昨日は早朝から滝行でしたが、前夜に道場で三時過ぎまで飲んでいたので、きつかったです。
滝に入り終わった後、どういうわけかジワジワとアルコールが再び身体を巡り始めました。
みなが堂々とびしっと滝に入る中、ぼくだけが中途半端な意識で、中途半端に水に打たれました。
こうなるとせっかくの滝行も時間の無駄です。
何ごとも限度というものがあります。
酒場にいっても意識を失い、道場でも意識を失っているのでは、話になりません。
ちょっと意識をシフトする必要があります。
このままでは心身ともに朽ちます。
皆さんもそうだろうと思いますが、ぼくの場合、人生の節目にドカドカと新しい境地を開いてくれるような本が舞い込みます。
いちいちその本の題名を挙げることはしませんが、必要とする智慧が必要とするときに目の前に現れる感じです。
ただ、智慧というのは理性で処理してしまっては、黒板に書いた文字と同じです。
どんなに重要と思われたことでも、次の授業の開始とともにその文字列は丸ごと誰かに消されるだけです。
読んで腑に落ちた智慧は、やはり一つ一つ自分の生きるうえでの智慧として血肉化していけたら歩む速度が速まるでしょう。
血肉化するためには、なんといっても素直さがすべてです。
なにに対しても疑い持たないという素直さではなくて、あえて委ねることのできる素直さです。
委ねるためには、どうなってもその責任を自分が負おうという覚悟がいります。
何かを、誰かを頼りにするのではありません。
すべての起こりえる状況を自分が引き受けるという意味での、委ねるです。
なにを委ねるのか?
自分の人生の運行をです。
何に?
天に、自然の摂理に、です。
天、または自然の摂理とは何か?
あなたが生きている理由です。
意味が分かりませんが?
分かりたいですか?
さぁ、どうでしょうか。あなたはその理由と意味を知っているのですか?
さぁ、どうでしょうか。
果てしのない問いがあります。
果てしのない答えがあります。
それでも雲が流れ、風が吹き、地に花は咲き、人は憂い悲しみ喜びます。
なにもかもが流れていく風景を思い知ったときに、人は無常が人の住む世であることを知ります。
無常の中に永遠を見出すのか。
無常の中に虚無を見出すのか。
すべてはその人しだいです。
滝に入り終わった後、どういうわけかジワジワとアルコールが再び身体を巡り始めました。
みなが堂々とびしっと滝に入る中、ぼくだけが中途半端な意識で、中途半端に水に打たれました。
こうなるとせっかくの滝行も時間の無駄です。
何ごとも限度というものがあります。
酒場にいっても意識を失い、道場でも意識を失っているのでは、話になりません。
ちょっと意識をシフトする必要があります。
このままでは心身ともに朽ちます。
皆さんもそうだろうと思いますが、ぼくの場合、人生の節目にドカドカと新しい境地を開いてくれるような本が舞い込みます。
いちいちその本の題名を挙げることはしませんが、必要とする智慧が必要とするときに目の前に現れる感じです。
ただ、智慧というのは理性で処理してしまっては、黒板に書いた文字と同じです。
どんなに重要と思われたことでも、次の授業の開始とともにその文字列は丸ごと誰かに消されるだけです。
読んで腑に落ちた智慧は、やはり一つ一つ自分の生きるうえでの智慧として血肉化していけたら歩む速度が速まるでしょう。
血肉化するためには、なんといっても素直さがすべてです。
なにに対しても疑い持たないという素直さではなくて、あえて委ねることのできる素直さです。
委ねるためには、どうなってもその責任を自分が負おうという覚悟がいります。
何かを、誰かを頼りにするのではありません。
すべての起こりえる状況を自分が引き受けるという意味での、委ねるです。
なにを委ねるのか?
自分の人生の運行をです。
何に?
天に、自然の摂理に、です。
天、または自然の摂理とは何か?
あなたが生きている理由です。
意味が分かりませんが?
分かりたいですか?
さぁ、どうでしょうか。あなたはその理由と意味を知っているのですか?
さぁ、どうでしょうか。
果てしのない問いがあります。
果てしのない答えがあります。
それでも雲が流れ、風が吹き、地に花は咲き、人は憂い悲しみ喜びます。
なにもかもが流れていく風景を思い知ったときに、人は無常が人の住む世であることを知ります。
無常の中に永遠を見出すのか。
無常の中に虚無を見出すのか。
すべてはその人しだいです。
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