風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

憑依

2006年05月05日 | スピリチュアル
空も麗らかな子供の日だというのに、こうして店に出てきています。
家で決算作業をしようと思っていたのですが、資料の欠落甚だしく、しぶしぶ店に出てきました。
出ては来てみたものの、頭がボーっとして何も手に付きません。
仕方がないので、こうしてブログを書いているわけです。

おととい、先日行った山登りがあまりにも気持ちが良かったので、再度行きました。
知った道ですから、ぐんぐん登ります。
ぐんぐん登り過ぎて、途中で少し気持ち悪くなりました。
連休中ですし、見事な快晴ですから、家族連れやらなんやらにもあちこちで出会いました。
山道で誰かと出合った時は、こんにちわと挨拶を交わすのが不文律です。
子供たちは必ず大きな声で挨拶してくれます。
何人かの中年の男がこちらが挨拶しているのに、無言でした。
個人的に思うに、一般的に言って団塊の世代の男たちってマナー悪いです。
女性はいい人と悪い人の落差があるという感じです。
これから、時間をもてあました団塊世代が街に溢れるのでしょうが、いい感じの年寄り目指してくださいね(笑)

で、山登りを終え、神社にもお参りし、ふもとの車道をぶらぶら歩いていると、滝の標識を見つけました。
300メートル先と汚い字で書いてあります。
迷わず登ります。
コンクリートでガチガチに固められた沢筋の道を登ります。
朽ちかけた民家が両側に並んでいます。
沢にはほとんど水が流れていません。
期待せずに尚も登ります。
立派なお不動さんのお堂がありました。
その中に中年の女性が掃除をしていたので、滝のことを聞いてみます。
打たれることが出来る滝かと聞くと、打たれますとも、との答え。
滝のお堂はこのお不動さんかと聞くと、いや上にちゃんとある、との答え。
それではと張り切って上を目指します。

で、何体かのお不動さんに囲まれた滝場がありました。
なんか荒んでいる感じがします。
写真でも撮れば、間違いなくオーブだらけの写真が取れるような雰囲気です。
お堂は最近立て替えられているらしく、わりかしキレイで、ご本尊様は大日如来様です。
早速拝んで、パンツ一丁で樋から落ちる水に打たれます。
白いパンツなら引け目を感じなかったのですが、生憎まっ黄色のハデハデパンツでした。
傾きかけた太陽が滝場に差し込み、しぶきが虹色に光ります。
一瞬冷たさが脳天に響きましたが、時期に水と一体になりました。
最後まで、黄色のパンツじゃまずかったかなというかすかな思いを抱きながら、水から出ました。

汗もすっかり流れ落ちたのですが、気持ちよさの反面、なんかぬるっとした感じが体に残りました。
いつも行く滝では感じたことのない感触です。

滝場から降りる途中、お不動さんのお堂を掃除してた女性から声を掛けられました。
滝に入りましたかと聞くので、入りましたと答え、あまり滝に入る人はいないのですかと聞いてみました。
そんなことはないとのこと。
じゃあ、どうしてあんなに滝場が荒れている感じがするのかとも聞けないので、そうですかと引き下がりました。
どういうわけかその女性が缶詰を持って帰れと言い出します。
何の缶詰かと聞くとパイナップルの缶詰とのこと。
お言葉だけありがたくいただきますと言って、その場を去りました。

なんか気になり、家に帰りつくなりシャワーを浴びました。
その後ビールを飲んで、爽やかな風の通り抜ける部屋で少し寝ました。

その晩、なんか妙な意識が残っています。
イライラするというか、なんというか。
酒を飲むにつれその意識が高まります。
あ、なんか憑いたんだなと思い当たります。

で、酔っ払いながらどういうわけか洗面所の鏡の前に立って自問自答を始めました。
お前は誰で、何をしたいんだとか何とか(笑)
その時の直感では、その男は明治ころの在家の修験者で、この滝にも通っていました。
商売をしながら修験に励むのはいいのですが、少し傲慢なところがあり、妻子をほったらかしにしていました。
そういう心のあり方は仏の本意ではありませんから、仏の本筋に行き当たらないまま亡くなったわけですね。
おれはこれだけ頑張っているのにどうしてこうなんだ、どうして先にいけないんだという感じなのです。
で、ぼくはといえば、口から出るままにそれは違うんじゃないかとか、こうなんじゃないかとか言っているわけです(笑)
で、何かの問答のきっかけですとんとさっきからの妙なイライラの意識が落ちました。
酔っ払いの妄想かもしれませんが、なんにしても、合掌です。

