風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

夢の行くへ2

2017年04月07日 | ストーリー

マンションに帰りつき、ソファに座った。リサイクルストアで買ったいい感じに擦り切れた焦げ茶色の革張りのソファだ。
飲み足りない感じがして、九州に出張に行った旧い友人に送ってもらった薩摩の焼酎の封を切り、グラスに注いで氷を浮かべた。
電車の中でも、駅を降りてマンションに帰る道すがらでも、彼女の不可解な行動をいくら考えても答えは見つからなかった。
この世は腹が減ったら飯を食うだけではすまないのだ。たぶん。
彼女の携帯電話に電話してみようとも思ったが無駄な気がしてやめた。

彼女と知り合ったのは10数年前だ。
学生時代の友人から子供が生まれたという連絡があり、そのお祝いに彼の新居に向かった。
新居は東京の西の端のベットタウンの新築だった。玄関を入るなり、新築の建物特有の匂いがした。
誇らしげな笑みを浮かべる友人に招かれ、広めのリビングルームに招かれると、その場に彼女がいた。
友人の奥さんの手料理を手際よくテーブルに並べていた。
友人の奥さんの高校時代の親友だと友人の奥さんから紹介された。
「はじめまして、植村里美と申します」
「田中健一です、はじめまして」
ヨガの講師でもしていさそうな、浅黒く引き締まった身体をしていた。
彼女は長い髪を紺色の輪ゴムで後ろに束ね、水色の綿のTシャツとモスグリーンのインド綿らしきスカートをはいていた。
「こいつはシベリアのツンドラ地帯をテントを持って放浪したいんだと。昔からそう言っていた」とぼくの友人は言った。
里美は曖昧に笑った。おそらくなんて返答したらいいのかがわからなかったのだろう。
ぼくもなんて返したらいいのかわからなかった。

それからみんなで赤ん坊を見に行った。
日当たりのよい奥の部屋で赤ん坊は眠っていた。
両手両足を大の字に開き、リンゴみたいな小さな顔を横に向けていた。
里美はベビーベッドに駆け寄り、赤ん坊の顔に自分の顔をこすり付けんばかりに近づけ、よしよしよしと言った。
「このままうまく寝ていてくれるかしら」と友人の奥さんが言った。
「どうかな」と友人が言った。
「泣いたらわたしにまかせて」と里美が言った。
ぼくはなにも言えず、ぎこちなく笑った。

それから、里美とは電話番号の交換もし、友人夫婦の家に何度か一緒に訪れ、都心で二人きりで食事もし、映画を見にも行った。
そのころの彼女はファミリーレストランのアルバイトをしながら、日本語講師の資格を取るべく勉強をしていた。
海外の人に日本文化のよさを伝えたいと彼女は真剣だった。
彼女にさっぱりとした性格と、機転の利く頭の良さは好きだったが、どういうわけか女性としてみることができなかった。
二人で酒をしこたま飲んで、あれやこれやでぐだぐだ討論を重ねることが楽しかった。
お互いに身の上話はしなかった。大体の経歴くらいは知っていたが、それ以上は興味はなかった。
一度だけ二人とも泥酔したとき、彼女がぼくの部屋に泊まった。
さらに缶ビールを何缶か空け、あーでもないこーでもないをへらへら話した。
そのまま眠りについたのだが、朝起きたときに二人に妙にぎこちない雰囲気が漂った。
ぼくは少し寂しい気がした。
里美は無言でアルバイトに出て行った。


夢の行くへ

2017年04月05日 | ストーリー

女は腕時計にちらりと目をやった。3度目だ。
「帰ろうか」とぼくは言った。
彼女はまっすぐ前を向いたまま小さくうなずいた。
ぼくはバーテンに声をかけ勘定を頼んだ。
バーテンは鹿のような目をした、鹿のように顔の小さな若い男だった。
「聞いてくれないのね」と彼女は言った。消え入るような声だった。
彼女の横顔を見ると、あらゆる表情が消えたような白い顔をしていた。
「聞いてたよ」とぼくは言った。
「なにを?」

