風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

澤木興道

2007年03月05日 | スピリチュアル
今日は高名な禅師であった澤木興導師の言葉を紹介します。
以下引用。

宗教とは何ものにもダマサレヌ真新しの自己に生きることである。

オイ、どっちゃ向いとるんじゃ。藪にらみみたいな目をして。お前自身のこっちゃ。

ケツの穴だからというて卑下せんでもいい。足だからというてストライキやらんでもいい。頭が一番エライというのでもない。ヘソが元祖だというていばらんでもいい。
総理大臣が一番エライと思うておるからオカシイ。目の代わりを鼻ではできぬ。耳の代わりを口ではできぬ。みな天上天下唯我独尊である。

一切衆生は唯我独尊じゃ、自分が自分を生きるよりほかはないんじゃ。それをどうして見失うたか。
世間の見本が悪いからじゃ。常識といい、杜会意識といい、党派根性といい、一切合財みんな見本が悪すぎる。

徳川時代の儒者は、「釈迦という奴は傲慢な奴じゃ。天上天下唯我独尊などと言いおって」と言うておるが、そうじゃない。
天上天下唯我独尊はお釈迦さまばかりではない。だれでもかれでもみんな天上天下唯我独尊じゃ。 
 それを天上天下唯我独尊をもち歩きながら愁嘆いうとるだけじゃ。
天上天下唯我独尊を、自分において実現するのが、仏道である。

泣き顔をヤメイ。ちっちゃな気で「オレはツマラヌ」と思い、「ヒトはエライ」と思うて泣き顔してコセコセして。そしてちょっとツマルと調子づきやがって。

宗教をもって生きるとは自分で自分を反省し反省し、採点してゆくことである。

なにごともヨソゴトみたいな顔している人間。

自分で「自分をみくびる」ことがないようでは、信仰も懺悔もない。

このごろグレン隊やら何やらが悪いことしてつかまると、「環境が悪いので」とか何とか言いおる。
いったいどんな環境がよくて、どんな環境が悪いのか。金持ちの息子に生まれれば悪いのか、貧乏人に生まれればいいのか。
だいたい男一匹に生まれて「自己がない」ということこそ、真に環境が悪いんじゃ。

ようつつしんで親だとか先祖だとか背景だとかで、値うちをもたそうとしてはならぬ。金や地位や着物で味をもたせてはならぬ。自分で生きてゆかねばならぬ。現ナマじゃ。宗教とは現ナマの自分で生ききることじゃ。

世の中はヒトやヨソモンを背景にして自分をエラク見せようとする。味ないものを、皿で味をもたすようなもんじゃ。
そんなことで世間では、人問を見失う。

宗教には連帯責任ということはない。私一人である。

凡夫は見物人がないとハリアイがなくなる、見物人さえあれば火の中にまで飛び込む。

世の中に表彰ということがあるが、ロクなことではない。表彰されると「はばかりながら……」という染汚がおこりがちだから。

世の中、競走とか勝負とかいうようなオカシナことがあるべきではない。オレはオレなんじゃ。絶対比較なし。

今は学校の教育からしてワルイわい。試験して、点数をつけて、人間に等級をつけ、番号をつける。こんなバカなことはない。いったいどんなのがエライのか、どんなのがエラクナイのか。モノオボエのいい者がいいのか。
モノオボエの悪いのが悪いのか。モノオボエのいいバカも、いくらだっているではないか。それにビリの番号をつけられた者なんか、「わい、ツマソナイ」と、一生ひがんでしまう者もおる。そのひがむことこそ、ツマソナイ。

人から番号をつげてもらって喜ぶな。自己をもて。自己がわからず、人から評価してもらったり測ってもらったりして、喜んだり、ひがんだり。

わしは人をほめたことはない。みんなよいところは自分でちゃんと知っておるから。しかも中味以上に知っておる。

ネズミが子供につかまえられて、ナブリモノにされ、コブチ(ネズミ取り)の中でバタバタ、バタバタ……鼻はすりむけ、尻尾がちぎれ、それで最後に猫の鼻先につきつけられて、食われてしまう。
わしが、この場合ネズミならと思うことがあるな。「畜生、だれが人間の奴のナブリモノなんかになるもんか」と、コブチの中で坐禅していてやるな。

よそ見なしが成仏である。よそ見がやんで、はじめて飯もだまって食える。

仏道とはよそ見せんこと。そのものにナリキルことである。これを三味という。飯を食うのはクソをするためではない。クソをするのはコヤシをつくるためでない。ところがこのごろは、学校へ行くのは上の学校へ行くため、上の学校へ行くのは就職するため、と思うている。

菩提心をおこすとは「よそ見をやめる」ことである。「坊主しよか、坊主やめよか。坊主しよか、坊主やめよか」このよそ見がやんで「ただ正法眼蔵をもって重担となして随処に主宰とならん」(「大智禅師発願文」)とキマッタとき、菩提心をおこしたのである。

