昨日は天気も良く、張り切って滝に行きましたが、思ったより水が冷たかったです。
体がすっかり戻ってしまっている感じです。
ちょっとまとめて滝に通う必要がありそうです。
これから初夏にかけての滝は一年中で一番気持ちがいいので、どうにかしたいです。
寒い時は遠慮しておこうなどと、不埒な考えをしていたので、そのツケです。
それでも、滝場を去るとき、振り返って見た滝場に陽射しが降り注ぎ、虹がかかっていました。
頭で考える、いわば理念としての感謝と、心に湧き上がってくる感謝というのは当然別物です。
感謝しなければならないとは思うのですが、湧き上がるような感謝を常に心に抱いているわけではありません。
滝行の「行」に入り後半にもなると、不思議と感謝が湧き起こってきます。
おそらく、「行」を通じて普段心を占めている「我」を捨てるから、自然と感謝が心に入り込むのだと思います。
我の感謝というのは、損得における得に対する感謝です。
無我の感謝というのは、自分の存在そのもの、自分という存在を支えるすべてのものに対する無条件の感謝です。
「行」をすれば人格が高まるかといえば、全然そんなことはないと思います。
「行」を終えたとたんに、いつもの我が顔を出し、あれこれ不平を言い出します。
ただ、「行」をした時に感じた存在そのもに対する感謝の感覚はきっちりと心に刻まれますので、
自分が停滞したように感じるときは、その境地に立ち戻ろうとすることが出来ます。
立ち戻る地点があるのだと思うことが出来るだけでも、大いにありがたいことです。
禅の世界で大悟したという人は、大歓喜の渦に巻き込まれるような感じがすると言います。
禅の世界では、滝行などに比べても、さらに執拗に、徹底k的に「我」を排していきますから、
きれいさっぱりと「我」という幻を心の中から掃き清めてしまったら、大歓喜が心の中に入り込むのかもしれません。
我をなくすことはおそらく出来ませんが、我にコントロールされずに生きていけたらいいです。
そのためには、我をなくした経験が必要だから、「行」というものがあるのでしょう。
なにも特別な「行」が必要不可欠でもないのかもしれません。
仕事を通じて、子育てを通じて、大地を耕すことを通じて、「我」のコントロールを身につけていく人も一杯いるのでしょう。
いすれにせよ、さらさらと喜びと感謝を持って生きていければ言うことがないわけです。
生にしがみつく必要もなければ、死を恐れることもない。
ただ毎日をありがたいと思って生きていく。
あんまり生真面目でもいけないかもしれません。
自分も笑い飛ばすユーモアが大事かもしれません。
昨日の夕方からはネネさん主催の宴会でした。
ネネさんのマネージャーさんが長年勤めていた職場を晴れて卒業ということで、そのお祝いです。
祇園太鼓やら阿波踊りやら万歳ゲームやら、ネネさんらしい趣向を凝らした楽しい宴会でした。
心優しい人たちが集まると、独特の暖かい雰囲気になります。
実を言うと、今までそういう感じの雰囲気というのはどうも照れくさくて苦手だったのですが、昨日は溶け込もうと努力しました。
ぼくにとっての別の意味での「行」なのかもしれません。
人は馬鹿げた理由で「行」を迫られるものです。→それはお前だけ>おれ
体がすっかり戻ってしまっている感じです。
ちょっとまとめて滝に通う必要がありそうです。
これから初夏にかけての滝は一年中で一番気持ちがいいので、どうにかしたいです。
寒い時は遠慮しておこうなどと、不埒な考えをしていたので、そのツケです。
それでも、滝場を去るとき、振り返って見た滝場に陽射しが降り注ぎ、虹がかかっていました。
頭で考える、いわば理念としての感謝と、心に湧き上がってくる感謝というのは当然別物です。
感謝しなければならないとは思うのですが、湧き上がるような感謝を常に心に抱いているわけではありません。
滝行の「行」に入り後半にもなると、不思議と感謝が湧き起こってきます。
おそらく、「行」を通じて普段心を占めている「我」を捨てるから、自然と感謝が心に入り込むのだと思います。
我の感謝というのは、損得における得に対する感謝です。
無我の感謝というのは、自分の存在そのもの、自分という存在を支えるすべてのものに対する無条件の感謝です。
「行」をすれば人格が高まるかといえば、全然そんなことはないと思います。
「行」を終えたとたんに、いつもの我が顔を出し、あれこれ不平を言い出します。
ただ、「行」をした時に感じた存在そのもに対する感謝の感覚はきっちりと心に刻まれますので、
自分が停滞したように感じるときは、その境地に立ち戻ろうとすることが出来ます。
立ち戻る地点があるのだと思うことが出来るだけでも、大いにありがたいことです。
禅の世界で大悟したという人は、大歓喜の渦に巻き込まれるような感じがすると言います。
禅の世界では、滝行などに比べても、さらに執拗に、徹底k的に「我」を排していきますから、
きれいさっぱりと「我」という幻を心の中から掃き清めてしまったら、大歓喜が心の中に入り込むのかもしれません。
我をなくすことはおそらく出来ませんが、我にコントロールされずに生きていけたらいいです。
そのためには、我をなくした経験が必要だから、「行」というものがあるのでしょう。
なにも特別な「行」が必要不可欠でもないのかもしれません。
仕事を通じて、子育てを通じて、大地を耕すことを通じて、「我」のコントロールを身につけていく人も一杯いるのでしょう。
いすれにせよ、さらさらと喜びと感謝を持って生きていければ言うことがないわけです。
生にしがみつく必要もなければ、死を恐れることもない。
ただ毎日をありがたいと思って生きていく。
あんまり生真面目でもいけないかもしれません。
自分も笑い飛ばすユーモアが大事かもしれません。
昨日の夕方からはネネさん主催の宴会でした。
ネネさんのマネージャーさんが長年勤めていた職場を晴れて卒業ということで、そのお祝いです。
祇園太鼓やら阿波踊りやら万歳ゲームやら、ネネさんらしい趣向を凝らした楽しい宴会でした。
心優しい人たちが集まると、独特の暖かい雰囲気になります。
実を言うと、今までそういう感じの雰囲気というのはどうも照れくさくて苦手だったのですが、昨日は溶け込もうと努力しました。
ぼくにとっての別の意味での「行」なのかもしれません。
人は馬鹿げた理由で「行」を迫られるものです。→それはお前だけ>おれ
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