店を閉めて、ジムに行こうと思ったらジムは休みでした。
しかたないので、角打(立ち飲み屋)に行って、ビールを飲みました。
そこの角打は場所がいいのか、勤め人やら老婆やらギャルやらなんやらで混んでいました。
老婆が時々「あっちへ行け、この馬鹿~」とか奇声を上げます。
禅で心を鍛えているぼくは動じません(笑)
この街はいろんな人がいます。
労働者、非生活保護者、やくざやさん、破綻者、ごたまぜです。
いろんな人がいろいろな人生を歩んでいます。
ぼくは権威やお金に尻尾を振る気は毛頭ないのですが、訪れたビジネスチャンスはきっちりと形にしたいとは思っています。
なにせアンティークの市場はものすごく狭いもので、滅多にないチャンスを逃し続けたら、とうてい生き残れません。
だから、買う気のあるお客さんにはそのときだけですが全神経を集中します。
逆に言えば、買う気のないお客さんや、冷やかし、ただのおしゃべりさんには、全神経を解散します(笑)
本来邪道ですが、この街だから可能なスタイルなのかもしれません。
もちろん、商売というのはそういうのが理想形ではありません。
買う買わないを抜きにして、人間関係を深く確かなものにしていくのが、本道です。
定期的にご挨拶に伺い、盆暮れのお付き合いをきちんとし、心躍るようなイベントごとを催して、生活を潤してもらう。
それは、そのとおりです。
呉服屋さんという人たちは、いまだにそういう商売の形をきっちり守っていますから、不景気とはいえお客さんは離れません。
いまだに生き残っている呉服屋さんなんかの商売のしきたりを守る情熱は素直に感心させられます。
正直に言って、そういう本道を守る余裕が、経済的にも心理的にも持ちようがありません。
ただ、ぼくの強みというかなんというか、貧乏になるのならなればいいという諦念が底にあります。
お金が入れば、商売を発展させられ、より多くの人と係われる喜びというのもありますが、強いてそれを望みません。
貧乏になるのもよし、お金が入るのもよし、全てよしの精神で行きたいわけです。
こういうのは、お客さんからすれば、あるいはとても不愉快なやり方なのかもしれません。
全くもってお客さん第一ではないからです。
ぼくはお客さん第一では全然ありません。
うちのお店のお客さんならだれでも首が折れるほど頷くような話です。
でも、限られた共に過ごす時間を、これ以上ないくらいに豊かなものにしたいという志は持っています。
商品を媒介としたほんの短い時間ですが、そこに凝縮された溢れんばかりのコミュニケーションを可能にしたいとは思っています。
商品も媒介なら、ぼく自身も媒介です。
なにの媒介か、が問題です。
目指すところは、「本当のもの」の媒介になれれば、本望です。
それが叶おうが、叶うまいが、それしかぼくの興味はありません。
逆に言えば、その人がお金を持っているかどうかが問題ではありません。
その人の志と、ぼくの志がどう交わることができるかということに尽きます。
商売をしていて、こういうことを言うのはなんですが、まぁそういうことです。
どうせなら、商売を通じてもお互い真剣勝負をしたほうが、生きるというゲームのうえでスリリングだと思うのです。
だからお金持ちからは嫌われがちです。
お金を持っていない人からは、もっと嫌われているかもしれません。
ぼくは決して誰をも嫌ってはいないのですが(笑)
しかたないので、角打(立ち飲み屋)に行って、ビールを飲みました。
そこの角打は場所がいいのか、勤め人やら老婆やらギャルやらなんやらで混んでいました。
老婆が時々「あっちへ行け、この馬鹿~」とか奇声を上げます。
禅で心を鍛えているぼくは動じません(笑)
この街はいろんな人がいます。
労働者、非生活保護者、やくざやさん、破綻者、ごたまぜです。
いろんな人がいろいろな人生を歩んでいます。
ぼくは権威やお金に尻尾を振る気は毛頭ないのですが、訪れたビジネスチャンスはきっちりと形にしたいとは思っています。
なにせアンティークの市場はものすごく狭いもので、滅多にないチャンスを逃し続けたら、とうてい生き残れません。
だから、買う気のあるお客さんにはそのときだけですが全神経を集中します。
逆に言えば、買う気のないお客さんや、冷やかし、ただのおしゃべりさんには、全神経を解散します(笑)
本来邪道ですが、この街だから可能なスタイルなのかもしれません。
もちろん、商売というのはそういうのが理想形ではありません。
買う買わないを抜きにして、人間関係を深く確かなものにしていくのが、本道です。
定期的にご挨拶に伺い、盆暮れのお付き合いをきちんとし、心躍るようなイベントごとを催して、生活を潤してもらう。
それは、そのとおりです。
呉服屋さんという人たちは、いまだにそういう商売の形をきっちり守っていますから、不景気とはいえお客さんは離れません。
いまだに生き残っている呉服屋さんなんかの商売のしきたりを守る情熱は素直に感心させられます。
正直に言って、そういう本道を守る余裕が、経済的にも心理的にも持ちようがありません。
ただ、ぼくの強みというかなんというか、貧乏になるのならなればいいという諦念が底にあります。
お金が入れば、商売を発展させられ、より多くの人と係われる喜びというのもありますが、強いてそれを望みません。
貧乏になるのもよし、お金が入るのもよし、全てよしの精神で行きたいわけです。
こういうのは、お客さんからすれば、あるいはとても不愉快なやり方なのかもしれません。
全くもってお客さん第一ではないからです。
ぼくはお客さん第一では全然ありません。
うちのお店のお客さんならだれでも首が折れるほど頷くような話です。
でも、限られた共に過ごす時間を、これ以上ないくらいに豊かなものにしたいという志は持っています。
商品を媒介としたほんの短い時間ですが、そこに凝縮された溢れんばかりのコミュニケーションを可能にしたいとは思っています。
商品も媒介なら、ぼく自身も媒介です。
なにの媒介か、が問題です。
目指すところは、「本当のもの」の媒介になれれば、本望です。
それが叶おうが、叶うまいが、それしかぼくの興味はありません。
逆に言えば、その人がお金を持っているかどうかが問題ではありません。
その人の志と、ぼくの志がどう交わることができるかということに尽きます。
商売をしていて、こういうことを言うのはなんですが、まぁそういうことです。
どうせなら、商売を通じてもお互い真剣勝負をしたほうが、生きるというゲームのうえでスリリングだと思うのです。
だからお金持ちからは嫌われがちです。
お金を持っていない人からは、もっと嫌われているかもしれません。
ぼくは決して誰をも嫌ってはいないのですが(笑)