風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

迷い

2006年06月08日 | スピリチュアル
梅雨に入りました。
今日も大雨が降っているようです。
都会に降る雨は不快な印象しかありません。
水溜りの水を跳ね上げて走る車、湿度の高い満員電車、ズボンやスカートの裾が濡れ、腿や脛に張り付く、等々。
でも、森や田園に降る雨は、ちっとも不快な印象がありません。
普段躍動する自然が一休みし、じっとたたずんでいる風情で、見ていて飽きません。
雨に煙る竹林が風に揺れる様などは、なかなか迫力があります。
日の光の下で見せる顔とは一味違う自然の顔が見れます。

一体に、人は自然に対して、都合のいい姿ばかりを求めすぎて来た感があります。
四季折々が自然で、光も闇もあるのが自然で、破壊も再生もあるのが自然で、生と死があるのが自然です。
得体の知れない虫も夥しく繁殖するし、腐った沼もあるし、不気味な霊気漂う底知れぬ穴倉もあるわけです。
人の都合で勝手に自然を解釈し、その解釈を無理やり自然に押し付けてきたのでしょう。
19世紀、20世紀と人は自分の利害意識ばかりを発達させ、肥大させてきました。

ぼくも滝行を通じて学びましたが、冷たいだの痛いだのきついだのは、みな人の「思い」が勝手に決めていること(by 導師)。
いや、本当にそうなんです。
だって冷たいものは冷たいじゃないか、苦しいものは苦しいじゃないかと、言われるでしょうが、そうでもないんです(笑)
零度に近い水に打たれながらも、冷たいことなどどうでもいいと思うと、ふっと冷たさが消えます。
台風一過後の怒濤のような水に打たれながら、苦しいことなんかどうでもいいと思うと、ふっと苦しさが飛びます。

それと同じで、悲しい、憎い、辛い、あれが欲しい、あれが嫌だ、なんだかんだ、全てその人の「思い」に過ぎません。
「思い」に過ぎないことであるにもかかわらず、その「思い」に振り回されるのが人の常です。
「思い」に実体はないんですが、「思い」に実体があると思うことを、仏教では「迷い」といいます。
滝行でも、禅でも、仏教の修業は、その「思い」が実体がないということを徹底的に実感しようとします。
それを徹底して推し進めると「空」の体感ということになるのでしょうか。

別の言い方をするとすると、「自分」なんかどうでもいい、死ぬなら死んだらいいと思うと、「自分」という執着がなくなります。
執着がなくなると、生きる意欲が消えるかというとそうでもありません。
生きる意欲のあり方が変わります。
「自分にとって」あれが欲しい、これが悲しい、それじゃ嫌だという自分中心の欲のあり方が変質します。
そのあたりの意識の変容の仕方は、ちょっと説明するのに骨が折れます。
経験するしかないかもしれません。

敢えて説明するなら、「自分」への執着が消えると、「自分」という存在への感謝が生まれます。
とても逆説的な話なんですが。
「自分」という存在への感謝が生まれますと、他者=自分を取り巻く世界への感謝が生まれます。 

自分のことなどどうでもいいと思うと、初めて自分が何をすべきなのかが見えてくる。
そんな感じにこの世は出来ているみたいです。

でもあれです。
ここでいう「自分」とは何かとか、「どうでもいいと思う」とはどういうことか、等々突き詰めていかなければならない
事柄がたくさんあるわけです。
それを言い出すと、論文を書かなければなりますので、はしょります。

こういうのは誰かの書いた文字を読んでもどうにかなるものではないでしょう。
でも、誰にとってもかけがえのない「自分」という存在の可能性を開く端緒になりえることはありえましょう。

「迷い」がなくなるということでもありません。
「迷い」を「迷い」として、そのまま受け止められると、すっと出口を見つけやすいという感じです。
まぁ、「迷い」を「迷い」としてそのまま受け止めているつもりの「迷い」なんてことも往々にしてあるのですが(笑)