重は尼崎城に逃げた』とドラマの中でいわれていましたが、そんなことはありません。籠城戦の中、何とか活路を求めようと尼崎城に移り、そこから石山本願寺や雑賀衆(さいかしゅう)の有力者に援軍の要請をし続けていたのですよ。証拠の文書も残っています。この資料に書いてありますからご覧ください」と熱心に説明される女性がいらっしゃいました。地元の歴史研究グループの方だと思われました。
本丸を囲んだ土塁跡です。有岡城は、落城後、天正8(1580)年信長から摂津国の支配を任された池田信輝の嫡子之助が城主となりました。しかし、天正11(1583)年、羽柴秀吉によって池田信輝父子は美濃に転封され、伊丹城は廃城となってしまいました。
これは、いただいた観光パンフにあった地図です。有岡城は惣構の造りで、北の岸(きし)の砦、上臈塚(じょうろうつか)砦、鵯塚(ひよどりつか)砦の3つの砦で城下を守っていました。地図のオレンジ色が惣構を、緑色が堀を表しています。この後、この3つの砦跡を訪ねることにしていました。
本丸跡を下り、駅前から西に向かって歩きます。本丸の西にあった本丸を囲う堀跡を右手に見ながら進みます。
敷石で整備された舗道を歩きます。左手に広い敷地をもつ本泉寺を見えます。観光地の雰囲気のある商店街をゆっくり進むと、前方にニトリの建物が見えてきます。
道の右側のニトリの建物の脇に石製の施設が見えました。
伊丹郷町に設けられていた大溝跡です。現在の施設は、平成16(2004)年に再元したものです。江戸時代の「寛永8(1796)年の古図にも描かれている大溝で、古図の通りに掘っていったら発見された」と説明板には書かれていました。本通りに面して並ぶ酒蔵からの排水用で酒の仕込みの時期には、ほんのりと酒の香りも漂っていたのではとも書かれていました。
これは、説明板に載せられていた発掘時の写真です。大溝跡を掘っていくとその下から有岡城の堀の跡が出てきたそうです。大溝は、有岡城の堀を埋め立てた上に築かれていたことがわかります。大溝の規模は、幅は1~1.2m、深さは1~1.5m。大溝の下の堀は、松材の丸太や廃材の板材を敷いた上に割石や川原石を積み上げていたといわれています。ちなみに、幅6m、深さ3mで、本丸周囲の内堀に次ぐ規模だったようです。
県道尼崎池田線(産業道路)と地図に書かれた通りを渡ります。酒蔵の長寿蔵の脇を進みます。その先に寺院が並んでいるのが見えました。その最初の寺院の大蓮寺の手前を右折して「岸の砦」があった猪名野神社をめざします。
敷石の敷かれた道を歩きます。ゆっくり歩いて15分ぐらいで、猪名野神社の鳥居前に着きました。
伊丹の町は江戸時代に入り、有岡城が廃城となった後、寛文元(1661)年から摂関家筆頭の近衛家の所領になりました。猪名野神社は、貞享2((1685)年、近衛基(もとひろ?読み方不明です)が本殿や玉垣を再建したといわれています。伊丹の中心部の伊丹郷の氏神として尊崇を受けてきた神社です。
酒造業で繁栄した伊丹郷の氏神らしく、寄進された灯籠が参道に並んでいます。
拝殿です。牛頭天王(ごずてんのう・素盞鳴尊・すさのうのみこと)が祀られ、江戸時代には野宮(ののみや)と呼ばれたそうです。
猪名野神社のあるところには、かつて、有岡城の岸の砦が置かれていたところです。神社の西側には当時の土塁の跡が残っています。惣構えの土塁はこのあたりまでつくられていました。
猪名野神社から、来た道を引き返しした。アイフォニックホールで左折して10分ほど歩きます。
いたみホールの先に伊丹小学校がありました。広い敷地に白亜の校舎が広がっています。堂々とした立派な小学校です。
小学校といたみホールの間の道を北に少し進みます。観光パンフの地図のオレンジ色の線はかつての惣構を示しています。地図からわかるように、小学校の脇はかつて惣構の土塁が設けられていたところです。今も当時と同じように緩いカーブの道になっています。
伊丹小学校から引き返して、再び大蓮寺の山門前に戻ります。ここから、南に向かい、上臈塚砦の跡をめざして歩きます。
伊丹シティホテルを過ぎて進むと、正面に「曹洞宗 墨染寺」と書かれている白い4階建てのビルが見えてきます。
