トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

銀山の町、生野の町並み

2012年04月15日 | 日記
生野銀山跡を訪ねた日、帰りに生野の町に入りました。
生野銀山跡からJR生野駅まで約4kmと聞いていました。

いただいた、「鉱石の道ウオーキングMAP」を手に
右側の川沿いの道(国道429号線)を生野町に入りました。
最初に訪ねたのが、旧職員宿舎。

生野銀山が、明治元(1868)年官営鉱山となり、
明治29(1896)年三菱合名会社に払い下げられるまでの間、
日本人役職員のための官舎として建設されました。
写真の手前側を、山側に向かって少し進むと
入り口がありました。

現在は、整備が行われていて、
写真で見たかつての姿とは違っていました。

見学の許可を受けようと、「受付」に声をかけました。
「どのくらい時間がありますか?」
と言いながら、高齢の男性が出て来られました。
「16時25分の列車に乗りますが・・・」と私。

どうやら、世間話ではない雰囲気です。
すぐに、出てこられた高齢男性の説明が始まりました。
「ここには、かつて19棟の官舎があった」
「1億8400万円を使って復元した」
「4棟が復元され、甲7号棟は大正時代風、
甲8号棟は明治風、甲9号棟は昭和風、
甲19号棟は社宅風(三菱の所有後の建築)に復元した」

黒澤映画で知られる俳優志村喬の生家跡、
甲7号棟は、彼が生きていた時代に合わせて、
大正風に整備されているようでした。

説明は広く生野町全般に広がり、
大変参考になるいいお話でしたが、
説明はかなり長い時間になりました。

時計を見ると、15時40分を過ぎていました。

これは、動かないと大変なことになる!
大急ぎで建物の外を回りました。
説明の方もついて来られて、
説明も引き続きしてくださっていました。

あわてて、お礼を言って跳び出しました!
旧官舎跡を出て、川沿井の道(下小路通り)に入り、
急いで歩きます。
「せめて写真だけでも撮って回ろう!」

この通りに、かつての邸宅を整備して
再生された建物が並んでいます。

SUMCO生野クラブです。
旧大山師の邸宅があったところを、
三菱が迎賓館として使用していたと言います。
明治19(1886)年の建築で
「明治21(1888)年には、
有栖川宮熾仁親王のご宿泊所になった」とMAPには、
書かれていました。

江戸時代、生野銀山町は旅人の宿泊は禁止されていました。
代官所に、公事(訴訟)のためにやってくる人々のために
公事宿(郷宿)が6軒ありました。これは、
天保3(1832)年に建てられた井筒屋(旧吉川邸)です。
現在は、「生野まちづくり工房井筒屋」となっています。

井筒屋の向かいにある、銀山町ミュージアムセンター。
旧浅田邸です。
ここは、江戸時代から代々続いた地役人の邸宅です。
播但鉄道の開設に尽力した浅田貞治郎(ていじろう)は、
ここの出身です。

平成22(2010)年に、現在のように再生されました。

急いで、先に進みます。
姫宮神社に向かう橋の上から振り返ると、
川岸に沿って、トロッコ列車の線路が残っています。

橋の途中で引き返して、先に進みます。

雰囲気のある通りです。

MAPの左の大きなマークがあるところ、
生野書院に着きます。
江戸時代以来の歴史を記す史跡資料館です。
正面の門は、旧鉱山長の社宅の正門を移築したものです。

生野書院を右に折れて進みます。
生野小学校が正面に見えます。

ここは、生野代官所があったところです。
天文11(1542)年、山名祐豊が生野城を築城してから、
ずっと、この地は銀山経営の中心地でした。
その向かって右の木立の中に碑が建てられています。

「生野義挙跡」の碑。
幕末、文久3(1863)年、
勤皇志士と生野の農民が生野代官所を占拠した
「生野の変」を、現代に伝えています。

小学校の向かいにある生野マインホールの前に、
SLC57の正面部分が残っていました。
播但線で活躍していたSLです。
播但鉄道の設立に尽力した、旧浅田邸の
浅田貞治郎のことを思い出しました。

小学校の次の通りを左折して、御料所通りに入ります。
まっすぐ行くと、来迎寺にぶつかる通りです。

来迎寺から右手方向は、寺町通りで、
宗派の異なる8つの寺院が並んでいます。

銀山の労働環境は大変劣悪で、労働者は短命でしたし、
また、全国から集まってきた人のために、
様々な宗派が必要だったそうです。

生野町には国の登録文化財に指定されている邸宅が
かなりありますが、その一つの今井邸。
来迎寺の手前右手にあります。
明治中期の建築で、大山師邸の別邸でした。
白漆喰と黒い腰板が美しい建物です。


時計を見ると16時5分を過ぎていました。
いよいよ、焦り始めました。

駅に向かって帰ります。

一里塚の跡です。
播磨と但馬の境界線があった場所につくられていました。
もちろん、今では「但馬起点一里塚跡」の石碑が残るだけです。

ここで、通りがかりの方にお聞きすると、
「駅まで5分ぐらい」ということでしたので、
もう一つ、石川醤油店を見て行くことにしました。

「醤油 石川商店」の看板がありました。
この建物も、整備されていました。
もと、庄屋宅。
大正時代から醤油屋を営んでおられます。
醤油蔵は大正期の建築だそうです。

向かいの教会の建物を見て右折すると、
すぐ生野駅です。

旧日下旅館。和風の建物ではめずらしい3階建て!
国指定登録有形文化財に指定されています。
明治42(1909)年の建築。大正10(1921)年に増築され、
一部3階建てになりました。
今も、「食堂くさか」は営業されているそうです。

駅に着いたのは、16時20分。

青く塗られた跨線橋をとおって、反対側のホームに、
なんとか到着しました。
間に合いました!

生野の町は、整備がすすみすっきりとした印象でした。
機会があれば、もう一度訪ね、
邸宅巡りと寺町巡りをしながら、
ゆっくり歩いてみたいと思っています。