風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

お宮

2007年03月31日 | 雑感
どうやらやっと迷路から抜け出た感じです。
次のステップのために必要な迷路ではあったのですが、なかなか苦しかったです。

ポイントは「受け入れる」でしょうか。
受け入れてみるとか、受け入れてやるというのではなく、静寂な心で持って「受け入れる」。
これは物事、事態をはっきり見つめないと、できることではありません。
物事、事態をはっきり見つめるということが、普段しているようで案外出来なかったりします。

こんな時は人の助けがいります。
人の目を通して見た物事、事態。
自分の目を通して見たそれと、人の目を通して見たそれとの違いを通じて、意識の修正が可能になります。

実は、店が物置小屋のようになっていました。
それでも来ていただける人には来て頂いていたので、気にすることもなく放置していました。
外界は内面の反映だと偉そうに言っている人間が、自分の居場所である店をだらしなく放置していました。
で、昨夜、うなぎを食べながらあるお客さんからいろいろ深いところまで突っ込まれまして、とうとう気が付きました。

職場なり、家庭なり、その人の生業を支える場所は、その人の「お宮」であると。
お宮をさんざん穢し放題にして、その人が栄えることはありません。
お宮に生清澄な気が張っていれば、人の心も清清しくなるでしょうし、濁れば、またその如しです。

お客さんは言いました。
「酔っ払いの職人さんでも、自分の職場はきちんと片付け、手入れしているはずだ。だからこそ、人は彼に仕事を頼み、
 彼も自分の仕事に誇りを持てる。あなたはなんですか。ショーケースだって前の日のコーヒーをこぼした跡がそのままだし、
 窓だって何ヶ月も拭いていない。せっかくの商品を殺しているのはあなたです。スーツも着てこないし、だらしがない。
 人の役に立ちたいなどと言うが、だれがあなたみたいなだらしのない人に助言を求めますか?そう思うのなら、
 あなたがちゃんとしなさい。あなたが光りなさい。自分を安売りしてはいけません」

耳が痛かったです。
自分で自分の居場所を汚しておいて、人の心の役に立ちたいなどとタワゴトを吹いていたわけです。

商売といえども、人が集まるところは「お宮」なのだと気が付きました。
ぼくはそのお宮の神主さんです。
毎日箒で境内を掃き清め、水を打ち、来ていただける方々の心が気持ちよくなれることがぼくの仕事です。
神主さんは、人に来ていただこうが、来ていただけなかろうが、毎日境内を清掃し、水をまき、感謝を捧げます。
そういう気持ちがあって、初めて神社はあの清澄な気が漲ります。

だらしのない甘えは気が濁り、濁った波動は即座に伝わります。
他人の波動には敏感なくせに、自分の発する波動にはこうも鈍感なものかと、深く反省させられました。

はぁ~。
うんざりするほど、未熟です。
明日は休日返上で大掃除をしようと思っています。