出雲の国と播磨の国姫路を結び、江戸時代には参勤交代や物資の輸送に使われた出雲街道。これまで、惣門のある土居宿、津山城下、坪井宿を少しずつ歩いてきました。
今回は、”まさかり かついだ 金太郎♪”で知られる坂田金時が没した地で、旧出雲街道の宿場町でもある勝田郡勝央町勝間田(かつまだ)を歩きました。勝央町は、勝田郡の中心という意味でつけられました。
スタートはJR勝間田駅。平成17(2005)年の岡山国体でなぎなた会場になった時の歓迎メッセージが、まだ、そのまま残っていました。
駅前を東西に走るのは、現代の出雲街道、国道179号線。それを渡って北に向かいます。
分岐している右の細い道に「勝間田小学校跡」の石碑。「自明治24.4 至明治26.10」、「昭和48年5月建之 勝央町教育委員会 勝央町学校跡地保存会」。ここに、明治期、勝間田小学校があったのです。旧街道はもう少し北にありました。
左に向かうと、石畳の旧勝間田宿。私は、先に金太郎(坂田金時の幼名)が祀られている栗柄(くりから)神社にいくため、ここは直進しました。
道路左側にある、現在の勝間田小学校が見えると、右側には勝間田高校がありました。なぎなたで、平成13(2011)年の山口国体と全国高校総体に、出場した選手の紹介が掲示してありました。この町が、国体のなぎなた会場になった理由がよくわかります。
勝央町役場を越えてさらに北に向かうと、道路は、中国縦貫道の下をくぐります。
くぐったらすぐに右折。縦貫道沿いに、山に向かって歩きます。小高い山の登りがけに、小さな神社がありました。いくらなんでもこれではないだろうと、道なりに左折して、舗装された道をさらに登りましたが、どこまで行っても、墓地と竹やぶがあるだけです。そして、ついに、「平配水池」のところで行き止まりになりました。通りがかった方にお尋ねすると、「中国道のそばに神社があったでしょう?」とのこと。
やっぱり、あの小さい神社がそうだったんですね。地元の方は、「昔は、神社に土俵があってね。そこで相撲をとっていたよ」、「中国自動車道が通ることになって狭くなったけどね」と、お話しされていました。
真新しい灯籠1対には「平成23年10月平地区会」の銘がありました。石製の手水鉢には「嘉永元申年五月氏子中」と記されていました。
静岡県小山町から贈られた”富士ざくら”です。「ウィキペディア」には次のように書かれています。小山町は、坂田金時の生まれ故郷です。金太郎こと坂田金時は、天暦10(956)年、宮中に仕えていた坂田蔵人と八重桐(彫物師十兵衛の娘)の間に、八重桐のふるさと小山町で生まれましたが、蔵人が亡くなったため、ふるさとで成長しました。足柄山で熊と相撲を取ったり、馬の稽古に、元気いっぱいの少年時代をすごしました。 天延4(976)年、足柄峠で出会った源頼光に仕え、京に上り、やがて、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに「頼光四天王」と言われました。広く知られている大江山の酒呑童子を退治したのは、永祚2(990)年のことでした。そして、寛弘8(1012)年、討伐のため筑紫の国に向かう途中、勝央町で重い熱病のため、55歳で亡くなりました。この地の人々は坂田金時を慕い、後に墓のあった丘に小さな祠を建てます。これが倶利伽羅(くりから)神社で、明治時代になってから栗柄神社と改称されました。
栗柄神社から、先ほどの石畳の道まで引き返して、旧出雲街道を歩くことにしました。この写真は、土居宿方面から勝間田宿へ入ってくる旧街道です。街道沿いの民家はほとんど建て替えられていましたが、街道の雰囲気は、今も伝わってきます。古代、この道は出雲から大和に鉄を運ぶ道でした。また、承久の変や元弘の変のとき、後醍醐天皇が隠岐へ流されたときに通った道でもありました。そして、関ヶ原の戦いの後、津山に入封した森忠政が出雲街道を整備して、寛永(1624~1643)年間に、ここに勝間田宿も置かれたといわれています。
石畳の道に入ります。勝間田宿は、「戸数72軒、人口243人」といわれ、「津山侯本陣下山六郎兵衛、雲州侯 勝山侯 木村平左衛門、問屋福本屋市右衛門・・、津山3里、土居4里・・」と書かれているそうです。(岡山文庫「出雲街道」より)
津山藩主の参勤交代時の本陣、下山家と出雲藩主や勝山藩主の本陣、木村家の本陣と脇本陣があったようです。街道の両側には水路が流れています。今では、生活用水ではありませんが・・。石畳の両側にある民家は、ほとんどが建て替えられていますが、雰囲気のある、商家や民家が残っています。
かわずやさん。のれんがかかっています。営業中です。隣には小さな川がありました。屋号は、そこにいるかえるの鳴き声からつけたのでしょうか。
かわずやさんの向かいは、和洋食の神戸亭さん。奥行きのある宿場町らしい建物でした。
喜多萬さん。にぎやかな焼鳥屋さんの雰囲気です。
コミュニティハウスとして使われている、格子づくりの民家です。
大邸宅が2軒並んでいました。手前のお宅は空き家のようでした。
2つのお宅の間の路地です。
通り過ぎて、振り返って撮影しました。本瓦葺きの屋根に、壁に平瓦を貼り付け目地に漆喰をかまぼこ状に塗り上げた、なまこ壁でつくられており、豪壮な印象を受ける邸宅でした。
中之町公園。 勝間田警察署跡の石碑もありました。
ここに、「金太郎」の像が設置されていました。冒頭の金太郎の写真は、この像を撮ったものです。
白壁の車庫のあるお宅は、正面にある黒い板に「板」と「屋」と彫られていました。
このお宅は、裏に土蔵や家屋が残っていました。
勝間田では、津山藩の本陣だった下山家の一部が残っていたものを改修保存して地域の方の交流の拠点に活用しているとのことです。
私は、建物の形から、ここが「津山侯本陣下山家」だと思い込んで帰ってきましたが、どうやら間違っているようです。よく見ると家の形が違っていました。では、下山本陣はどこなのか、次回、訪ねたときに確認し直さないといけませんね。
勝間田のシンボル的な建物、郷土美術館。明治45(1912)年勝田郡役所として建設されました。昭和17(1942)年からは、勝田地方事務所として使用され、さらに、昭和28(1953)年、勝田・英田地方事務所が統合されて旧美作町に移されるまで使用されました。
勝央町が成立した昭和29(1954)年からは勝央町役場として、昭和57(1982)年、新庁舎に移るまで使われました。
説明書のよれば、ここは、屋内井戸と土蔵とともに、「雲州侯勝山侯(本陣)木村平左衛門・・」の木村家の遺構の一部であるということです。
この先には、「勝南高等小学校跡」の石碑。「自明治19.4 至明治41.3」とありました。
滝川にかかる勝間田大橋の手前で、石畳が終わっています。ここは、「冬は土橋、夏は歩いて渡る」(「作陽誌」)といわれており、橋がない時期もあったようです。
大橋を渡ると、すぐ右に勝田神社。元禄2(1689)年、勧請した天満宮ですが、関宿藩主久世出雲守が安永(1772~1781)年中、代官所守護神として勧請した稲荷神社も合祀されています。ここから、旅人は、次の宿場である津山城下に向かっていくことになります。
かつて訪ねた旧出雲街道坪井宿は、「車で2分の宿場」と書かれていましたが、その資料には、ここは、「1分で通過できる」とありました。入り口から出口まで、約600メートルの宿場町。宿場の街道全体をおおった石畳が続く美しい町でした。