夏空がかんかん広がっています。
このところ毎週土曜日には滝に行っています。
滝を始めたころは、いうまでもなく滝行はとても特別な体験でした。
滝に打たれた日はその感触を何度も何度も心の中で味わいました。
今でも滝行のありがたさというのは変わりはないのですが、
さすがに「慣れ」というのが出てくるものです。
日常の一部みたいな感じになってくるのです。
でも、考えてみると、日常我々が衣食住を通じて行う行為というのは、
赤ん坊のうちはその一つ一つが大変な冒険であり、スリルであり、ワクワクする体験だったわけです。
すっかり慣れきってしまっているだけなんですね。
つまり、日常の一つ一つの行為も心を澄ませれば、大きな気づきのチャンスの宝庫でありえますね。
「慣れ」というのは人が生きていく上で大変便利な機能ですが、
その機能に埋没すると、無感動、無気力、無関心に堕します。
なかなかその兼ね合いをつけるのが難しい話です。
ご飯を食べる時、一口一口白米の甘さをありがたく噛み締めながら食べるなんてことは、
大方の人はする余裕も意識も持たないでしょう。
ぼんやりテレビを見ながら口に詰め込むだけというのが多いかもしれません。
禅寺での修行というのは、その辺りの意識の弛緩を厳しく戒めますね。
全ての瞬間の行為から意識を離すなと教えられます。
そうすると自ずと一つ一つの行為が尊いものになっていくわけです。
何か特別なイベントが必要なわけではない、「在る」だけで全てが祝福だ、と。
良寛さんが子供たちと手毬を突いて遊んだ話は有名ですね。
なにも伊達や酔狂で手毬を突いたのではなく、一心不乱に楽しんだのでしょう。
そこまでの境地になると、生きるのも死ぬのも行為の一部でしかありません。
そんな境地に到達するのがかくも難しいのは、われわれの日常の意識が瞬間瞬間から離れっぱなしだからですね。
今日は早めに帰って、夏の夕暮れの空模様でもぼんやり眺めてみます。
このところ毎週土曜日には滝に行っています。
滝を始めたころは、いうまでもなく滝行はとても特別な体験でした。
滝に打たれた日はその感触を何度も何度も心の中で味わいました。
今でも滝行のありがたさというのは変わりはないのですが、
さすがに「慣れ」というのが出てくるものです。
日常の一部みたいな感じになってくるのです。
でも、考えてみると、日常我々が衣食住を通じて行う行為というのは、
赤ん坊のうちはその一つ一つが大変な冒険であり、スリルであり、ワクワクする体験だったわけです。
すっかり慣れきってしまっているだけなんですね。
つまり、日常の一つ一つの行為も心を澄ませれば、大きな気づきのチャンスの宝庫でありえますね。
「慣れ」というのは人が生きていく上で大変便利な機能ですが、
その機能に埋没すると、無感動、無気力、無関心に堕します。
なかなかその兼ね合いをつけるのが難しい話です。
ご飯を食べる時、一口一口白米の甘さをありがたく噛み締めながら食べるなんてことは、
大方の人はする余裕も意識も持たないでしょう。
ぼんやりテレビを見ながら口に詰め込むだけというのが多いかもしれません。
禅寺での修行というのは、その辺りの意識の弛緩を厳しく戒めますね。
全ての瞬間の行為から意識を離すなと教えられます。
そうすると自ずと一つ一つの行為が尊いものになっていくわけです。
何か特別なイベントが必要なわけではない、「在る」だけで全てが祝福だ、と。
良寛さんが子供たちと手毬を突いて遊んだ話は有名ですね。
なにも伊達や酔狂で手毬を突いたのではなく、一心不乱に楽しんだのでしょう。
そこまでの境地になると、生きるのも死ぬのも行為の一部でしかありません。
そんな境地に到達するのがかくも難しいのは、われわれの日常の意識が瞬間瞬間から離れっぱなしだからですね。
今日は早めに帰って、夏の夕暮れの空模様でもぼんやり眺めてみます。
雲が何層にも重なり、それぞれの速度で天をうねり流れていました。
それぞれの速度で天をうねり、、、人にもそれぞのペースで物事の良い時期を得るのでしょうか。
torutさんの自然に向ける目や表現はすてきですね。
また、先日のアトランテック・シティはかっこよかったです。
これからも頑張って下さい