今日は雲ひとつない空が広がりました。
気温も高めで、こういう日を小春日和というのでしょうか。
そういえば、井上陽水に「小春おばさん」という歌がありました。
「小春ぅ~、おばさん~、会いに行くよぉ~、明日ぁ~、必ずぅ~、会いに行くよぉ~」という歌詞でした。
なんで小春おばさんに会いに行くのに絶叫調で歌うんだろうと思ったものです。
たぶん陽水が絶叫したかった。
それに尽きるんだと思います。
何かをしたいと思うのにたいていは意味などありません。
意味がないと不安になるという自意識過剰気味な現代人ですから、意味を後付するだけです。
誰かに説明できない行為をするというのは勇気がいるようになりました。
電車で席を譲るにも、目が合った人に微笑みかけるのも、そうしようとする自分の行為の説明が出来なければ、
具体的な行動に移すのに躊躇してしまいます。
躊躇する自分を説き伏せるほど強力な意味づけなど出来そうもありません。
だから目を伏せて、何ごともなかったのように状況をやり過ごします。
意味があるから行動すると思うと、意味など相対的なものでどうにでもこじつけられるものですから、行動に迷いが生まれます。
したほうがいいといえばいいだろうし、しなくてもいいといわれればしなくてもいいだろうし、という感じになります。
こうなると、しようと思ったその瞬間は常にはるか後方に過ぎ去っています。
で、結局、頭であれやこれやとこねくり回す徒労感ばかりが残り、意味ある行動には踏み出せないままに終わります。
そうではないです。
行動を起こしてこそ、はじめて意味が生まれます。
席を譲るかどうかを迷うのは、個人の内部で「迷う」というなにも生み出さない消え行く心理的現象が明滅するだけです。
譲るかどうかという迷いをスパリと切り捨てて、現に席を譲れば、譲った自分の心理的変化が生まれ、
譲られた人間の表情や言葉やしぐさから更なるフィードバックを貰い、それを見ていた周囲の人間にも何かを感じさせます。
実際に何かが動いていくのを意味というなら、行動を伴わない個人の心理の動きは、自己満足は可能であれ、無意味です。
したいと思ったらしたいようにすればいいのです。
もちろん、その行動が周囲から思わぬ不興を買い、心理的ダメージを食らうこともあるでしょう。
そのときはそのときです。
それだって、行動に移してみなければ決して学べなかった貴重な教訓です。
そういう教訓を積み重ねてこそ、するべきこと、すべきでないことが見えてくるのだと思います。
失敗というのは、失敗しないための教訓を得る貴重な体験です。
失敗を恐れて行動に移すことを恐れる人は、目前の行為に失敗しないかもしれませんが、
人生という奥深いゲームには失敗するかもしれません。
失敗がいけないのではありません。
人生に対して、恐れを抱くことが萎縮の始まりであり、自信の喪失になるのであり、喜びが失われていく元となっていきます。
何も最初から一か八かの博打を打つ必要はありません。
これは自分のためにも人のためにも良いと思ったことから、思った瞬間に行動に移す癖をつけるといいと思います。
気持ちよく挨拶するとか、目に付いたごみを拾うとか、意味もなくにこっと笑うとか。
自分がしたいと思ったことが人のためにもなり、自分のためにもなるという感じになれば、いらぬことでくよくよ迷うことはなくなります。
すればするほど自分も人も心豊かになるだけなのですから。
迷うことをもって、「考えている」というふうに自認するする人は気をつけたほうがいいです。
迷いは迷いです。
どこにも行けません。
考えるべきことは他にもたくさんあるのですから。
気温も高めで、こういう日を小春日和というのでしょうか。
そういえば、井上陽水に「小春おばさん」という歌がありました。
「小春ぅ~、おばさん~、会いに行くよぉ~、明日ぁ~、必ずぅ~、会いに行くよぉ~」という歌詞でした。
なんで小春おばさんに会いに行くのに絶叫調で歌うんだろうと思ったものです。
たぶん陽水が絶叫したかった。
それに尽きるんだと思います。
何かをしたいと思うのにたいていは意味などありません。
意味がないと不安になるという自意識過剰気味な現代人ですから、意味を後付するだけです。
誰かに説明できない行為をするというのは勇気がいるようになりました。
電車で席を譲るにも、目が合った人に微笑みかけるのも、そうしようとする自分の行為の説明が出来なければ、
具体的な行動に移すのに躊躇してしまいます。
躊躇する自分を説き伏せるほど強力な意味づけなど出来そうもありません。
だから目を伏せて、何ごともなかったのように状況をやり過ごします。
意味があるから行動すると思うと、意味など相対的なものでどうにでもこじつけられるものですから、行動に迷いが生まれます。
したほうがいいといえばいいだろうし、しなくてもいいといわれればしなくてもいいだろうし、という感じになります。
こうなると、しようと思ったその瞬間は常にはるか後方に過ぎ去っています。
で、結局、頭であれやこれやとこねくり回す徒労感ばかりが残り、意味ある行動には踏み出せないままに終わります。
そうではないです。
行動を起こしてこそ、はじめて意味が生まれます。
席を譲るかどうかを迷うのは、個人の内部で「迷う」というなにも生み出さない消え行く心理的現象が明滅するだけです。
譲るかどうかという迷いをスパリと切り捨てて、現に席を譲れば、譲った自分の心理的変化が生まれ、
譲られた人間の表情や言葉やしぐさから更なるフィードバックを貰い、それを見ていた周囲の人間にも何かを感じさせます。
実際に何かが動いていくのを意味というなら、行動を伴わない個人の心理の動きは、自己満足は可能であれ、無意味です。
したいと思ったらしたいようにすればいいのです。
もちろん、その行動が周囲から思わぬ不興を買い、心理的ダメージを食らうこともあるでしょう。
そのときはそのときです。
それだって、行動に移してみなければ決して学べなかった貴重な教訓です。
そういう教訓を積み重ねてこそ、するべきこと、すべきでないことが見えてくるのだと思います。
失敗というのは、失敗しないための教訓を得る貴重な体験です。
失敗を恐れて行動に移すことを恐れる人は、目前の行為に失敗しないかもしれませんが、
人生という奥深いゲームには失敗するかもしれません。
失敗がいけないのではありません。
人生に対して、恐れを抱くことが萎縮の始まりであり、自信の喪失になるのであり、喜びが失われていく元となっていきます。
何も最初から一か八かの博打を打つ必要はありません。
これは自分のためにも人のためにも良いと思ったことから、思った瞬間に行動に移す癖をつけるといいと思います。
気持ちよく挨拶するとか、目に付いたごみを拾うとか、意味もなくにこっと笑うとか。
自分がしたいと思ったことが人のためにもなり、自分のためにもなるという感じになれば、いらぬことでくよくよ迷うことはなくなります。
すればするほど自分も人も心豊かになるだけなのですから。
迷うことをもって、「考えている」というふうに自認するする人は気をつけたほうがいいです。
迷いは迷いです。
どこにも行けません。
考えるべきことは他にもたくさんあるのですから。