風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

福岡禅会Ⅱ

2010年04月12日 | スピリチュアル
昨日は福岡での参禅会と講演会が無事に終了しました。
わずか二回目の接心でQちゃんは見性し、講演会も思った以上に人が集まってくれました。
http://katamich.exblog.jp/13138948/

前にも言ったとおり、福岡にはわが禅の会の支部がありません。
ですから、去年から始まった福岡での参禅会の準備その他は、全部わが道場の団員が取り仕切りることになります。
ところが、若い者は仕事を持っているのでなかなか手助けすることができず、還暦をとうに過ぎた老先輩がなにからなにまで準備しています。
一般の民家をお借りしてしていますから、参禅会のたびに何十人分の布団やら座布団やら食器やら、仏具や茶器やら、トラックで運び込みます。
その負担は参禅会の度に毎回引越しをしているようなもので、なかなか大変なものがあります。
どうしても福岡の団員を増やして、福岡に支部の母体を作り、福岡の人間の手で福岡の禅会が隆盛することがわが支部の念願です。

見性をした立場から言いますと、生きていて見性という体験をしないのはもったいなくて仕方がありません。
以下は、Qちゃんがブログに引用していたウィキの解説を丸ごと引用します。
 
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一般に禅宗は知識ではなく、悟りを重んじる。禅宗における悟りとは、生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付くことを言う。
このため、唐代の祖師たちは苦闘を重ねながら悟ってきたのである。しかし宋代以降、悟りを得るための多くの技法が考案されてきた。
坐禅(瞑想とは異なる)、公案(知的な理解を超えた話を理解すること)、読経(お教を読むこと)、作務(普段の作業)などの修行を
既に悟りを得た禅師の元ですることで、悟りが得られるようにメソッド化されてきた。悟りは、ロウソクの火が、消えているロウソクに
伝わるように(伝灯)、師から弟子へと伝わるとされる。それは言葉(ロゴス)による伝達ではない。それゆえに正しい禅師を選ぶことが
肝心とされる。それは悟りを得ている事だけではなく、自分の個性に適合している禅師を選ぶという意味もある。しかしながら、
悟りを得た禅師が指導して悟らせるのではない。師を持たずに悟りを得たゴータマ・シッダッタ(仏陀、釈尊)を持ち出すまでもなく、
唐代の祖師たちは、師匠から教わって悟ったのではないのである。悟りを言葉により定義することは出来ないが、言葉を始めとしていろいろな
方法で悟りの境地を表現することはできる。そのため特に日本に伝わった後、詩や絵画を始めとした芸術的な表現の上に悟りが表現されており、
その香りを味わうことができる。芸術以外にも、茶の湯や生け花を始めとした振舞いなどにも表現されており、振舞いをたどることによって、
悟りの世界を味わうという手段も生まれている。
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損得打算、心配不安であくせく心を動かす生活から、同じ日常でもその瞬間瞬間の「香りを味わう」生活に軸足を移していく。
別にそういう境地を目指すのではないのですが、そういうふうに自然に心が解き放たれていく。
禅では何かを目指すということはしません。
悟ろうという意識も邪魔になるだけです。
「今、ここ」という言葉はよく言われますが、その言葉を念仏のように称えたところで、「今、ここ」は掴めません。
あらゆる言葉を離れ、理屈を離れ、思惑を離れたときに、「今、ここ」が目の前に現れます。
つまるところ、坐禅で坐るというのは、あらゆる言葉を離れ、理屈を離れ、思惑を離れる訓練です。
坐るということになりきれば、あらゆる苦悩の元である損得勘定や、好き嫌いや、是非の判断やら、なんやらかんやらから離脱します。
離脱しきったときに目の前に広がる風景、それを無とか見性とか悟りとかいうものと言ってもいいかもしれません。

Qちゃんも言っているとおり、見性はいかなる意味においても神秘体験ではありません。
当たり前のことを当たり前に見えるようになることだといってもいいかもしれません。
当たり前を当たり前と感じることができれば、自然の摂理に直に繋がります。
雨が降れば雨を楽しみ、雪が降れば雪を楽しみ、暑ければ暑いままにふうふう言います。
悲しければ悲しみ、嬉しければ笑います。
どこにも心が滞らなくなります。
修業が進み、見性のレベルが拡大し深まり極ったところに、「山川草木悉有仏性(存在するすべてに仏性が宿っている)」という、
究極の世界が広がっています。
その究極の世界の広がりに身を置いたときに、この世は即、極楽、涅槃となります。
世界が広がり深まるのではありません。
同じ娑婆世界にいながら、心が無限に広がり深まるのです。

まぁ、こういう話はキリがないので、興味のある方は是非禅の門を叩いてください。
正統な師家につくことがとてもとても大切な要件になりますが。