通勤路の途中の道端の桜が咲いていました。
あと何回桜を見ることになるのか分かりませんが、出来るだけ咲いた桜に心を添わせることができれば幸いです。
近頃、「考える」という行為をほとんどしなくなって来ているように思います。
雑念の断片が四六時中頭の中を飛び交ってはいますが、まとまった思念というのは浮かびません。
本も集中して読むことができず、拾い読みをするようになりました。
ま、一時的なことかもしれませんが。
日々を生きる上で「考える」という行為がそれほど役に立つことだとも思えません。
私生活上であれ、仕事上であれ、何か重大な選択を迫られたとしても、決定的な選択基準はぼくの場合はほとんど直感です。
いくら考えたところで、考えるという行為は自分の都合を考えるだけです。
重大な選択の場面において、自分の都合というものをいったん完全に脇に置いたほうが、
全体のバランスの取れた選択肢を見つけ出すことができるように思います。
物事の筋道というものを考え、計画を立て、動き出したところで大抵は考えたようにはなりません。
考え通りではなく、思ったようになるということはよくありますが。
物事というのは当然その背後に無数の人々の営みがあり、タイミングというものがあり、誰かの意図の通りに動くものではありません。
ですから、状況をコントロールしようとすればするほど、思う通りにならない苛立ちと苦しみを味わう羽目になります。
状況はなるようになるわけですから、なるようになった状況から鑑みて何が最良の選択肢なのかを探るだけです。
何かを考えて決定しようとする「自我」から見れば最悪の状況であろうとも、その状況はなるべくしてなったのですから、
いらぬ感情に振り回されず、その状況を改善すべく最良の選択肢を淡々と選べばいいのでしょう。
天に従うといえば聞こえがいいですが、散々考え通りには動かないということを経験させられたから、こんなことを言います(笑)
で、いらぬ考えを捨てれば捨てるほど、状況というのはシンプルになっていくものです。
状況がシンプルなら、選択肢もシンプルなものになります。
そういうのって、楽だとおもいませんか。
あと何回桜を見ることになるのか分かりませんが、出来るだけ咲いた桜に心を添わせることができれば幸いです。
近頃、「考える」という行為をほとんどしなくなって来ているように思います。
雑念の断片が四六時中頭の中を飛び交ってはいますが、まとまった思念というのは浮かびません。
本も集中して読むことができず、拾い読みをするようになりました。
ま、一時的なことかもしれませんが。
日々を生きる上で「考える」という行為がそれほど役に立つことだとも思えません。
私生活上であれ、仕事上であれ、何か重大な選択を迫られたとしても、決定的な選択基準はぼくの場合はほとんど直感です。
いくら考えたところで、考えるという行為は自分の都合を考えるだけです。
重大な選択の場面において、自分の都合というものをいったん完全に脇に置いたほうが、
全体のバランスの取れた選択肢を見つけ出すことができるように思います。
物事の筋道というものを考え、計画を立て、動き出したところで大抵は考えたようにはなりません。
考え通りではなく、思ったようになるということはよくありますが。
物事というのは当然その背後に無数の人々の営みがあり、タイミングというものがあり、誰かの意図の通りに動くものではありません。
ですから、状況をコントロールしようとすればするほど、思う通りにならない苛立ちと苦しみを味わう羽目になります。
状況はなるようになるわけですから、なるようになった状況から鑑みて何が最良の選択肢なのかを探るだけです。
何かを考えて決定しようとする「自我」から見れば最悪の状況であろうとも、その状況はなるべくしてなったのですから、
いらぬ感情に振り回されず、その状況を改善すべく最良の選択肢を淡々と選べばいいのでしょう。
天に従うといえば聞こえがいいですが、散々考え通りには動かないということを経験させられたから、こんなことを言います(笑)
で、いらぬ考えを捨てれば捨てるほど、状況というのはシンプルになっていくものです。
状況がシンプルなら、選択肢もシンプルなものになります。
そういうのって、楽だとおもいませんか。
素直でもない相手と対峙しなければならない(全ての人がそうではないです)、
そんな環境に身を置き、年々腑抜けたように思考能力が低下しています。
アホに磨きがかかっているといえばそれまでですが。
で、何が言いたいのだと聞かれれば…考えるほどわからなくなってきました(自爆)
ぼくを見てそう思いませんか?(笑)