風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

宗教観

2006年05月07日 | スピリチュアル
今日も出勤しているわけです、これが(笑)
冗談ではなく、決算をちゃっちゃと片付けなければならないのですが、例によって身が入りません。
中旬には伊勢神宮、高野山と巡る予定なのですが、それまでには何とかします。

ちょっと、宗教めいた話が続いたので、その気がない人には胡散臭さ爆発になってしまいますね。
ここでぼくの宗教的なものとか霊的なものに対するスタンスをちょっと語っておきます。

そういういわゆるスピリチュアルなものって、必要な人には必要なんだろうし、そうでない人には必要でないということだと思います。
身も蓋もない話ですが、事実そうなんだろうと思います。
必要になれば、必要な情報なり導きなりが入ってきて、必要でなければそういういかがわしさ満載の情報には触れずに済む。
つまりは、知らなければならないことでもないし、知らなければ一歩も前に進めなくなることもある。
もうそれは人それぞれとしか言いようがありません。

また、そういう類の情報というか、知識を吸収したところで、精神的な波動が高まるかといえばそうでもありません。
やはりどう生きるか、生きているかがすべてのような気がします。
机上では学べません。
個々人の生きる意欲、動機、などなど人々に与えられた自由意志の選択が、その類の情報に接近するか否かを左右します。

神はいないという人にとっては、神はいないのだと思います。
神はいるという人には、やはり神はいるのだと思います。
どちらが正しいかどうかの判定は、少なくとも科学的なというか、3次元的な意味では決して不可能です。
死んだら終わりというとと、輪廻転生というのは実は同じことの裏表でしかないと思います。
ここが説明の難しいところなのですが。

つまり、人がどう考え、どう感じ、どう生きるかはまさに当人次第です。
当人次第ということは、その感じ方なり、生き方なりを第三者に判定される必要もないし、判定を下すことも不可能です。
何を持って自分の生きる指針にするかは、誰がなんと言おうと、当人の心が決めるしかありません。
その当人次第だということが、自分という存在の自由の証と見るのか、その責任の重さの苦しみの源泉と見るのか、
そういう見方の違いがあります。
それでさえ、第三者がどちらがいいとかどちらが間違っているということは言えません。
まさしく、当人次第です。

で、その当人次第という無限の選択肢の中に、宗教という分野もあるわけです。
その宗教という分野の中でも、仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教とたくさんあるわけです。
それからまた、仏教一つを取ってみても、密教、念仏、禅、チベット仏教、インチキ教とたくさんあります。
こんなもの、どれを信じればいいかなど、分かるはずもないし、分かるという人は、
その人にとってはそうだという以上の事は言えるはずもありません。

じゃあ、お前は何を持って自分の宗教観とするのかという話になります。
ぼくの場合は、シンプルです。
自分の可能性というものを過大評価しません。
人は無限の可能性を持っていることは、ぼくもそう思います。
でも、ぼくという「現象」の可能性は、無限でも何でもありません。
欲に縛られ、勘違いに踊らされ、いい加減な自意識で時間を空費しています。

このぼくという「現象」を冷静に眺めた時、なんというか、つくづく救われないな~と溜息が出るわけです。
で、あとは自分の判断、思考、感じ方に過大な期待をすることを放棄します。
放棄して、何かの流れ、天の摂理、宇宙の意思みたいなものに身をゆだねようと思ってみたりするわけです。
そんな時に出会う人、出合う本、出合う出来事に謙虚に向き合ってみようと思うわけです。
それが宗教的なものであればそれに対してそのまま受け取るというだけです。

そんななかで、驚くようなことがあったり、いろいろな人と出会ったりします。
驚くようなことがあって欲しいとも、いろいろな人と出会いたいとも思っていません。
ただ、出来事が起こり、人と出会い、何かとつながっていくという感じです。

でもまぁ、あれです。
ぼくはぼくという「現象」にうんざりしたから、こういう感じで生きているわけであって、
自分という可能性をとことん追い求めていくというほうが健康的だなとは思っています。
そういう風に人は作られているわけだし。

ここ数年ぼくはよく神社や寺に行きますが、何かを欲しくて、願って行くわけではありません。
ただ、行くとホッとするというような感触が好きになってきているだけです。
中年男のディズニーランドみたいなものでしょうか(笑)

宗教的な感覚や経験というのは、なんか人と分かち合えるのは難しいです。
分かち合えなくたっていいとも思っています。
それぞれの人生の中で、それぞれの出会いや出来事をどれだけ楽しめるかということに尽きると思います。
その中で、宗教的なものがあろうがなかろうが、それはちっとも重要な話ではありません。
宗教的なものがあればあるでよし、なければないでいいと思います。
ようは、自分が心の底からいい人生であったと言えればいいだけです。