風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

則天去私

2009年02月25日 | 雑感
夏目漱石の有名な言葉に「則天去私(天に則り私を去る)」というのがあります。
漱石が、晩年に辿り着いた境地といわれています。
高校生の頃、この言葉を知ってかっこいいと思ったぼくは、ノートの表紙にこの言葉を大きく書いたりしてました(笑)

「大いなる天の摂理に身を任せ、私利私欲を離れて伸び伸びと生きる」というような意味でしょう。
自らのエゴイズムと格闘し生涯苦しみ続けた漱石が、すべての苦しみの根源である「私」から去ってしまいたかったのは、
魂の切実な叫びであったでしょう。
「行人」などの小説を読みますと、エゴイズムの底なし沼です。
漱石は大変に真面目な人でしたから、エゴイズムから全く目を反らすことなく、沼の底を苦しい手でかき回していきます。
そんな人ですから、当然のごとく神経を病み、胃を患いました。
「去私」という願いは本当のことであったに違いありません。

ですが、「則天」の境地は終に漱石が参入し損ねた言葉のような気がしています。
自我に苦しむ漱石は、実際に鎌倉円覚寺の門を叩いて、禅の世界を覗いてみようとしました。
けれでも、頭脳の働きを放擲せよと迫る禅の世界に手ぶらで入るには、彼の頭脳は明晰すぎました。
頭脳の世界も地獄、禅の世界も閉ざされ、漱石はそれでも自我の追及をやめませんでした。
そんなことをしていれば、誰だって神経衰弱になり、身も痛めます。
修善寺の大患と呼ばれる大吐血をします。

おそらく「則天去私」という言葉は、その大患後辺りに漱石の口から出てきた言葉なんだと思います。
「天」という概念は、中国の古典に造詣の大変に深かった漱石には大いになじみのある言葉でした。
心身とも疲れ果てた真面目な漱石は、そのなじみ深い「天」に身を任せたくなったのでしょう。
でも、漱石の悩めば悩むほどに強化された自我は、漱石をそう簡単に手放してはくれませんでした。
天に身を任すというのは、文字通り全身全霊をあるがままに投げ出すことです。
ところが、自我というのは、投げ出すにしても投げ出す場所や時や理由をあれこれと詮索するものです。
つまり、自我というのは詮索が仕事なのであり、投げ出すという決断をする能力は与えてられていません。
結局、漱石は再度吐血し、この世を去ります。

「則天」という境地を本当の意味で体感したのなら、すべては「則天」の一語ですむはずなんです。
そのあとの「去私」というのは、蛇足になってしまうはずなんです。
「私」なんていうのは去ろうが去るまいが、「天」の摂理に包含される一機能に過ぎないはずなんです。
漱石は、「天」と「私」という二項対立から終に自由になれなかった人だとぼくは見ています。

かくも真面目な人が、その不自由な二項対立から自由になることができたら、おそらく日本中に風が吹いたでしょう。
なんともいえない爽やかな風が吹いたに違いありません。

でも、漱石の初期の小説には、その爽やかな風があちらこちらに吹き抜けているんですけどね。
その当たり前に彼の心の中を吹き通っていた風を、彼は当たり前すぎるが故に見逃し始めたんだと思います。
爽やかで豊かなユーモアという風。

「何のためでもない息吹、神の中のそよぎ。風。」  リルケ


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