墨染寺(ぼくせんじ)です。このあたりに、有岡城を守った砦の一つ、上臈塚砦が置かれていました。鐘楼門から中に入ります。直進すると墓地に入ります。この寺院もそうですが、伊丹の寺院はいずれも壮大な構えです
墓地の左側の奥まったところに、江戸時代の俳人上島鬼貫父子の墓がありました。その隣にあったのがこの墓石です。「女郎塚」と掘られています。信長との戦いで処刑された荒木村重に仕えて女性の慰霊のために建てられたといわれています。
その隣にあった、荒木村重の墓ともいわれる石製の九重の層塔です。
上臈塚砦跡まで来ましたので、次は鵯塚砦跡を訪ねることにしました。いただいた観光地図にしたがって、墨染寺から県道尼崎池田線に出ることにしました。
道なりに進むと5分ぐらいで県道尼崎池田線に合流します。左(南)方面に向かって歩きます。「伊丹4丁目」の信号で左折(東行)して県道を渡ります。
県道を渡るとそのまま進み、2本目の通り、伊丹保育所の手前の通りを右折(南行)して進みます。
県道から一本入っただけなのにずいぶん静かです。住宅地の雰囲気のする通りです。いただいた観光地図では茶色のラインが入っています。「旧道」と書かれています。そう、この道はかつての「大坂道」でした。
旧大坂道に沿う地域は、平成2(1990)年に「伊丹市都市形成景観道路」の指定を受け、町並みの保存が図られている地域です。雰囲気のある民家が残っています。静かで落ち着いた通りを歩きます。大坂道は伊丹郷町と大坂方面とを結ぶ幹線道路だったところです。「天正年間(1573年~1591年)から、郷町の町場を形成していた」と説明には書かれていましが、その頃から町の形成が見られたようですね。
静かな住宅地を15分ぐらい歩くと、左側に「ひよどり広場 管理者坂戸照雄」という掲示のある公園がありました。「ひよどり」という名前から、この近くに鵯塚砦があったのではないかと思いました。いただいた観光地図には「鵯塚砦」の碑は「坂戸照雄氏の所有地」にあると書かれています。
近くにあったマンションですが、おそらくこの近くに鵯塚砦があったのでしょう。
旧大坂道はこの先のJR福知山線の踏切の手前で二つに別れます。トラックが停車している道が旧尼崎道です。
旧大坂道は踏切を渡り、その後南に向かって進んでいました。
荒木村重がかつての伊丹城を大改修して築いた壮大な城であった有岡城。有岡城のゆかりの地を歩いて、鵯塚砦跡までやって来ました。本丸だけでなく、城下町も取り込んで囲った惣構の城を思いながら、きれいに整備された町をゆっくりと歩きました。当時の名残は多くありませんでしたが、雰囲気は十分味合うことができました。この後、もう一つの伊丹の象徴である「酒造り」に関わる歴史に触れるため、伊丹郷町に戻ることにしました。
JR尼崎駅で福知山線に乗り換えて、昼前にJR伊丹駅に到着しました。
駅からイオンモールに向かう陸橋上から撮影した有岡城の本丸跡です。有岡城跡は、南北朝期から戦国時代にかけて、この地を支配していた伊丹氏が築いた伊丹城があったところにあります。伊丹市の東を流れる猪名川の河岸段丘上に築かれていたようです。
これは、福知山線の三田方面を撮影しました。写真の左側が有岡城跡です。線路からは切り立った崖のように見えますが、これは、明治26(1891)年、阪鶴鉄道(福知山線の前身)の線路を敷設したときに、本丸の東半分を切り崩したことによるものです。
伊丹駅の前、下から見上げた本丸跡です。荒木村重の父義村の代から池田城主の池田氏に仕えていたといわれています。天正2(1574)年、荒木村重が伊丹城を攻撃し伊丹親興(ちかおき)を追放して伊丹城に入りました。そして、伊丹城の大改修に着手し、有岡城と改称しました。有岡城は、城だけでなく城下の侍町と町屋を、堀と土塁で囲った惣構(そうがまえ)のつくりでした。南北1.7km、東西0.8kmの規模だったそうです。
JR伊丹駅から古城橋(陸橋)を渡り本丸跡に向かいます。正面にあったフランドルの鐘です。伊丹市の姉妹都市、ベルギーのハッセルト市から平和と友好の象徴として贈られたそうです。
フランドルの鐘の脇に、藤の花がありました。有岡城に幽閉された官兵衛が、力強く咲く藤の花を見て生きる勇気を得たことにちなみ、姫路城の藤から育てた藤を植樹したものです。