昨日は友達の家に遊びに行きました。
古い友達だと頭を丸きり使わないで話せますから、楽です。
あーだ、こーだと言い合って、帰って来ました。
そこでも、子供たちが座敷ワラシを見るのだそうです。
座敷ワラシがいるのはいいことだと聞いています。
子供たちもきわめて明るく素直に育っています。




唯識論

2006年05月02日 | 雑感

GW最中の今日、いかにも五月晴れというような空が広がっています。
明日から3日間は家にこもって決算書類の作成に取り掛かろうと思っています。

さて、仏教に唯識論というのがあります。
唯物論とか唯心論とかあるように、世界はすべて実質的に存続するものなど一つもなく、
ただ識(認識作用)があるばかりという立場です。
この論の前提には般若心経でおなじみの世界を「空」と見る立場があります。

「空」というのは何もない=虚無という意味ではなく、
何かの因(原因)があり、それが触媒的な事物と触れること(縁)により、結果(果)が導かれるような、
そしてその結果(果)が新たな因となって、縁に触れて、更なる果が生まれると言うような、
その果てしのない因果、因縁の循環が繰り返されるような場を、固定的なものは何もないという意味で「空」と言うのだと思います。

宇宙の始めにビックバンがあったとされる宇宙創造の仮説にしても、
始めに爆発するべきエネルギー(光)があったわけです。
そして「光あれ」という神の言葉の縁に触れて、それは爆発しました。
爆発は、エネルギーの渦を巻き起こし、物質を生み、銀河を生み、星星を生み、生命を生みました。
生命は死んで物質となり、土に解け、海に溶け、更なる生命誕生のための栄養素となって何かの生命体に吸収されます。
すべての物質はそういう風にして生命を通して循環します。
生命体が死ぬことによって、生命が循環するとも言えます。
しかしその生命の循環も永遠ではなく、やがて滅び、惑星も燃え尽き、塵となって宇宙を漂い、どこかの大きな重力を持った
惑星かなにかに引き寄せられ、渦を巻き、新たな星雲を作り、銀河を、星を誕生させる契機となっていくのでしょう。

話が逸れましたが、唯識論ってなかなか説明が込み入ってしまいます。
ちょっと、「空」と言う世界のイメージに役立てばなぁと思って説明してみました。

話を元に戻しますと、普通一般の認識論というのは、五感+意識の6識で説明されます。
唯識ではさらに、マナ識、アーラヤ識というのが加わります。
6識は説明するまでもないでしょうが、マナ識、アーラヤ識というのは精神医学で言うところの深層心理を
更に綿密に、正確に説明されたものです。

簡単に説明してみますと、

マナ識: 自分というものに執着する心
アーラヤ識: 生命に執着する心
 
ということです。

自分と言うものに執着すると、自分の利害と他人の利害は一致しません。
自分がよければよいと心ですね。
生命に執着すると、生命が大きな循環を描いているものであり、生命それ自体は不死であるということが実感できません。
人の命は地球より重いという言葉がありましたが、さてそうでしょうかね、ということです。

近代合理主義というのは、6識で考えるところの合理性を追求しますから、
その合理性ですべて人間の理想的なあるべき姿を追求できると思い込んでしまいました。
なるほど、意識では他人のために、環境のために、社会のためにした方がいいというのは合理的にも考えることは出来ます。
しかし、その合理性に従わない人間の深層意識があります。
それをものの見事に説明してくれるのが、マナ識とアーラヤ識です。

うーん、ここまで説明してきても、何の説明にもなっていないなぁと思うわけです。
なんか、要約して説明できる感じがしません。
一つ一つ説明を積み重ねていって、分かるようになっているのかもしれません。

ま、マナ識、アーラヤ識そのもの自体は善でも悪でもありません。
ただ表層の6識を鷲づかみするようにしてコントロールされてしまうのが人間です。

どうすればいいかと言うと、そのマナ識、アーラヤ識に坐禅などの修行や六波羅蜜などの戒律を通して
正しい種を蒔き続けることにより、6識自体の認識のあり方を変容させることができるという考え方です。

ちょっと説明には失敗しました(笑)
読んだばかりの本をさも知ったかぶりに説明しようとするからこうなります(大笑)
でも、最近一番好奇心が駆られているテーマです。

ご興味のある方は以下の本が大変分かりやすく参考になります。

「唯識のすすめ~仏教の深層心理学入門」 岡野守也

ブログもありました。

http://blog.goo.ne.jp/smgrh1992

今日はちょっと失敗した感じが強いので、とっとと帰ります

楽しい休日を!

