風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

観察

2006年06月06日 | 雑感
MファンドのMが捕まり、娘の幼なじみの男の子を絞め殺した母親が捕まりました。
この時代を象徴するような両事件ですが、捕まったからといって、この時代の風潮が止むわけでもないでしょう。
次から次とろくでもない事件が起きます。
目を逸らさずじっと見ていましょう。
何が現実で起きているのか、じっと見ていましょう。
誰もがたやすく手が出せるよな状況ではありません。
その自分の無力感をしっかり感じながらも、何が起きているのかを観察する必要があります。
愛だの平和だの平等だのなんだのの、陳腐なスローガンでは決して解決できない闇が表に吹き出てきているのだと思います。

闇は光の不在という言い方があります。
突き詰めるとそうなのですが、光が当たっていたところで、光を受ける人間の心が欲や利己心で濁りきってしまうと、
彼や彼女の心のなかには、光が届きません。
光がすぐそこにさんさんと照っているのに、そんな人たちの目にはこの世が闇夜に見えます。
闇夜には闇夜のルールがあるとばかりに、己の損得だけで他人をもてあそぶようになります。

何とかという賞を取り上げられた盗作画家やら、利権に群がるおっかない人たちやら、お笑い芸人だらけのテレビやら、
自浄作用がまったく働かない国になってしまいかけてます。
このままだと、餓鬼と修羅だらけになってしまいそうです。
せっかく暮らしの豊かさはこれ以上望めないほどになったというのに、この有様です。
この有様から目を逸らさず、しっかりと観察することから、第一歩が始まります。

自浄作用というのはどんな組織やらシステムを作っても正しく働きません。
今の世の中、組織やシステムを作るということ自体が、新たな利権の温床を作るというだけのことになってしまっています。
一人一人が目覚めない限り無理だとぼくは思っています。
偉そうにそう言うお前は目覚めているつもりかと聞かれれば、少なくとも何が起きているのかを見ています。
このまま状況がぐずぐずと腐っていくのなら、その腐っていく様をじっと見続けていこうと思っています。

まぁ、あれです。
地域やらなんやらの共同体の絆というのがあるかないか分からないほどまでずたずたにされ、
ありもしない個人やら個性という幻想に振り回され続けてきたわけですから、
こういう社会風潮を止めようといっても社会的なムーブメントにはならない時代です。
ですから、一人一人が自覚し始めるしか手はないです。

何を自覚するのか。
自分が何をするのか、しているのかというのが全てであることです。
社会がどんな状況であろうとも、自分の生き方を自分で選択するということです。
状況に流されたら、楽であるどころか、状況に飲み込まれてたやすく自分の生きる意味を見失います。

で、その選択する「自分」というのが何者なのかを発見しなければなりません。
状況に飲み込まれてしまいますと、「金儲けが何が悪いんだ?」「自分のしたいことして何が悪いんだ?」「あんたに関係ないだろ」
というような言葉で自分を正当化して行きますが、正当化する必要のある以前の自分を発見しなければなりません。
そうでないと、援助交際する女子学生でさえも、自分の生き方を自分で選択してると言い始めます。

自分なんてどこにもいない。
そのどこにもいない自分が、条件やら欲やら見栄やらに縛られずに、この世に参加すること。
参加できることを喜べること。
この世が光であることを気づくこと。

いろいろあるのですが(←何が)、やっぱり正しい教えに出会うことが大切なんでしょう。
じゃあ正しいって何だという話になるから、今の世の中、何かを話するのがめんどくさくなります。

ブログで倫理的なことを語ろうとするのは愚であると気が付きました。
中途半端もいいとこです。

とにかく、まずは世の中をじっと観察しましょう。