ぼくはこの店に入ってからの彼女との会話を思い返した。
会うのが3年ぶりで、彼女のヘアスタイルが変わったことに驚いた。長い髪を刈り込みに近いショートヘアにしていた。
イメージがまったく変わったこと、でも似合っていることをぼくは彼女に伝えた。彼女はどうでもよさそうにありがとうと言った。
彼女の仕事のこと。
大手の税理士事務所の事務をしている。数字をきちんと管理するのは苦にならず、むしろ好きだということ。
3人いる税理士先生たちはみないい人で、顧客も余裕を持った大人ばかりだということ。
そして彼女の腕時計のこと。
古色のついた珍しい形の時計にぼくが興味を持ち聞いてみたのだ。
南京虫と呼ばれるタイプの小さな文字盤の1950年代のオメガで、2年前に肺がんでなくなった母親の形見だということ。

「わからない。ちゃんと話は聞いてたよ」
バーテンが伝票を持ってきた。彼は伝票をこちらに差し出したまま、ぼくの顔をじっと見ている。
「もう一杯飲んでもいい?」とぼくは彼女に聞いた。彼女は返事をしなかったが、ぼくはバーテンにバーボンを頼んだ。
バーテンは小さくうなずくと氷を割り始めた。このバーではみんなが小さくうなずく。

「ちゃんと言ってくれないとわからんよ。なに?」
彼女は黙ったままカウンターの板目を見つめている。なにか頼むかと聞いても彼女は首を横に振る。
バーテンがバーボンを持ってきて、それを受け取り、一息に飲み干した。
「帰ろうか」と聞いた。二度目だ。
彼女は黙る。
「いい加減にしろよ。言いたいことがあれば言えよ」
「言ったじゃない」

ぼくは彼女の横顔また見た。能面のままだ。
ぼくは飲みたくもなかったが、バーボンをのお代わりを頼んだ。7杯目か8杯目だ。バーテンはうなずいた。小さく。
彼女とぼくの間に沈黙の壁がどんどん厚みを増した。
バーテンがきちんと冷えたバーボンを持ってきて、それを一口すすり、ぼくは口を開いた。
「ほんとによくわからない。どうした?」彼女の横顔をきちんと見た。
彼女の顔をきちんと見るのはその日で初めてだったかもしれない。
「もういい」彼女はまっすぐ前を見据えていた。
ぼくはバーテンに再び勘定を頼み、立ち上がった。彼女にタクシーを呼ぼうかと聞いたが、無言だったので先にバーを出た。
バーの扉の前で5分ほど彼女が出てくるのを待ったが、彼女は姿を現さなかった。ぼくはエレベーターに乗り、下に降り、
飲み屋街の喧騒をすり抜けるように駅へと向かった。

 

 

 

 

 

 


雪の夜

2017年03月09日 | ストーリー

夜中に突然父親に起こされた。
何時くらいなのか見当もつかない。
一緒に起こされた2歳年上の兄とともに眠い目をこすっていたら、早くしろと父親に急かされた。
それまで聞いたことのない父親の声だった。
姉に服を着せてもらって、家の玄関を出た。

辺りは一面の雪だった。
次から次へと真っ黒な空から雪が舞い落ちてきた。
玄関の前にはトラックが横付けされており、荷台には家財が積まれ、その上に幌がかけられていた。
幌の上にも雪が積もっていた。
ふと振り返ると祖母がぽつんと玄関先に立っていた。
暗くて表情は見えなかった。

ぼくら三人兄弟は父親に急かされ、トラックの助手席にぎゅうぎゅうと乗り込んだ。
姉を挟んでぼくと兄が座った。
姉はぼくらの肩をしっかりと抱きよせた。
父親は淡々とエンジンをかけると、トラックを発進させた。
タイヤに巻いているチェーンがチャラチャラと鳴った。
ぼくは窓の外に祖母の姿を探した。

