風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

クリシュナムルティ

2010年04月27日 | スピリチュアル
クリシュナムルティという宗教家がいます。
あらゆる組織宗教、権威、ドグマなどからの離脱を繰り返し説いた人です。
そういう現実的な制度なり伝統なり規範なりの枠組みを否定する一方、「思考する」という枠組み自体をも徹底的に疑えと説きました。

「我々の思考は、好きなものを何でも投影することができる。思考は神を創造することも、否定することもできる。
 人は誰もが、自分の傾向、快楽や苦痛しだいで、神を発明することも破壊することもできる。したがって、
 思考が活動し、組み立てたり発明したりしているうちは、時間を越えたものが発見することは決してありえない。
 神あるいは真実在は、考えることをやめたときに初めて見出される」

人々が「神」という言葉を使うとき、キリスト教徒ならキリスト教で培われた神のシンポルやイメージで神を「創り」ます。
ユダヤ教徒はユダヤ教徒の、イスラム教徒はイスラム教徒の神を「創り」ます。
そうして創り上げられた「神」は、「神」という言葉に過ぎず、同じ信者同士で共有される幻想であって、「神」そのものではない。
「神」という勝手に創り上げられたイメージなり幻想なりは、それを信じる人々のマインドの中にあるだけであって、
それを信じない人々にとっては、児戯に似た茶番にしか見えない。
そこでクリシュナムルティは、人々とその幻想を共有する意図がないことをはっきりと示すために、「神」という言葉を使うことを拒絶します。

その代わりに使う彼の言葉は、「最愛なるもの」とか「生命」とかいう言葉を使います。
その言葉を禅の「本来の面目」という言葉に置き換えても、そっくりそのまま意味が通るような気がします。

「精神が空で静かなとき、完全な無の状態にあるとき、空白ではなく、実在の対極でもなく、すべての思考が消滅し
 まったく普通とは異なる状態にあるとき、そのようなときにのみ、名状しがたいもの、すなわち未知のものが
 姿を現すことができる」

要するに、人々は自分の傾向や志向に基づいた「思考」の産物であるイメージやシンボルや名称・言葉にとらわれている限り、
「未知のもの」=生命そのものに出会うことは決してないということを、彼はなんども繰り返し主張しています。

「精神が空で静かなとき、完全な無の状態にあるとき」という状態は、言うまでもなく思索の果てに訪れる状態ではありません。
思索を放棄したときに、しつこく追いかけ来る思索の手から逃れたときに、訪れる境地ではありましょう。
まったく禅の追求する境地と同じような気がします。

クリシュナムルティは、人々を教え導くという存在としての「グル」を否定します。
グルは、その依存者に「言葉」を与え、言葉による「思考」を巡らさせ、本来なら思考を断絶したときに訪れる
「未知のもの」との邂逅をかえって妨げてしまう。
グルの「言葉」が、信者の思考のうちにシンボルやらイメージを植え付けてしまい、いかなるシンボルやらイメージからも
自由であるべき「未知のもの」の姿を見逃してしまうことになる。

今評判の村上春樹の「1Q84」ですが、朝日新聞のインタビューに答えた言葉です。
「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。-中略ーオウム真理教は
 極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」

クリシュナムルティは、まさにその精神の囲い込みから自由になれと語り続けた人のような気がします。

ただ、人は自分で思っている以上に、自ら好んで精神の囲い込みの中に入りたがるものです。
そのほうが安全で、豊かな生活を送ることができると、物心ついて以来さんざんに吹聴されて生きるからです。

クリシュナムルティの一貫した主張は今でも大変有効で示唆に富んだ提言であるような気がします。