陸橋を下って本丸跡に向かいます。荒木村重は摂津で石山本願寺と、播磨では羽柴秀吉とともに毛利氏とも戦っていました。天正6(1578)3月、村重らとともに毛利氏と戦っていた三木城主、別所長治が毛利方に寝返ったため、織田信長の命で村重と秀吉は播磨に入り毛利の援軍と戦いました。この戦いの最中に、荒木村重は、10月、突如信長を裏切って石山本願寺の光佐(顕如)と盟約を結びました。小寺政職(まさもと)の命で、村重のもとへ説得に行った家臣の黒田官兵衛は、村重によって有岡城に幽閉されることになりました。
本丸跡です。平成15(2003)年に発掘された後、公園風に整備されています。手前に建物の礎石跡が見えます。
二ヶ所残っていた井戸跡です。 さて、天正6(1578)年11月、織田信長が摂津に出馬し、滝川一益(かずます)、丹羽長秀らに茨木城を攻撃させました。12月には、一益や長秀は塚口に陣を敷き、有岡城に総攻撃をかけました。有岡城の支城だある中川清秀が守る茨木城と高山右近が守る高槻城は降伏。有岡城は10ヶ月間持ちこたえますが、天正7(1579)年9月、荒木村重はひそかに有岡城を脱出し、嫡子荒木村安の守る尼崎城に移りました。しかし、有岡城は10月15日総攻撃を受け落城します。村重の妻子ら700人は捕えられ、京の六条河原や尼崎七ツ松で処刑されたといわれています。
本丸跡の正面にあった有岡城の石垣跡です。急いで造ったからでしょうか。中に墓石も使われていました。この日は、土曜日で、リュックを背負った中高年のカップルの姿を本丸跡で多数お見かけしました。印刷物を手に、「NHKの大河ドラマは信長の立場で描いていますので、『荒木村重は尼崎城に逃げた』とドラマの中でいわれていましたが、そんなことはありません。籠城戦の中、何とか活路を求めようと尼崎城に移り、そこから石山本願寺や雑賀衆(さいかしゅう)の有力者に援軍の要請をし続けていたのですよ。証拠の文書も残っています。この資料に書いてありますからご覧ください」と熱心に説明される女性がいらっしゃいました。地元の歴史研究グループの方だと思われました。
本丸を囲んだ土塁跡です。有岡城は、落城後、天正8(1580)年信長から摂津国の支配を任された池田信輝の嫡子之助が城主となりました。しかし、天正11(1583)年、羽柴秀吉によって池田信輝父子は美濃に転封され、伊丹城は廃城となってしまいました。
これは、いただいた観光パンフにあった地図です。有岡城は惣構の造りで、北の岸(きし)の砦、上臈塚(じょうろうつか)砦、鵯塚(ひよどりつか)砦の3つの砦で城下を守っていました。地図のオレンジ色が惣構を、緑色が堀を表しています。この後、この3つの砦跡を訪ねることにしていました。
本丸跡を下り、駅前から西に向かって歩きます。本丸の西にあった本丸を囲う堀跡を右手に見ながら進みます。
敷石で整備された舗道を歩きます。左手に広い敷地をもつ本泉寺を見えます。観光地の雰囲気のある商店街をゆっくり進むと、前方にニトリの建物が見えてきます。
道の右側のニトリの建物の脇に石製の施設が見えました。
伊丹郷町に設けられていた大溝跡です。現在の施設は、平成16(2004)年に再元したものです。江戸時代の「寛永8(1796)年の古図にも描かれている大溝で、古図の通りに掘っていったら発見された」と説明板には書かれていました。本通りに面して並ぶ酒蔵からの排水用で酒の仕込みの時期には、ほんのりと酒の香りも漂っていたのではとも書かれていました。
これは、説明板に載せられていた発掘時の写真です。大溝跡を掘っていくとその下から有岡城の堀の跡が出てきたそうです。大溝は、有岡城の堀を埋め立てた上に築かれていたことがわかります。大溝の規模は、幅は1~1.2m、深さは1~1.5m。大溝の下の堀は、松材の丸太や廃材の板材を敷いた上に割石や川原石を積み上げていたといわれています。ちなみに、幅6m、深さ3mで、本丸周囲の内堀に次ぐ規模だったようです。
県道尼崎池田線(産業道路)と地図に書かれた通りを渡ります。酒蔵の長寿蔵の脇を進みます。その先に寺院が並んでいるのが見えました。その最初の寺院の大蓮寺の手前を右折して「岸の砦」があった猪名野神社をめざします。
敷石の敷かれた道を歩きます。ゆっくり歩いて15分ぐらいで、猪名野神社の鳥居前に着きました。