祖母はまだ玄関先に立っていた。
その姿が降りしきる雪の中で青い影のようになっていた。

表通りに出ると、アスファルトの上に10センチほど雪が積もっていた。
街灯が人気のない街を降りしきる雪を透かしてオレンジ色に照らしていた。
消え行く夕焼けのようなオレンジ色だった。

この町を出て行くことになったのはぼんやり分かった。
ただ、なぜなのかはさっぱり分からなかった。
父親の顔を見ると、青く無表情な顔を前方に向けていた。
姉の顔を見ると、目に涙を一杯にためていた。

明日は小学校は行かなくていいのだろうかとふと思った。
エンジンの音と、チェーンの音と、ワイパーの音ばかりが狭い運転席を支配した。
再び睡魔が襲ってきた。
降りしきる雪の中に立っていた祖母の小さい姿が目に浮かんだ。

 


東京Ⅱ

2017年02月12日 | 雑感

去年だったか一昨年だったか、正確には東京ではありませんが、田園都市線上にある街のデパートに一週間強出張しました。
もう、人生史上最悪な体験でした。
「九州の物産展」というテーマのイベントで、仙台屋という名前で仙台名物の牛タン弁当を出品です。
東北の物産展ではないのです。
九州の物産目当てに来るお客さんから見れば、完全にバッタものです。
「牛タン?はぁ~?」
ひたすら針のむしろ状態で、一週間強を耐え抜きました。

ま、それは当方の戦略、判断ミスです。
そういう失敗もありましょう(負け惜しみw)。
ただ、その一週間強の体験で思ったのは、仕事上の成功云々を離れたことです。

デパートには従業員のための食堂兼休憩室というのが必ず備わっています。
持ち場持ち場、あるいは店舗店舗で交代で食事を取ったり、休憩したり、タバコを吸ったりします。
従業員の90パーセントくらいの人たちが、一人で淡々と食べた後、テーブルに突っ伏して寝ているか、スマホをいじっています。
持ち場が違ったり、あるいは店舗や業種や業態が違ったりすれば、お互いに話すこともないのもわかりますが、
挨拶どころか、目も合わせなければ、相手の存在すら眼中にないかのようです。
うわ~すごい職場だな、とその職場に入った当初に思いました。
表向きは、一流ブランドの店員であったり、老舗の味を提供するスタッフであったりするわけです。
裏では、冷め切って、くたびれきったさびしい人たちでした。
家に帰れば、暖かい家族が待っているのかもしれません。
それが普通だと割り切っているのかもしれません。
でも、ぼくにとってはひたすら異様でした。

ぼくの宿泊しているホテルは、そのデパートから3、4駅離れているところにありました。
そのわずかな期間ながら、電車内でもまったく同じ状況が繰り広げられていることに気がつきました。
ほとんどがスマホです。
だれも無礼なことはしませんが、誰もが誰にも関心を持っていません。
関心を持たないというよりも、自分を他人からブロックしています。
人の多すぎる首都圏にいて、見知らぬ他者に関心を持つなどというのは無理難題だということは分かります。

その物産展に参加しないかと誘ってくれたある組織の方が言うには、そのデパートはとても客層がよいので評判とのことでした。
確かに、身なりはこざっぱりしていて、お金に不自由している感じはありませんでした。
とくに、悪口を言うようなところはありません。
でも、九州の客層に慣れてしまったぼくからすると、話していてクソ面白くないのです(悪口やんw)。
なんというか、自分の殻から一歩も出ず、余計なことはしゃべらず、相手や商品の点検のための質問はする、といった感じです。

デパートの食堂兼休憩室で感じたことが、電車でも、デパート内でも同じように繰り広げられていました。
見た目は皆さん小奇麗で、整っていました。
感じたことは、この人たちはなにを産み出しているのだろうか、ということです。
とてもとても失礼な物言いですが、そう感じたのだからしょうがありません。
小金を持って、中途半端な知識を持って、ブランド品もって・・・。