 

 


 


お祭り

2006年05月01日 | スピリチュアル
今日も月初め恒例のお宮参りに行きましたが、土日の連休も神様ごとでした。

まず宇佐神宮の奥の宮である大元神社へ。
そこで大祭があるということで、A氏からお誘いを受けたわけです。
険しい林道を4駆でガタゴト登り、神社手前数百メートルくらいの空き地に車を止めて急坂を歩いて登ります。
穏やかな神気に満ちた森の中にそのお社はありました。
いろいろな儀式が進行し、中でも巫女さんの舞がなんだかジンと来ました。
お社の裏手に回り込んで、鳥居を見上げてみますと、びりびりするような神気に溢れていました。

実は前日ロンドンから来たお客さんと3時までしこたま飲んでいたので、車で揺られるのも、坂を登るのもしんどかったです。
醒めていた酔いがどんどん逆流して戻ってくるような感じでした。
祭式の始まる少しの時間を利用して、森の中の地べたで少し寝ました。

その後、国東半島の付け根にある豊後高田という町に行き、町おこしの一環として盛り上がっている昭和レトロの町を、
だらだらぶらぶら歩き回りました。
昼食時、食べたくもないカレーが出来る間、水をがぶがぶ飲みましたが舞い戻ってきた酔いが収まりません。
昼食を食べたカフェのおかみさんから、宇佐神宮の興味深い参拝の仕方を聞いて、また町をだらだらぶらぶら歩きます。
思った以上に観光客の人数が多く、町おこしはどうやら成功したようです。
町の人たちもみんな一生懸命に盛り上げようとしています。
雑貨屋でメンコを買いました。
子供のころ、実際に遊んでいたメンコがあったので、思わず買いました。
A氏が下駄を買えというので、下駄も買いました。
普通の古びた履物屋さんなのですが、奥さんも主人もワンコロも店頭に立って一生懸命なので、気持ちよく買えました。

それから、宇佐神宮に向かいます。
もちろんカフェのおかみさんに教わった参拝のやり方をします。
ああなるほどと感心することしきりでした。
最後の山門をくぐる前に、ある特定の場所に立って拍手を打ちます。
すると何か弱い電気を受けたような感じがしました。
境内のご神木からはもの凄い気が出ていて、手をかざすと両手がじんじん来ます。
一緒に行ったネネさんの両手はぶるぶる震えが止まらなくなりました。
宇佐神宮の駐車場脇のお土産さんでは、どういうわけかみな「麩」を買い求めました。
饅頭みたいな形をした大きな「麩」です。

その後も、大分風土記の丘というところにある古墳群を見に行きました。
そのほとんどが未発掘です。
いろいろ思うところがあるのですが、長くなりそうなので省きます。
でも、いいところですよ。
騙されたと思っていってみてください。

それから恒例の飲み会です。
男は山に竹の子を掘りに行きます。
竹の子というのは違う種類の竹の子が時期を違えて次から次と生えてきます。
今の時期は孟宗竹です。
10分くらいで10本くらいの竹の子が取れました。
なんというコンビニエントなんだ、田舎は。
今ならフキや三葉も取り放題です。
これからしばらく次から次と山の幸が取れ続けるわけです。

海の幸も負けていません。
前日A氏一行が潮干狩りをしてきて、アサリを山のように取ってきていました。
取り過ぎだろうと突っ込みを入れたくなるほど、大量に取ってきていました。
それから、なんとかという他所では見ることのない大量のカニも蒸しあがっていました。
で、宴会です。

例によって、ぐだぐだ喋り散らかします。
夜も更け、そろそろ寝るころになって、偶然(必然)近くの神社で神楽が行われているとの情報が入ります。
みな打ち揃って神楽見物に繰り出します。
出し物はちょうど最後のクライマックスの「天の岩戸」でした。
なかなか面白かったです。
いろいろ書きたいこともあるのですが、これも長くなりそうなので省きます。
祭りも終わり、皆で夜空の星を見上げながらぞろぞろ帰ります。
それからまた飲んだのかもしれませんが、覚えていません。

なんか朝から晩まで神様ごとで終始した一日ではありました。

次の日はいつも行く神社で湧き水を汲んで、帰りました。
そう言えば、例の「麩」ですが、つるつる喉越しもよく、旨かったです。
アサリの吸い物に入れて食べたのですが、酒を飲んだ翌朝には最適の食べ物でした。

農漁村再生プロジェクトも着々と進んでいて、耕された畑にジャガイモの花が咲いていました。
梅の木もみずみずしい新緑でした。