風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

坐禅会

2008年01月11日 | 雑感
今日ビル内の掲示板を見ていたら、一週間の坐禅会の案内チラシが張ってありました。
問い合わせたところ、在家のための坐禅会であるから一日だけの参加でも、夜だけの参加でもOKとのことでした。
それもなんと明日からです。
本来は泊り込みですが、通いで夜だけ行ってこようと思います。
その一週間が明ける日に、新しい店もオープンです。
なんだか巡り合わせのような気がしています。
坐禅をどこかで本格的に組みたいとこのごろずっと思っていたものですから、嬉しいです。

あちこちから老師方が来て、本物の提唱も伺えるみたいです。
こんなチャンスはなかなかありません。
いや~、今日チラシを偶然見て本当によかったです。

道元禅師という人は決して悟りを求めて坐るなと説いた方です。
ようやくこのごろその意味が分かりかけてきました。
悟りに拘るのも心の汚染です。
悟る悟らない以前の塵一つない鏡のような心になろうがなれまいが、ただ坐る。
この辺りを説明しようとすると膨大な文字が必要になりますので、とにかく坐ってこようと思っています。
夜だけちょこっと坐りに行くのも、またぼく向きなわけでして。

ぼくにとっては道が大きく開けた感じです。
滝行もぼくにとって大きな意味がありましたし、多くの人々に経験してみることを勧めますが、
禅の目指す境地というのを味わいたくなっていました。

滝行でも我々の導師は「思いを捨てろ」というところに狙いを定めてくれています。
思いを捨てて、瞬間に水と一体となるということは、「今」になりきるということに通じます。
それは禅の修業でも全く同じといえば同じです。
禅では呼吸と一体となることで、「今」になりきろうとします。
滝行ではせいぜい数分でその瞬間を掴もうとしますが、禅では日常生活のすべての瞬間を「今」で埋め尽くそうとします。
これは比較するような話ではなくて、それぞれがそれぞれの味わいの深い境地があるということです。

滝行にしても、坐禅にしてもそういう古来からの行法を守り伝えてくださる方々の教えに触れ、導かれることができるというのは、
決して書物を読んだだけでは味わえません。
経験というのは肉体を持つ意味・ありがたさの最たるものですが、宗教的な体験というのはその中でも特別なものです。

ありがたい話です。






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1 コメント

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めぐりあわせ? (りのすK)
2008-01-16 22:57:08
 こんばんわ。
二号店開店が迫っている時に「めぐりあわせ」と座禅会に参加できるその度胸は驚きですね

でも新店舗店長は
「仕事も修行のうちだと思うのだけど。でもねえ~」と呆れ気味でした。

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