ものを産み出すためには、どうしても軋轢が必要です。
自分が生きる道筋と他者が生きる道筋の相克の上に創造が成り立ちます。
軋轢がないものは、創造ではなく模倣です。
東京は、模倣することが自己防衛のための主流となってしまっていると強く感じました。
ただ単に「個性」を売り物にすることさえ、模倣です。
個性なんぞは鉢の中の金魚にだってあります。

おそらく、TVの影響が一番強いのが東京です。
TVの呪縛からどんどん自由になり始めている人が増えているのに、東京を東京とならしめているある種のエネルギーはあります。
その正体は明かされつつありますが、語ろうとすると面倒くさすぎるので割愛します。

なんにせよ、今東京は外人に大人気です。
人気の理由もよ~く分かります。
焼き鳥屋なんか、この辺りの焼き鳥屋よりずっと安くて、おいしくて、感じがいい店がいっぱいあります。

なにかもどかしさが残ります。
東京もそこに住んでいる人たちも、もちろん悪いということではありません。
悪いわけがありません。

「江戸」がどうであったかを研究するとヒントがある気がします。

その手始めとして、「落語」はとても有効だと確信してます。

 

 


東京Ⅰ

2017年02月09日 | 雑感

久しぶりに東京に出張で行きました。
時間がたっぷり空いたので、地下鉄の一日フリーパスを購入して、思い向くままあちらこちらに行きました。
学生のころ住んでいた街だとか、夜勤のアルバイトで通った市場とか、好きだったテレビドラマの舞台だったところとか。

東京は18から32までの14年間を過ごした街です。
今回あちらこちらに移動して、改めてその場所に身を置けば忘れかけていたいろいろなことが思い出されます。
たいていはロクでもない思い出ですが。

新宿にしょんべん横丁(現:思い出横丁)というガードしたの小汚い飲み屋街があります。
昔そこの居酒屋の二階の座敷で仲間と飲んでいたときのことです。
バイト帰りかなんだったか忘れましたが、仲間とだらだら飲んでいたわけです。
何かの折に、隣の席の女性と目が合いました。
職場の人たちと飲みに来ていた感じでした。

ぼくは自分のはいていた靴下のつま先に開いている穴を指差して、彼女の顔を見ました。
そうしたら、その女性はクスクス笑い出しました。

数ヶ月ほどその女性と付き合いました。
とても後味の悪い別れ方をしました。
鬼畜の所業でした。

そんな感じの思い出ばかりです。
話としてはある意味で面白いことは面白いのですが、当時の感情も同時に思い起こされますから、できれば語りたくありません。
飲み屋で出会った女性との付き合いは、ほぼ100パーセント後味の悪いお別れになりました。
女性たちが悪かったわけではもちろんありません。
ぼくがひたすら鬼畜だったのです。

同じ新宿のゴールデン街とか、二丁目なんかもちょくちょく行きましたが、鬼畜話が連綿と続くばかりです。
それに比べて、浅草や京成電鉄沿線などの下町で、煮込みと焼き鳥を肴に飲む酎ハイ、ホッピーは楽しい思い出が多いです。
渋谷や六本木は寄り付きもしませんでした。
金がないこともありましたが、背伸びしている感じの雰囲気がどうしても馴染めませんでした。
飲み屋に関してのエピソードは山のようにあるわけですが、割愛します。
学生のころから毎晩のように飲み屋めぐりですから、きりがないです。

昔住んでいた街には、30年ぶりくらいに足を踏み入れました。
思いのほか変わっていませんでした。
なくなった店もありますが、何でこんなところがというところが残っていたりもしました。
どういうわけか懐かしいというようなセンチメンタルな気分はちっともおきませんでした。
ふ~ん、という感じです。
記憶は確かにあるのですが、その記憶を刻した当時の自分の気分にまったく同調できないという感じです。
ぼくが成長したのか、老化したのか、おそらくその両方なんでしょう。
また再び訪れてみたいとは思いませんでした。

