トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

「高瀬川女船歌」と京都・木屋町通り

2010年05月31日 | 日記
江戸時代、京都の高瀬川は、
京と全国を結ぶ交通の大動脈でした
慶長16(1611)年、京都の大商人、角倉了以が
方広寺の大仏殿の再建のための物資を運搬するという名目で
3年の年月と7万5千両の経費をかけて、
高瀬川の掘削を完成させました
高瀬船に乗れば、伏見を経由して、
全国へ行くことができました

高瀬川を支配することを任された角倉家は、
莫大な資産を形成することができました
高瀬川沿いには、木屋町の名のもとになった材木屋をはじめ
多くの問屋が並んでいました


女流作家、澤田ふじ子は
江戸時代の京都を舞台に、
市井に暮らす人々の哀感を描いた、
作品集で知られています 


澤田ふじ子の作品の一つ、
「高瀬川女船歌」は、その第二集以後、
高瀬川の川筋で、居酒屋「尾張屋」を営む宗因と
高瀬船にかかわる人々を中心にして、
物語が展開して行きます


今年の正月の一日、
この物語の世界に惹かれて、
五条から二条の一之船入まで、
高瀬川が流れる木屋町通りを歩きました


五条大橋の近くにある旅館の脇からスタートしました、


四条大橋、正面の建物は南座、
この橋を渡ってまっすぐ行くと八坂神社です


「高瀬川女船歌」の物語の中で、
宗因が営む居酒屋「尾張屋」は
四条通に近い
木屋町筋から東の先斗町通りに抜ける小路の角にあり、
建物は間口が二間余り、味噌醤油問屋に隣り合わせており
のれんだけは真新しいが、古いしもた屋造りで
障子の戸袋もひどく古びていたと
書かれています

どじょうの蒲焼きや、鯵や秋刀魚、諸子の焼き物が名物で、
お客の、木屋町筋で働くお店者や人足、
棒手振りと呼ばれた行商人からは
安くてうまいと評判でした

今、高瀬川には、当時の水堰止めが再現されています
また、現在の高瀬川は、桜の名所として知られており、高
瀬川の東には、たくさんの桜の木が並んでいます
そして、西側には、たくさんの飲食店が並んでいます 
 


物語にある、宗因が営む居酒屋「尾張屋」には
「えんやほい、えんやほい」と
曳船道を、幅2メートル、長さ15メートルの高瀬船を引いていく
引き人足のかけ声が聞こえてきます

宗因は、元尾張藩主、名倉宗十郎、
公金横領の罪を着せられ、その疑いが晴れた後も、
尾張藩からの強い要請にもかかわらず藩に帰らず、
気ままな居酒屋商売を営んでいます

彼にはお志津という京都妻とお鶴という子供がいましたが、
お志津は公金横領の疑いを受ける中、殺されてしまいます
お鶴は「柏屋」という旅館の若旦那と結ばれ、
現在、父親との関係も好転しています

宗因は、
来店する飲み客が漏らすうわさ話や悩み、愚痴の中に潜む問題を
お客や柏屋、角倉会所の番頭、尾張藩、
時には奉行所の同心とも協力しながら、当
人が望むであろう最善の形で解決するのです

高瀬舟を運航する角倉会所には、女船頭がいました
乗客が、禁裏や公家など高貴な女性客の場合に、
その身近で世話をする人々です

不幸な過去をもち、お志津とも長いつきあいのあった女
船頭のお時と、宗因は
お互いに好意を寄せ合っていますが、
娘、お鶴の心情を考え、
周囲の心配をよそに、
一緒になることに踏み切れないままでいます



江戸時代、高瀬川には、
荷物の上げ下ろしや船の方向転換をするための
船溜まりが、
元禄期までに
「一之船入り」から「七之船入り」まで
7カ所つくられていました




当時、「船入り」は、
高瀬川から西に直角に突き出すようにつくられていました
現在、「一之船入り」は、二条に近いところに、
高瀬船に荷物を積んだ姿で再現されています


また、高瀬川の西岸には、
加賀藩・土佐藩・対馬藩などの大名の京屋敷が並んでいました
そこには、「屋敷跡」を示す石碑がつくられています


三条大橋の近くには、
豊臣秀次の菩提寺、瑞泉寺が残っています
また、二条の船入りから北にかけては、
広大な角倉邸の跡や、
島津創業記念資料館の建物が残っています
 

 

高瀬船は、大正9(1920)年、廃止されました
そして、高瀬川は、安全のために浅い川に変わりました


作者の澤田ふじ子は、あとがきで書いています
木屋町筋は、3,40年前までは、
この物語にあるような雰囲気をもっていたが、
今は人々の欲望がうずまく町になってしまった、と・・・・

現在の木屋町筋は、多くの人々が行き来する
歓楽街になっています

高瀬船とともにこの町に生きた人々の物語を、
ときどき読み返したいと思っています