風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

瞬間

2007年03月12日 | 雑感
昨日は快晴、山に登ってきました。
陽光はかなり強くなっているのですが、何せ冷たい風が強かったです。
頂上では着ていたウインドブレーカーがバタバタ言って、もう大変でした。
ぺらぺらのウインドブレーカーの下は綿のスエット上下だけでしたが、不思議と寒さは感じませんでした。
ほっぺたが冷たくなっているのは自分でも分かりましたが、心地いいくらいでした。

信じてもらえないでしょうが、山全体が犬の糞の臭いが漂っていました。
そういえば、市街地近郊の低山ですから、犬連れの登山者によく会いました。
山でも犬の糞を拾えとは思いませんが、まぁあれです。
雨も降らないし、気温が低いので糞の分解も進まないせいでしょう。

山に登るたびに目に付いたゴミはポケットに入れて持って帰るようにしてました。
以前のように、ポリ袋ごと捨てて帰るような人はいなくなりましたが、それでもキャンデーの包み紙などは結構あちこちに見られました。
わざと捨てたのではなく、キャンデーを口に入れるときに風に飛ばされたかなんかしたのでしょう。
でも、昨日は唯の一つも見当たりませんでした。

多少のゴミがあっても犬の糞の臭いのしない山と、ゴミがなくても犬の糞の臭いのする山。
なかなか完璧というのは難しいです。

下品な話ですみません。

話は変わりますが、心というのは、なんというか厄介ですね。
ある体験なり感動なりを通じて、きれいさっぱり汚れや澱みが流れ出たと思っても、
次の日からは着実に新たな汚れや澱みが積み重なっていきます。
自分ではそんなことには気が付かず、すっかりきれいな心になっているつもりなもんですから、あれっと驚きます。
近くの山の様に、知らず知らずのうちに、ゴミや犬の糞が積み重なります。←シツコイ

汚れや澱みの原因ははっきりしています。
欲と怠け心です。
欲というのは、その目的達成のためにはいろいろな形にそのあり方を変えますから、なかなか正体を現しませんが、問題は怠け心です。
これはもう言い訳のできないはっきりした行為となって現れます。
「まぁいいか」「今度しよう」「今でなくてもいいか」等々のおなじみのフレーズを伴います。

怠け心の問題点は、生きるというのは瞬間瞬間の積み重ねであるのに、その瞬間瞬間をまったく無駄なものにしていくということです。
酒を飲みながらテレビを見ていても、何一つ得るものはありません。
逆に言えば、することをしようと思ったら、酒を飲んでテレビを見る時間はなくなるわけです。
テレビというのは何か内容がありそうに見えて次の日にはなにも覚えていないような内容のものがほとんどです。
言うまでもありませんが、ブラウン管に流れる画像を受動的に見ていても、自分の人生とは何の関係もありません。
ブラウン管に流れるのは、どこかの他人のどうでもいい人生です。
でも、テレビを見ているとそれに自分も参加している気になるから、危ういんですね。

思ったら、取り掛かる。
そういう癖が付いたら、なんか悩みというのはなくなりそうです。
難題や一苦労はありそうですが、悩みという種類の心の葛藤はなくなりそうです。
もともと悩みというのは、心に沈殿する泥みたいなものなのかもしれません。
心に溜まった泥に心自ら捕われる。
そうして、さらに溜まった泥が深くなる。
溜まった泥を一気に掻き出すことができればいいのですが、特殊な修行でもしない限り、そうはできないのが心みたいです。

瞬間をおろそかにするものは、生全体から復讐される。
今日のマイ格言でした。