それにしても、都営大江戸線。
初めて乗りましたが、とても便利な経路を持つ地下鉄でした。
昔行きたくても行くのが面倒だった場所が、スパリと連結されていました。

東京に関しては、まだ言いたいことがありますので、また次回に。

 


猿田彦とヤタガラス

2017年01月31日 | ストーリー

猿田彦「どうだ、このありさまは?」

ヤタガラス「いつものことです」

猿田彦「うん、そうだな。おまえの言うとおりだ。なにも変わっていない、何千年前も何千年も。でもなぁ・・・」

ヤタガラス「それよりも大神様、今は変わり目でございます。本当の変わり目でございます」

猿田彦「それは知っておる。で、このありさまだぞ。民がみずから変わろうとしなければ、なにも変われない。誰も手出しができない」

ヤタガラス「大神様はあきらめなさるか?」

猿田彦「あきらめたことなどない。ただ、いつになったら機が熟するのだと・・・。永いこと待ちすぎた」

ヤタガラス「あらあら、いつから大神様は時間などを気にするようになったのですか?」

猿田彦「ハハハ。民を見すぎて、感じすぎて、このごろは民とおんなじ心持ちになってしまう」

ヤタガラス「民こそはお宝、そうですね?」

猿田彦「うん、そうだ」

ヤタガラス「民を憐れんではいけません。そうなったら、いけません。民は憐れむべきではなく・・・」

猿田彦「うん、おまえの言うとおりだ。民を導くのがわしの使命だ。尊い尊い民の幸を願うのがわしの使命だ。だが、民はなかなか導かせてはくれんからのぉ」

ヤタガラス「百も承知のことではありませんか」

猿田彦「もうよい、わかった。それでは行くぞ」

ヤタガラス「行きますか?」

猿田彦「くどい!」

ヤタガラス「あら、怒っているんですか?」

猿田彦「こやつめ。わしが悪かった。許せ。役目を忘れかけていた。支度せよ」

ヤタガラス「はい!」

 

*昨日、宮崎で撮った写真を見ながらの妄想です(笑)

 

 

 

 

 

 

 


雪虫

2017年01月28日 | ストーリー

わたしが生まれたのは、北海道の十勝の音更という町です。
一人っ子です。
正確には、一人っ子ではなく兄がいたらしいのですが、兄がまだ赤ん坊のときに亡くなったらしいです。
なにが原因なのか詳しいことは両親から聞いていません。

音更は、見わたすかぎりジャガイモやらトウモロコシの畑が広がる何もないところです。
わたしの両親は、その小さな小さな町で魚屋をしていました。
ほんとに見わたすかぎりなんにもない場所で、魚屋なんておかしいでしょう?
海なんて、ずーっとずーっと遠くにあるんですから。
わたしが中学生のときに、町にもスーパーマーケットができまして、両親はその数年後に店をたたみました。
店をたたんで、二人で近所の牧場で働き始めました。

そんなこんなで、すっかり元気のなくなった両親にまさか高校に行きたいとも言えず、
わたしは中学を卒業すると帯広の製紙工場で働き始めました。
会社の寮住まいです。
幸い、先輩方いじめられもせず、休日には同期の子達と植物園に行ったり、糠平湖におにぎりを持って行ったり、
それなりに楽しみました。
両親のことは気にはなりましたが、毎月給料のいくらかを送ってやれるだけで、あとはどうしようもありませんでした。

仕事にも慣れたころ、父親が肺炎にかかり亡くなりました。
父の看病をしていた母にも肺病が移り、その三月後に母もあの世に行ってしまいました。
突然独りぼっちになってしまいました。
数ヶ月のうちに両親を立て続けに亡くしたわたしを、上司や同僚はとてもよく気遣ってくれました。
でも、気遣ってくれればくれるほど、わたしの心は寂しくなってたまりませんでした。