よそ見なしに、この肉体を仏道につかうのが、太尊貴生、露堂々(この上なく尊く、行きつく所へ行きついて、はっきりしている)ということである。仏とは「よそ見のやんだ人」である。

なにもよそ見する必要はないのじゃが、無始よりこのかた習慣でチラッチラッとよそ見する。

大人になると妙な癖がついているから言葉ひとつでも大騒ぎしおる。
赤ん坊ならなんともない。赤ん坊に恥をかかそうとしても赤ん坊は恥をかかぬ。
大人ばっかりがはじめっから対立感をもっていて、みずから催眠術にかかっているから、恥をかいたり、腹を立てたりする。
ただマッスグにゆけばいいんじゃ。

「鉄牛(鉄でつくった牛)は獅子吼を恐れず」と言うが、そりゃそうじゃ。生物の弱点がないから。
「木人(木で作った人)、花鳥を見るに似たり」-ここにも自主意識の弱点がない。

人間という奴は頭の早い奴で、化けものを見てはや腰ぬからかして、幻影を見ておびえておる。

現実、現実と言うが、この現実にだまされて大騒ぎしているのである。

自分の生き方が、一生みあたらない奴。

クラガリを手探りでゆくことをやめろ。大手をふって歩ける所で歩け。「夜行を許さず。明に投じてゆくべし」(『景徳伝燈録』十五・投子同章)これが宗教の極則である。

見わたすかぎり自分ぎりで、白分でないものは何にもない。「オレのダルイのを手伝ってくれ。オレのイタイのを代わってくれ」・・・そうはゆかぬ。

三味とは、白分ぎりの自分であり、自性清浄心である。坐禅だけが、白分ぎりの自分であることができる。
坐禅のとき以外はいつでも他人より勝れたい、他人より楽しみたい根性がでてくる。

われわれだれでも世界と一緒に生まれ、一緒に死ぬ。めいめいもっている世界が違うのじゃから。

以上、引用終わり。

禅師らしく、すがすがしく潔い言葉です。
手抜きですが、今日はこのへんで。

自分の道

2007年03月03日 | スピリチュアル
映画「ドリームガールズ」観ました。
テンポのよい進行で、楽しめました。
アカデミー助演女優賞を取った女優の赤ん坊のようにきらきらした目が印象的でした。

昔どこかで、初めて黒人R&Bミュージシャンを生で見たとき、背筋がゾクゾクしました。
声量も身のこなしもパワフルでしなやかで、東洋人はとても敵うジャンルではないと思いました。
逆に、欧米人から見れば、日本人の能の舞などを見れば「クール!」と思うのかもしれませんが。
森進一の「おふくろさん」を聴いても「?」のような気がしますけど。

続々と本が届き、片っ端から読んでいます。
これを読み終わったら、あとはしばらく読む必要はないような感じがしてます。
アウトラインさえ把握しておけば、あとは体験の中でなにかが見えてくるでしょう。
ここ一月で、40冊くらいの本を読みました。
なるほどと思ったことは心にインプットし、よく分からないことやあれっと思ったことは受け流します。
あとは、行動と体験です。

特別な行動や体験が必要なわけではありません。
ありふれた日常の中に、大切な何かがあることを知っていけばいいのだと思います。
生きる時間の密度を濃くし、感じるアンテナを精妙にしていけばいいのだと思います。
なかなかそう簡単に上手くはいかないものですが、そうして行こうと思うことが全ての始まりです。

自分からあれしたい、これしたい、だれそれに会いたいというようなタイプではないので、
流れに任せて、起き行くことを体験していくという感じです。
そんな受身な態度でも充分に学ばされ、経験させられていきます。
受身であれ、積極的であれ、学ぶことは結局一緒のことだったりします。
こうでなければいけない、ああでなければいけないというのが、厄介な落とし穴なのかもしれません。
「すべてはうまくいっている」(by 越智啓子先生)
これが心の底にしっかりと根付くようになれば、どんなことも大抵は上手くいきます。
失敗しても、再度チャレンジすればいいからです。
失敗すらも、必要な経験と捉えられるから、「すべてはうまくいっている」となるのでしょう。

