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今朝は滝に行ってから、お宮参りでした。
滝に入るのも、お宮に参るのも、月日を重ねればそれなりに心境の変化というのはあります。
自分で言うのもなんですが、雑なものがどんどん取れていく気がします。
例えば滝ですが、最初のころは通常と違う体験(神秘体験?)みたいなものを期待したり、
誰彼の視線を気にしたりしますが、今はそういうことは全然なくなりました。
その日、その時の尊い「滝」があるだけです。
お宮参りにしても、心の底では「御かげ」を期待したりしていましたが、今はそういうことはありません。
無事にその日、その月、その年を迎えられた感謝を捧げるだけです。
シンプルが好みのぼくにとって、物事がシンプルになっていくのは心地がいいです。
複雑さというのは「我欲」の回路だ、というのがぼくの持論です。
あればありがたく、なければないなりに、で充分幸せに生きていけるとぼくは思っています。
あれがないから、これさえあれば、こうしてくれれば、という複雑系思考はぼくは卒業したいです。
「~であれば」という仮定を持ち出すと、思考は自分を中心にキリなく回りだします。
そういう仮定が現実になって欲しければ、その仮定を実現するのみです。
考えている余地は本来ないものです。
考えるという行為は、時として現実の流れを裁断し、虚無の世界に放り込まれます。
もうぼくは虚無の世界は飽き飽きしてきました。
仮定を必要としない世界が「今」ということです。
「今」なにをするかです。
ぼくは今コンビニで買ったビールを飲んでいます。
それでも、充分に「今」です。
もっと充実した「今」もありえるのはよく分かりますが、そういう仮定の話には与しません。
もっと充実した「今」を作るときは、その時の自分にとっての「今」です。
それだけのことだと思います。
滝に入るのも、お宮に参るのも、月日を重ねればそれなりに心境の変化というのはあります。
自分で言うのもなんですが、雑なものがどんどん取れていく気がします。
例えば滝ですが、最初のころは通常と違う体験(神秘体験?)みたいなものを期待したり、
誰彼の視線を気にしたりしますが、今はそういうことは全然なくなりました。
その日、その時の尊い「滝」があるだけです。
お宮参りにしても、心の底では「御かげ」を期待したりしていましたが、今はそういうことはありません。
無事にその日、その月、その年を迎えられた感謝を捧げるだけです。
シンプルが好みのぼくにとって、物事がシンプルになっていくのは心地がいいです。
複雑さというのは「我欲」の回路だ、というのがぼくの持論です。
あればありがたく、なければないなりに、で充分幸せに生きていけるとぼくは思っています。
あれがないから、これさえあれば、こうしてくれれば、という複雑系思考はぼくは卒業したいです。
「~であれば」という仮定を持ち出すと、思考は自分を中心にキリなく回りだします。
そういう仮定が現実になって欲しければ、その仮定を実現するのみです。
考えている余地は本来ないものです。
考えるという行為は、時として現実の流れを裁断し、虚無の世界に放り込まれます。
もうぼくは虚無の世界は飽き飽きしてきました。
仮定を必要としない世界が「今」ということです。
「今」なにをするかです。
ぼくは今コンビニで買ったビールを飲んでいます。
それでも、充分に「今」です。
もっと充実した「今」もありえるのはよく分かりますが、そういう仮定の話には与しません。
もっと充実した「今」を作るときは、その時の自分にとっての「今」です。
それだけのことだと思います。
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