そのころを思うと、今でも胸がいっぱいになってしまいます。
こうして夫も二人の子供もいる今の自分がときおり夢ではないかと思うときもあります。

冬になると十勝では雪虫が舞います。
ええ、ユ・キ・ム・シです。
本当に雪が舞っているようにゆらゆらと飛びます。
雪の匂いってわかりますか?
初雪が降る前に、大気中に雪の匂いが満ちるのです。
ちょうどそのころ、雪虫がどこからともなく大量に現れて、そこらじゅうを舞い飛ぶのです。

子供のころ、不思議でたまりませんでした。
雪が本格的に降るようになると、ぱったりと雪虫たちはいなくなります。
どこかに消えたようにいなくなるのです。
雪虫は動きが鈍いのでかんたんに捕まえることができました。
捕まえてみると、ふわふわの真っ白い毛の中に、ちゃんと黒い羽も胴体もありました。
あれはなんだったのでしょう。
冬の訪れを告げるためにだけに舞い飛ぶなんて、そんなことありえるんでしょうか?

十勝には夏のお盆には何度か墓参りに帰っていますが、冬には帰る用事もないため、20年ほど帰っていません。
いつか息子たちを連れて、冬になりかけの十勝に帰ってみたいです。

 


迷いと探検

2017年01月27日 | 雑感

滝行もしましたし、禅の修業も経験しました。
その最中には本物を手に掴んだ感触が間違いなくありました。
でも、諸事情でそういう修行というか実体験からしばらく遠ざかると、
本物の実体験であったはずの尊い実感が言葉に置き換えられ、脳内にしかないただの概念に堕します。
いくら概念で「今、ここしかない」と言ったところで、実感のない戯言に化します。

概念で「今、ここしかない」と言った刹那に、今という瞬間も、ここという貴重な場所にも在りません。
「今、ここしかない」とキザなセリフを発言する自分の概念に閉じこもっているだけです。
本来の「今、ここしかない」というのは、概念という概念を脱皮し去ったときの境地です。
すべての価値判断が消え、暑いも寒いも、都合がいいも悪いも消え去った、清澄な世界です。
風が枯葉の匂いを運んでくるのを感得しただけで、忘我になれる境地です。
それに反して、概念の世界というのは、つねに己の概念の価値基準に合うかどうかをひっきりなしに
気にして、くよくよする泥沼のような世界です。

言葉とか概念とかをいくらこねくり回してみても、泥沼からは抜け出せません。
泥沼の粘度が増し、深度が深まるだけです。

さて、どうしたものでしょうか。

人の意識は、そう簡単にコントロールできるものではありません。
誰もが成功して豊かになりたいと表層の意識では思うでしょうが、そうならないのはその意識の裏に
「でも自分は無理だ」とか「自分なんかが成功してはいけない」などとかいう表層の意識では
感得できない、いわゆる深層意識があります。
さらに、そんな深層意識を抱合するようなレベルの意識、さらに、そんな個的な意識を超えた
集合的な意識などもありえるのですが、話が逸れますので割愛します。

要するに、人の意識は幾重もの層があり、人が意識しているのは一番表層の意識であると言うことです。
誰もが表層の意識では幸せになりたいと願っています。
それではなぜ自分が幸せと感じられない境遇に自分はいるのか。
大方は、その答えに窮して、政治のせいにしたり、境遇のせいにしたりします。
自分の概念が自分の境遇を創っていると思う自分は、そういう外部に原因を求める姿勢には懐疑的です。
もしそうなら、逆に自分が幸せだと思ったとしても、それは自分由来ではなく、
政治や境遇のなせる業だということになります。
そんな主体性の許されない世界観はぼくは受け入れることができません。

それでは、表層の意識とさらに奥に潜む深層意識とを統合することができるのか、ということになります。
禅ではそれができます。
それは確信しています。
いずれ近いうちに、禅の体験を再開しようとは思っています。
ただ、今思うことは、こうして禅を離れて生活しているこの心理状態をきちんと整理しておきたいのです。

