今しがた急に土砂降りの雨が降り出しました。
アーケードの屋根に雨の叩きつける音がここまで聞こえてきます。
ちょっと本の紹介を。
「禅僧になったアメリカ人」トーマス・カーシュナー著
19歳の時に交換留学生として早稲田に来て以来、禅の世界にのめりこんでいき、ついには出家して禅僧になった
アメリカ人のドキュメンタリーです。
彼は団塊の世代の生まれで、彼の青年の頃のアメリカはヒッピー文化花盛りで、東洋精神文化にも興味がもたれていました。
そんな時にある講演会で柴山全慶老師の雰囲気に魅せられ、禅に興味を持つきっかけとなりました。
老師の日本語も内容も分かるはずもなく、ただその雰囲気に惹かれたというのが、禅らしいです。
この人の人柄なんでしょうが、かなり厳しい修行もあったはずですし、心の苦悩もあったはずなのですが、
全編に渡って飄々とした語り口で通されています。
何よりもいいのが、数枚差し込まれたこの人の手による禅僧生活を描いた挿絵です。
ユーモアがあって、もっともっと見たくなります。
導かれるように、高名な老師たちとも出会って行きますが、彼の眼を通して高名な老師たちというものの人柄に触れることが出来るようで、
読んでて楽しくなります。
寺の跡継ぎになるために一定期間本山に上って修行する僧侶は日本にもまだまだたくさんいますが、
彼のように純粋に禅を極めたくて修行を続ける僧侶は、今では外国人のほうが多いのかもしれません。
外国人専門の修行道場もあちこちに出来始めていると聞きます。
ぼくよりちょうど10歳年上です。
まだまだ禅僧としてはこれからです。
これからの活躍が楽しみです。
ちょっと面白いと思ったのは、禅僧になると作務というのが付物です。
米や野菜を作ったり、薪を割ったり、大工仕事をしたりと。
何年も禅僧をしていると、小さな小屋くらいは自分で作れてしまうみたいです。
野良仕事はもちろん、肥料なんかも自分で工夫して作れてしまうみたいです。
何もする当てもないけど、一念奮起したいニートの人なんかは、数年間でも禅寺に入ってみるのもいいかもしれません。
半端な気持ちが通用するところではありませんが、なんか大きな生きるきっかけにはなりそうです。
ぼくもちょこっとある寺で真似事みたいなことをしたことがありますが、足の痛さは半端ではありません。
最初の数日はそれでも我慢できるんです。
その数日が過ぎると、足をちょっと組んだだけでたちまち関節が万力で締め上げられているような状態になります。
ぼくは自分の関節が普通の人とちょっと構造が違っていて、特別痛いものだと思っていましたが、
彼もやっぱりそうだった見たいです。
その時期を潜り抜けないと、修行の入り口にも立てません。
大変は大変です。
修行はやっぱり修行です。
でも、その修行を通り抜けると、爽やかな風が吹いている境地がありそうなのが禅ではないかと思っています。
アーケードの屋根に雨の叩きつける音がここまで聞こえてきます。
ちょっと本の紹介を。
「禅僧になったアメリカ人」トーマス・カーシュナー著
19歳の時に交換留学生として早稲田に来て以来、禅の世界にのめりこんでいき、ついには出家して禅僧になった
アメリカ人のドキュメンタリーです。
彼は団塊の世代の生まれで、彼の青年の頃のアメリカはヒッピー文化花盛りで、東洋精神文化にも興味がもたれていました。
そんな時にある講演会で柴山全慶老師の雰囲気に魅せられ、禅に興味を持つきっかけとなりました。
老師の日本語も内容も分かるはずもなく、ただその雰囲気に惹かれたというのが、禅らしいです。
この人の人柄なんでしょうが、かなり厳しい修行もあったはずですし、心の苦悩もあったはずなのですが、
全編に渡って飄々とした語り口で通されています。
