昨日は道場での花祭りをかねた花見でした。
花祭りはお釈迦様の四月八日の誕生日を祝ったお祭りです。
天と地を指差したお釈迦様の像に甘茶を掛けてその恩徳に感謝します。
お釈迦様の周囲には花びらをびっしりと敷き詰めていました。
菜の花の黄色がとても鮮やかでした。
空は快晴で、とても気持ちのよい風が吹いていました。
道場の敷地内にある小高い丘に敷物を敷いて、めいめいが用意した料理を肴に宴会です。
例によって、最後のほうの記憶はありません。
気がついたときには、店の事務所で寝ていました。
今週末から、福岡で3日間の参禅会があります。
北九州や熊本には立派な支部があるのですが、どういうわけか福岡には支部がありませんでした。
総裁老師の肝いりで、福岡の禅会を興隆させるべく、団員一動がんばらないといけません。
11日の3時から、アクロスで総裁老師の講演と、数息観(呼吸法)のレクチャーがあります。
坐禅は、心を整え、身体を整え、息を整えて、初めて三昧に入ります。
息の整え方が、初心のうちはよく要領が飲み込めないものです。
興味のある方は、ぜひご参加ください。
受講料は無料です。
参禅会の初日には、三名の入団式があります。
そのうちの二名は、ぼくが道場に誘って連れて行った人です。
だれでもかれでも入団が許されるわけではありません。
最初の関門を透過(いわゆる見性)した者に入団が許されます。
見性とはなにかを語ることは許されてもいないし、語ることもできませんが、とにかく一生消えることのないある核心を持ちます。
誰がなんといおうが、決して消えることのない光が胸に灯ります。
その光を抱いて、死ぬまで修行が続くわけですが、闇雲な修業とはぜんぜん別物になります。
修業の進展の度合いに係わらず、その光だけは輝き続けるからです。
今度その三名がその光を胸に宿したわけです。
これはとても嬉しいことです。
ぼくはいつも思うのですが、一人の人間の周囲には、50~200人の人間がいるはずです。
一人の人間が輝けば、周囲の50人から200人の人間がその光を感じるはずです。
そうして光の連鎖が始まれば、世の中が変わるということもさほど難しいことではないように思えてきます。
もちろん禅では「光を宿す」というような神秘めいた物言いはしません。
自分で自性というものをはっきりくっきり見るだけです。
雲が吹き払われて月が姿を現すように、勘違いやら思い込みの雲が吹き払われて、自分というものの姿をきっぱりと見ます。
こんな経験は、日常生活においては滅多にできるものではありません。
興味のある方はぜひともチャレンジして欲しいものです。
本格的な禅の修行が、数百円とか千円のレベルの出費で体験できます。
仕事を持った在家の人が対象ですから、夜だけの出席、あるいは早朝だけの出席でもかまいません。
坐禅の姿は、要するに仏様の姿になることです。
仏様の姿になって、仏様のような心に落ち着き、仏様のような呼吸をすることです。
この濁世でへとへとに疲れ果てるのも生き方ですが、心と静まり返った道場で、仏様の姿になりきるのも一興ですよ。
花祭りはお釈迦様の四月八日の誕生日を祝ったお祭りです。
天と地を指差したお釈迦様の像に甘茶を掛けてその恩徳に感謝します。
お釈迦様の周囲には花びらをびっしりと敷き詰めていました。
菜の花の黄色がとても鮮やかでした。
空は快晴で、とても気持ちのよい風が吹いていました。
道場の敷地内にある小高い丘に敷物を敷いて、めいめいが用意した料理を肴に宴会です。
例によって、最後のほうの記憶はありません。
気がついたときには、店の事務所で寝ていました。
今週末から、福岡で3日間の参禅会があります。
北九州や熊本には立派な支部があるのですが、どういうわけか福岡には支部がありませんでした。
総裁老師の肝いりで、福岡の禅会を興隆させるべく、団員一動がんばらないといけません。
11日の3時から、アクロスで総裁老師の講演と、数息観(呼吸法)のレクチャーがあります。
坐禅は、心を整え、身体を整え、息を整えて、初めて三昧に入ります。
息の整え方が、初心のうちはよく要領が飲み込めないものです。
興味のある方は、ぜひご参加ください。
受講料は無料です。
参禅会の初日には、三名の入団式があります。
そのうちの二名は、ぼくが道場に誘って連れて行った人です。
だれでもかれでも入団が許されるわけではありません。
最初の関門を透過(いわゆる見性)した者に入団が許されます。
見性とはなにかを語ることは許されてもいないし、語ることもできませんが、とにかく一生消えることのないある核心を持ちます。
誰がなんといおうが、決して消えることのない光が胸に灯ります。
その光を抱いて、死ぬまで修行が続くわけですが、闇雲な修業とはぜんぜん別物になります。
修業の進展の度合いに係わらず、その光だけは輝き続けるからです。
今度その三名がその光を胸に宿したわけです。
これはとても嬉しいことです。
ぼくはいつも思うのですが、一人の人間の周囲には、50~200人の人間がいるはずです。
一人の人間が輝けば、周囲の50人から200人の人間がその光を感じるはずです。
そうして光の連鎖が始まれば、世の中が変わるということもさほど難しいことではないように思えてきます。
もちろん禅では「光を宿す」というような神秘めいた物言いはしません。
自分で自性というものをはっきりくっきり見るだけです。
雲が吹き払われて月が姿を現すように、勘違いやら思い込みの雲が吹き払われて、自分というものの姿をきっぱりと見ます。
こんな経験は、日常生活においては滅多にできるものではありません。
興味のある方はぜひともチャレンジして欲しいものです。
本格的な禅の修行が、数百円とか千円のレベルの出費で体験できます。
仕事を持った在家の人が対象ですから、夜だけの出席、あるいは早朝だけの出席でもかまいません。
坐禅の姿は、要するに仏様の姿になることです。
仏様の姿になって、仏様のような心に落ち着き、仏様のような呼吸をすることです。
この濁世でへとへとに疲れ果てるのも生き方ですが、心と静まり返った道場で、仏様の姿になりきるのも一興ですよ。