最初から「すべてはうまくいっている」なんていうことは、単なる自分勝手な開き直りか、危うい思い込みにしか思えないこともあるでしょう。
そんなときは、誰か尊敬できる人の行動パターンの真似をはじめるのがいいかもしれません。
真似をしているうちに、あの人とはあれが違う、これが違うと自分の個性に気が付き始めるでしょう。
個性など違っても、目指すところが一緒なら、登るルートが違っていても全然構わなくなるでしょう。
そう思い始めたら、堂々と自分の道を歩き始められます。
自分の道を歩き出したら、目の前になにが起きようが「すべてはうまくいっている」です。
自分の道を歩くということが、ある意味で大目標なのかもしれません。
その道が辛かろうが、楽しかろうが、なんであろうが、「自分の道」だからです。
「自分の道」を歩いて幸せになれないのなら、他人の道を歩いたらなおさら不幸に思うでしょう。
堂々と自分の道を歩いたらいいんです。
困難があれば、越えていけばいいんです。
他の人が歩いている道と比較するから、困惑が生まれます。

と、偉そうなことを書いてますが、すべて自分に向って言い聞かせている言葉でもありますから、ご容赦を。

それから、ある人に聞いた情報です。
今日は満月です。
ボールか何かに水を貯め、その水に満月を写します。
水に映った満月に願い事をします。
その水を家族で分け合って飲むといいそうです。
害はありませんから、試してみたらいかがでしょうか。

それでは皆様、よい週末を!


フィクション

2007年03月02日 | スピリチュアル
あるお客さんから電話があり、「龍が空に出ている」というので川岸まで見に行きました。
そしたらうろこ状の雲が、空にうねっていました。
へ~と思って川岸の階段に座って空を見ていたら、映画帰りの別のお客さんと出会って、一緒に座って空を眺めました。
ついでに一緒に蕎麦を食べ、ぼくの娘の初節句ために描いてくれた素敵な絵を頂きました。
なんか気持ちのいい午後でした。

昨日は昨日で鳳凰かどうかは知りませんが、羽状の雲が朝から晩まで広がっていました。
雲ウオッチャーが静かに増えています。

それから、一昨日書いたブログのよく分からないビジネスの話なのですが、いろいろありまして(ちょっと書き切れません)、
どうやら本当の話だったみたいです。
そうだとしたら、すごい失礼な帰し方をしたわけなんですが、ネネさんは平気でした。
「人を疑わせるようなあの人の顔が悪い」のだそうです。
無敵です。

それから、昨日トンデモ系の本をアマゾンで一気に14冊も注文しました。
早速今日5冊届きました。
ワクワクです。
神様の話とかいうのは、学者の話は詰まりません。
神様の話をしているのに、文献をひたすらいじっているだけで、肝心の神様の話がごっそり抜け落ちています。
古代の人にとっては、神様は心の中にも生活の中にも生きていたわけで、その生きた神様の姿を探りたいわけです。

今手元にある本で、ネネさんの友人のひふみともこさんという人の書いた「神誥記」(今日の話題社刊)というのはお勧めです。
神様というのが人間に対してどういうふうに考え、思っているのかが分かりやすく書かれています。
フィクションか事実かというのは、読んだ人一人一人が感じればいいことだと思います。

いろいろな神示というものを読んでみるにつけ、言われていることは同じだと思います。

以下は、神様云々とかいうのも入っていますから、その手の話がお嫌いな方は読まないでくださいね。
合理的説明を受け付けない類の話ですから。



人間が素直なままなら、明るく楽しく元気にすんなり生きられる。
それでは、魂の「成長」というものがないから、「我欲」というものを人間に与えた。
その我欲のお陰で、人は成長・発展を目指し、文化文明を発達させた。
我欲があろうとも、神様と繋がっているうちは、禊をし、心の穢れというものを取り除こうとすることができたが、
いつの間にか神様との繋がりを忘れ、我欲のエネルギーだけで社会の軸が周るようになった。
心のうちには、知らず知らずのうちに、我欲による穢れ、曇りが蓄積され、不平、不満、妬み、苦しみ、悲しみが蔓延しだした。
このまま行けば、ますます穢れ、曇りが増大する一方であるから、世の中の立て直しをするぞ、と神様が心を決めた。
一人でも多くの人間を、本当はひとり残さず全ての人間を次の世(ミロクの世)に神様は連れて行きたい。
行こうと思えばだれでも行けるから、いまからでも遅くはない、身魂を磨いておけよ。
心が穢れ、曇っていると神の導きが心に入らんから、我欲を離れて、身魂を磨いておけよ。
身魂を磨くというのは、特別なことをするのではなく目の前の日常からだぞ。

そういうことだと思います。

ここでも、フィクションか事実かというのは、どうでもいいことだと思います。
フィクション(思い)を現実化するのを事実というだけのことでしょう。
そのとおりだと思う心もあれば、なにを馬鹿なことを言っているんだという心もあるだけです。
どちらも心、フィクションです。
どんな心(フィクション)を選ぶのも、その人次第です。
その人次第だということを神の恩寵と取るか、そんな苦しい選択をさせる神を恨むか、それもその人の心次第です。

どの神示も言っています。
「人はもともと神だぞ」と。
どう受け取るかだと思います。