それならば、禅を知らない人間は救われないのか。
ここでいう「救われる」というのは仏教的な意味での「救い」ではありません、念のため。
仏教的には、救われていない人間などいません。
そうではなくて、心理的にしんどい人たちの「救い」です。
禅を知っているぼくには、救いの道が一筋見えています。
そうでない人は、どうすればいいのか。

救われていない人間などいない、と本当に実感したのは事実です。
で、再び迷いの世界に迷い込んでいるのも事実です。

「救われたい」と思う心こそが迷いの本体です。
でも、人は迷うのです。
そのときにどうすればいいのか。
探検は続づきます。

 

 


試み

2017年01月26日 | 雑感

年が明けたと思ったら、もう1月も終わりです。
車の運転は年々速度が遅くなりましたが、時の流れは年々加速します。

認めようが、認めなかろうが、自分の今いる状況というのは間違いなく自分が作ったものです。
未来に途方もない期待と夢を膨らませていた若いころとは違って、今は等身大の自分がいます。
膨大な時間を無為に過ごした自分。
膨大な時間をアルコールに費やした自分。
暇さえあれば寝ていた自分。
最悪の等身大が今の自分です。

このまま規定路線で終わるのかという一抹の不安を覚えながらも、それだけじゃないだろ生命の秘蹟は、
と思う自分もいたりします。
で、答えを探しに本屋に行ったりします。
思いはエネルギーだ、おそらく最強最大のエネルギーだというのは、ほぼ確信しつつあります。
人はその人が思ったとおりになるというのは、たぶん本当です。
では、こんなアル中まがいの生活をぼくが本当に思い描いたものなのかということです。

全否定したいところなのですが、半分は本当で半分はごまかしています。
中高生のころ、例に漏れず、芥川龍之介やら石川啄木などの破滅型の文学に嬉々として耽溺した結果、
ずっと破滅的なイメージがぼくの存在を包み込んでいます。
若いときはその世界観が背伸びした格好よさっぽさもあって心地いいものですが、
年を経るにしたがって、自分がその世界観であること自体がひたすらうっとおしいものになって行きます。

うっとおしいと思いながらも、その思い癖はなかなか直りません。
出世したり、金をもうけたりして、それがどうなる?
どうせ死ぬだけだ、とういうおなじみのイメージ展開です。
そこには、「豊かさ」というものに対する大いなる肯定がありません。
豊かになりようがないし、なるわけもありません。

イメージトレーニングやら、成功哲学で変わるような底の浅い話でもありません。
自分の生きているという事実に対する実感の問題です。
実感は、実感です。
誤魔化すことができません。
さて、どうしたものかと、本屋に行きます。
アナスタシアとか、ラムサとか、刺激的で豊かな世界に浸ります。
興奮もしますし、納得もしますし、瞬間的には本気にもなります。
でも、数日たつと、ぼくのきわめて個人的な観念は変化していないのに気がつきます。
依然として、やってもいいけどやらなくてもいい的な中途半端なニヒリズムから脱しません。

こういうパターンをひたすら繰り返して、今まで生きてしまいしました。

さて、どうしましょう。
生命の秘蹟とやらをつかめるのでしょうか。
乞うご期待(笑)。

ちょっと待ってて下さい。
ある試みをしようと思っています。

 


ドイツ

2016年06月16日 | 旅行

アメリカも好きですが、ヨーロッパも好きです。
アジアも好きですが、インドはちょっと・・・でした(笑)。

で、ドイツです。
このブログを書こうとドイツの写真をネット上で探してみたら、もう堪りません、胸が詰まります。
ドイツは、元の奥さんがとてもとても縁が深く、留学もし、ドイツとの仕事をしていた人でした。
そのご縁で、ドイツの素敵な田舎町の教会で結婚式も上げ、そこに数週間習週間滞在もしました。