何よりもいいのが、数枚差し込まれたこの人の手による禅僧生活を描いた挿絵です。
ユーモアがあって、もっともっと見たくなります。
導かれるように、高名な老師たちとも出会って行きますが、彼の眼を通して高名な老師たちというものの人柄に触れることが出来るようで、
読んでて楽しくなります。
寺の跡継ぎになるために一定期間本山に上って修行する僧侶は日本にもまだまだたくさんいますが、
彼のように純粋に禅を極めたくて修行を続ける僧侶は、今では外国人のほうが多いのかもしれません。
外国人専門の修行道場もあちこちに出来始めていると聞きます。
ぼくよりちょうど10歳年上です。
まだまだ禅僧としてはこれからです。
これからの活躍が楽しみです。
ちょっと面白いと思ったのは、禅僧になると作務というのが付物です。
米や野菜を作ったり、薪を割ったり、大工仕事をしたりと。
何年も禅僧をしていると、小さな小屋くらいは自分で作れてしまうみたいです。
野良仕事はもちろん、肥料なんかも自分で工夫して作れてしまうみたいです。
何もする当てもないけど、一念奮起したいニートの人なんかは、数年間でも禅寺に入ってみるのもいいかもしれません。
半端な気持ちが通用するところではありませんが、なんか大きな生きるきっかけにはなりそうです。
ぼくもちょこっとある寺で真似事みたいなことをしたことがありますが、足の痛さは半端ではありません。
最初の数日はそれでも我慢できるんです。
その数日が過ぎると、足をちょっと組んだだけでたちまち関節が万力で締め上げられているような状態になります。
ぼくは自分の関節が普通の人とちょっと構造が違っていて、特別痛いものだと思っていましたが、
彼もやっぱりそうだった見たいです。
その時期を潜り抜けないと、修行の入り口にも立てません。
大変は大変です。
修行はやっぱり修行です。
でも、その修行を通り抜けると、爽やかな風が吹いている境地がありそうなのが禅ではないかと思っています。
ご紹介がお上手なので読んで見たくなりました。
お盆に京都に行くのですが今日、新幹線の切符を取って来ました。
このごろは京都でも短時間で着いてしまうのでゆっくり本を読むほどの時間はないのですが、いちおう出かける前には必ず本を用意します。是非、今回の旅のお供にさせて下さい。
そのうちお店に伺いますので貸してくだされば本屋さんで探す事もないのですが・・・。??。
「本は自分で買わなきゃだめです」・・と言われそう。
かなりやさんに読んでいただけるのなら、紹介のしがいがあったというものです。
ちなみに、カーシュナー氏は今現在京都・嵐山の寺の住職さんをしているはずです。
それから、先日の高千穂巡礼の折に、阿蘇の大野勝彦さんのところにも行って来ましたよ。
いろいろご縁があるんですね。
楽しみにしています。
嵐山のお寺といえば、かの有名な天龍寺の道1本隔てたお寺「天龍金剛院」の奥方はわたしの親しい友人です。俗に言えば天竜寺の新家?(暖簾わけした家)みたいな感じの立派なお寺なのですがその人に尋ねてみたら案外知っているかも知れませんね。世間は広いようで狭いですから。
大野美術館、まわりは素敵なみどりだった事でしょう。大野さんはいらっしゃいましたか?
わたしはしばらくご無沙汰していますがまた葉書でも出してみます。大野さんから元気をいただいてなんとかコンサートも無事に終えられたのですから。
ほんと、そうですね。
狭い世界で四苦八苦。
そんな人生模様を如何に味わうかということなんでしょう。
大野美術館の周りはそれはそれは見事なもんでした。
大野さんが言っていた山の象さんも発見しました。
龍神様の化身の木も見ることが出来ました。
何もかもが「愛」で展開している世界なんですね。
ひねくれ者のぼくとしては、ちょっとだけ気恥ずかしいです。