伊丹の町は江戸時代に入り、有岡城が廃城となった後、寛文元(1661)年から摂関家筆頭の近衛家の所領になりました。猪名野神社は、貞享2((1685)年、近衛基(もとひろ?読み方不明です)が本殿や玉垣を再建したといわれています。伊丹の中心部の伊丹郷の氏神として尊崇を受けてきた神社です。
酒造業で繁栄した伊丹郷の氏神らしく、寄進された灯籠が参道に並んでいます。
拝殿です。牛頭天王(ごずてんのう・素盞鳴尊・すさのうのみこと)が祀られ、江戸時代には野宮(ののみや)と呼ばれたそうです。
猪名野神社のあるところには、かつて、有岡城の岸の砦が置かれていたところです。神社の西側には当時の土塁の跡が残っています。惣構えの土塁はこのあたりまでつくられていました。
猪名野神社から、来た道を引き返しした。アイフォニックホールで左折して10分ほど歩きます。
いたみホールの先に伊丹小学校がありました。広い敷地に白亜の校舎が広がっています。堂々とした立派な小学校です。
小学校といたみホールの間の道を北に少し進みます。観光パンフの地図のオレンジ色の線はかつての惣構を示しています。地図からわかるように、小学校の脇はかつて惣構の土塁が設けられていたところです。今も当時と同じように緩いカーブの道になっています。
伊丹小学校から引き返して、再び大蓮寺の山門前に戻ります。ここから、南に向かい、上臈塚砦の跡をめざして歩きます。
伊丹シティホテルを過ぎて進むと、正面に「曹洞宗 墨染寺」と書かれている白い4階建てのビルが見えてきます。
墨染寺(ぼくせんじ)です。このあたりに、有岡城を守った砦の一つ、上臈塚砦が置かれていました。鐘楼門から中に入ります。直進すると墓地に入ります。この寺院もそうですが、伊丹の寺院はいずれも壮大な構えです
墓地の左側の奥まったところに、江戸時代の俳人上島鬼貫父子の墓がありました。その隣にあったのがこの墓石です。「女郎塚」と掘られています。信長との戦いで処刑された荒木村重に仕えて女性の慰霊のために建てられたといわれています。
その隣にあった、荒木村重の墓ともいわれる石製の九重の層塔です。
上臈塚砦跡まで来ましたので、次は鵯塚砦跡を訪ねることにしました。いただいた観光地図にしたがって、墨染寺から県道尼崎池田線に出ることにしました。
道なりに進むと5分ぐらいで県道尼崎池田線に合流します。左(南)方面に向かって歩きます。「伊丹4丁目」の信号で左折(東行)して県道を渡ります。
県道を渡るとそのまま進み、2本目の通り、伊丹保育所の手前の通りを右折(南行)して進みます。
県道から一本入っただけなのにずいぶん静かです。住宅地の雰囲気のする通りです。いただいた観光地図では茶色のラインが入っています。「旧道」と書かれています。そう、この道はかつての「大坂道」でした。
旧大坂道に沿う地域は、平成2(1990)年に「伊丹市都市形成景観道路」の指定を受け、町並みの保存が図られている地域です。雰囲気のある民家が残っています。静かで落ち着いた通りを歩きます。大坂道は伊丹郷町と大坂方面とを結ぶ幹線道路だったところです。「天正年間(1573年~1591年)から、郷町の町場を形成していた」と説明には書かれていましが、その頃から町の形成が見られたようですね。
静かな住宅地を15分ぐらい歩くと、左側に「ひよどり広場 管理者坂戸照雄」という掲示のある公園がありました。「ひよどり」という名前から、この近くに鵯塚砦があったのではないかと思いました。いただいた観光地図には「鵯塚砦」の碑は「坂戸照雄氏の所有地」にあると書かれています。
近くにあったマンションですが、おそらくこの近くに鵯塚砦があったのでしょう。
旧大坂道はこの先のJR福知山線の踏切の手前で二つに別れます。トラックが停車している道が旧尼崎道です。
旧大坂道は踏切を渡り、その後南に向かって進んでいました。
荒木村重がかつての伊丹城を大改修して築いた壮大な城であった有岡城。有岡城のゆかりの地を歩いて、鵯塚砦跡までやって来ました。本丸だけでなく、城下町も取り込んで囲った惣構の城を思いながら、きれいに整備された町をゆっくりと歩きました。当時の名残は多くありませんでしたが、雰囲気は十分味合うことができました。この後、もう一つの伊丹の象徴である「酒造り」に関わる歴史に触れるため、伊丹郷町に戻ることにしました。