風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

悟り

2007年03月30日 | スピリチュアル
世界が意味で充ちていたら窮屈で窒息するだろう。
意味の通りに生きていかなくちゃならないから。
どんな無責任な想念でも虚空に意味を作り出せるから、
人の世は面白い、ありがたい。

ただ、この世を自分の想念で創りだしていることを知らない人はさらに不自由だ。
自分の想念に自分を縛り付けている。
楽しい、嬉しい世の中は、この瞬間自分で作り出せることを知れば、
人は自由自在になる。
それだけのことを、それだけのことと知る潔さが必要だ。

悟った後はどうでもいい。
どうこうしなければというのが、想念の罠。
童と手毬をつく尊さよ。


以上は、ある掲示板に書いた「悟り」についいての文章です。
悟ってもいない者が、「悟り」について書くなどというのは噴飯ものかもしれませんが、
「悟り」を深遠すぎる境地においてしまうと、普段生きている人に無縁な境地となってしまう恐れもあります。

要は、自我が認識する「現実」というのは、自分の心が勝手に虚空に投影した幻だということです。
比喩ではなくて、本当にそうなのだと思い知った時が「悟り」なのだと、ぼくは思っています。
素敵な恋をすれば、世の中がバラ色に見え、失恋すれば、世の中は灰色に見えます。
それだけのことなのです。
恋をして喜ぶのは当たり前です。
でも、その喜びの心に執着しすぎると、いつか幻は消え、幻滅することになります。

心をいろいろな執着で一杯にしていますと、その心が見る現実はその執着に従ったものに見えます。
金銭欲で世の中を眺めれば、世の中は儲け話の転がっている賭博場に見えるでしょうし、
権力欲で世の中を眺めれば、人々が自分が動かすべき駒に見えてくるでしょう。

ですから、現実というのは、個々人が思ったとおりの姿を持って現れているということです。
現実が先あるのではなく、思いが思うとおりの現実を作っているわけです。
現実を変えるというのは、その現実という幻を生み出すところの「心」を変えるしかないわけです。

心を「無」にするというのは、その辺りの実際を思い知るための修行であると、ぼくは理解しています。
心を「無」にして、世間を見るとなにが見えるか。
おそらく「無」です。
そうであるならば、心を「喜び」にして世界をみるとなにが見えるのか。
世界は「喜び」として見えるはずです。

心を自在に出来るなら、見たい現実を自在に作れるということです。

ま、理屈かもしれませんが。

今現在の目の前の現実がどう見えるかというのは、そのまま自分の心がどうあるかの反映だということです。
そうすると、世の中がどう見えるが重要なのではなく、世の中をどう見たいのかが全てであるということです。
悲惨だ、辛い、苦しいいと世の中を見る心があるのなら、その心を脇に置き、楽しい、嬉しい心で楽しい、嬉しい世の中を作ればいいのです。

そうは言っても、荒唐無稽な御伽噺にしか聞こえませんよね。
やっぱり、修行が必要なのかなぁ。