風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

切る

2008年06月27日 | スピリチュアル
今朝は気持ちのよい空が広がりました。
滝もあまりに気持ちよかったので滝着を脱いで猿股一丁で打たれてみました。
気持ちが良くて、合掌です。

どんなものごとにも、表裏もあれば、表層から深層までの層というのもあります。
ですから、表裏のどの面について言っているのか、どの層について言っているのかを聞き分けないと、
要らぬ誤解が生まれます。
「生きる」という現象にしても、生物学的な生命論、社会経済学的な人間学、倫理学的な人生論、形而上的哲学論、
宗教的人生観、もういろいろな切り口があるわけです。
逆に言えば、切り口の数の分だけ、「生きるということ」に対する解答はあるといえばあるわけです。

「お金」という現象に関しても無数の切り口があります。
「家庭」「恋愛」「自由」などなど、問題は無数にあり、切り口も無数にあります。
あらゆる問題のあらゆる切り口を調べ上げるのが学問だとしたら、する前からうんざりしてしまいますね。

どんな問題でも、自在にスパリと切れるのが人生の達人とするのなら、学問もまた「実践」の道だということです。
要するに、あれやこれやの学説を知っているかどうかではなく、目の前にある問題をスパリと「切れる」がどうかが、
最終的には問われるからです。

問題を「切る」のは借り物の知識や単なる思い付きではないでしょう。
何で「切る」のでしょうか。
直感、悟性、本来の面目、いろいろ名称はありえます。
で、その「切り方」が間違ってしまえば、問題の解決どころか、問題の混迷度を深めて行きます。
「切り方」が間違うということもありえます。
直感、悟性、本来の面目などという立派な名前が一瞬にして地に落ちます(笑)

「切る」ときは「切る」のです。
それを、何を何で切ったのか、と尋ねる隙はないはずです。
虚空を虚空でスパリと切る、と言ったらカッコウ付けすぎですね。

問題が目の前に立ち表れる。
目の前に現れた問題から目を反らさず、受け止めたときに、問題はスパリと二つに割れ、中身が見えます。
切ろうとも思わず、切る前に切れる。
そんな感じがします。

あまりにも抽象的に過ぎますかね。



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