風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

クリシュナムルティ

2007年11月06日 | スピリチュアル
ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti 1895年5月11日 - 1986年2月17日)は、インド生まれの宗教的哲人、教育者。

一般的な分類としては宗教家になるが、自ら宗教団体を解散し宗教批判を行った。思考の終焉や条件付けからの解放などを説いた彼の教えは、その現代的なアプローチから宗教界を超えた幅広い支持者を獲得した。

20世紀最高の覚者の1人であるとする声が多く、タイム誌によりマザー・テレサらと共に現代の5大聖者に数えられた。

クリシュナムルティの教えの中心となる主題は「あるがままの全体的知覚」である。「全体的知覚」とは知覚している知覚者と知覚されている対象の間に分離がない純粋な知覚状態のことであり、人の全存在がそのような状態にあるときにのみ、自らの条件付けを解消する真理の知覚が起こるという。

クリシュナムルティは、「その状態を意図的な努力や訓練、または宗教団体や何かの組織に属することによっては引き起こすことはできない」と言う。

真理の知覚が可能となるのはあるがままの全的知覚の中だけであり、その状態の中では知覚者自体が消失してしまっているので、当然知覚者の存在を前提とする「思考」によっては真理の知覚は不可能ということになる。それゆえ思考を伴う哲学などの観念操作や、「目的に向かって為されるいかなる行為」(瞑想などの宗教的技法も含む)もすべて否定の炎によって浄化されなければならないと彼は言う。思考や観念は純粋に物理的な領域ではその役割が必要とされるが、真理の知覚といった次元にそれを持ち込もうとすることは有害なのである。



以上、ウィキペディアからの抜粋です。
西洋で多大な影響力を与えた人物ですが、日本ではその認知度は知る人ぞ知るというところでしょうか。

「真理の知覚が可能となるのはあるがままの全的知覚の中だけであり、その状態の中では知覚者自体が消失してしまっているので、当然知覚者の存在を前提とする「思考」によっては真理の知覚は不可能ということになる。それゆえ思考を伴う哲学などの観念操作や、「目的に向かって為されるいかなる行為」(瞑想などの宗教的技法も含む)もすべて否定の炎によって浄化されなければならないと彼は言う。」

この全的知覚というのは、禅の世界でいう対象と「一如」になるということと全く同じではないかと思います。
「「目的に向って為されるいいかなる行為」(瞑想などの宗教的技法も含む)もすべて否定の炎によって浄化されなければならない」というのも、先日紹介した澤木興道禅師の

「お寺に参ろうが,念仏申そうが,坐禅しようが,何にもなりはせん。
 われわれが一生することはみなこれ無功徳である。
 人間,なんぞになると思うてするくらい卑しいことはない。」

と、全く重なります。

日本人にとっては、禅の世界というのは、一休さんや良寛さんといった人物像を通してぼんやりながらもその気風を想像できますが、
西洋人にとっては全く未知の世界です。
「無」とか「空」とか、いきなり大上段から説かれても、何がなにやらの世界でしょう。
ぼくが今クリシュナムルティを読んでみると、西洋人を相手に禅を説いているように見えて仕方がありません。
「禅」という特化した境地に関してクリシュナムルティが意図的に説いたのだとは全然思いませんが、
説かんとした境地はほぼ重なり合っているように思います。

そこで、クリシュナムルティが何をしたのかというと、合理性を重んじる西洋人相手に、決して安易な宗教的な安心に着地させまいと
していたかのように感じます。
筋が通った説明で安心するような人間の思索というものを徹底的に疑え、捨ててしまえと繰り返し説いています。

質問者「どうすれば、このくたびれた人生に意味を与えてくれる神に出会えるのか?もし、神に出会えなければ、生きることの目的はなんだ ろうか?」

クリシュナムルティ「人生に意味を与えてくれるような経験をしなければいけない、と質問者は言っているが、それは彼にとって人生そのも のは重要でないということを意味している。そこで彼は、神を探すことによって、人生、悲しみ、美しさ、醜さ、怒り、狭量、嫉妬、権力 欲などから、また、生きることのとてつもない複雑さから、実は逃避しているのである。こういったものすべてが人生であるが、彼はその ことが分からないのである。」

この問答は辛らつです。
キリスト教会に行けば、「懺悔しなさい」「祈りなさい」とでも優しく言われるであろう質問をした人は、さぞかし驚いたでしょう。
人生そのものを、いかなる思索も通さずに「経験」することを重視させ、安易に「言葉」「イメージ」「偶像」に依存することを厳しく諌めます。

要は、自分の「経験」をいかなる解釈、思考のフィルターを通さずに、つまりいかなる判断もすることなしに「経験」すること。
つまり、それが「自分を知ること」だという事です。
自分を知り尽くした地平に、初めて未知の領域が開けてくると。

彼特有のいろいろな言葉の使い方があるのですが、仏教の哲理とおそろしく重なります。
彼が再三重要視する「精神が静かになる」という境地は、仏教で言うところの「寂滅」とか「空寂」に近いものだと思います。

また、クリシュナムルティは、いかなる教えも教会や教団を作ったらまやかしになることを見抜いていました。
有志が作ったクリシュナムルティの教団も自らの手で解散させました。

改めて、禅の世界が世界的な教えに通底しているのではないかと思った次第です。




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2 コメント

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Unknown (もも)
2007-11-07 00:29:17
難しいけれど少しわかった気がします。

「禅の世界が世界的な教えに通底している」

以前、禅に関する本をいろいろと読んだことがあります。
又、他のいわゆる宗教の本も読みました。
人間にとって昔から火や水と同じように宗教のような物が必要だったのかと思ったのでその実態を知りたかったのです。
何故なら発掘される太古の昔からの物に必ず偶像崇拝や神の姿の絵の跡などが見られるからです。
火を炊いた跡や水を使った跡と同じように。

人間には何かそういう物が必要なのでしょうか。

いろいろ読むうちにふと何か共通しているものを感じたことがあります。
どの宗派であれ神であれその教えに何か共通するものを感じました。
それとは違うのでしょうか。

(それからメール見ていただけましたか?)
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ももさん (torut21)
2007-11-07 17:41:01
これからの時代は、だれかが作った宗教や誰かの教えに従うというようなことは必要なくなるような気がします。

それよりも、自分というものをとことん掘り下げていく、一つの言葉、一つの行為というのを掘り下げていく、そんな感じになっていくのではないでしょうか。

その一番深化、完成した形が禅ではないかなと思い始めています。

ここ一ヶ月以内にはメール受け取ってませんよ。
再送していただけますか?
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