新婚旅行は、北のハンブルグから南のロマンティック街道まで、彼女の両親と共に車で移動しました。
運転はぼくです。
ドイツ国内を網羅する高速道路、アウトバーンは速度規制がありません。
行く先々でワインやらビールやらをしこたま飲みながら、町から町へと移動です。

ドイツは一つ一つの街がとても個性的です。
おそらく条例かなんかで厳しく統制をかけているのだと思います。
ケルンはケルンです。
ニュルンベルグはニュルンベルグです。
ハイデルブルグはハイデルブルグです。
同じ壁の色、同じ屋根の色、窓には同じ種類の花がずらりと吊り下げられています。
それで、一つ一つの街に、それぞれの自慢のビールとワインがあります。
旅行者には堪りません。

ドイツから帰ってくると、日本の街づくりは絶望的になります。
北海道から九州まで、どこへ行っても同じスーパーマーケット、同じつくりの家、同じ外食チェーン店、・・・。
昔の日本は藩ごとにとても個性のある国づくりをしていたと思うのですが、すっかり均質化してしまいました。

まぁ、そんなこんなでドイツには何度か長めの滞在をしました。
さすがにヨーロッパ一の経済優等生だけはあります。
地域文化と伝統がとても強く根付いています。
農村地帯がフランスと同様に豊かです。

そのほかに、ドイツに関してはいろいろ思い出があります。
ありすぎます。
そのどれもこれもが元の奥さんに関わりますから、切ないです。

ドイツからアルプスを越えるとイタリアです。

なんか、遠い遠い昔の思い出です。

 

 

 


大人と中学生のしゃべりば

2016年06月15日 | 雑感

「初めてのアメリカ」シリーズは、自分のための備忘録としても書いていきたいのですが、
そればかりだと書く方としては飽きます。
「旅行編」ヨーロッパシリーズやら、アジアシリーズも、国内シリーズも書いてみたいことはたくさんあります。
少しづつ書いていけたらいいなと思っています。

でも、今日は先週の土曜日のことです。
同僚Sさんに誘われて、直方の「大人としゃべり場 in  直方一中」に行ってきました。

http://mainichi.jp/articles/20160612/ddl/k40/040/240000c

これはすごくよかったです。

大人が円形に並んで座って、その円を取り囲むように中学生たちが円形に座ります。
大人と中学生は一対一で対面します。
司会者から、大人に対して質問が投げかけられます。
それに対して、大人は中学生に答えます。
次に、司会者から中学生に質問が投げかけられます。
中学生は大人に向かって答えを語りかけます。

それを、数分の間隔で次々と生徒が時計回りに移動しながら、続けていくわけです。

今年が4回目とかで、生徒さんたちは慣れているのでしょうか。
こちらがたじたじになるほどに、にこやかに堂々と自分の思いを語ります。
そして、なによりもどの子も、例外なく笑顔がとてつもなく素晴らしいのです。
ぼくは年寄りなので、この子にとって僕みたいな老人はどう思われるのかなぁ、などと思っていましたが、
下種の勘繰りでした。

左官屋になりたい子、看護師になりたい子、友達のためになりたい子。
誰かのために役に立ちたい子ばかりでした。

何か言葉にできないことが多かった機会でした。
これは全国に広げるべき方向性でしょう。
老人も子供も、面と向かって語って、笑い合う。

直方のMさん。
何かできることがあればと思っています。
子供は保護すべき対象というよりも、世間を豊かに元気にする存在なんだなと思いました。

 

 


サンタ・フェ(初めてのアメリカ5)

2016年06月09日 | 旅行
「初めてのアメリカ」シリーズは書いていても面白いのですが、行った町順に書いていくというのは面白くないので、
アトランダムに思いついたまま、思いついたときに今後は書いていきたいと思います。

今日はサンタ・フェです。
まだ宮沢りえの写真集で有名になった「サンタフェ」は発売されていませんでしたので、何の予備知識もなく行きました。

バスディーポからその夜の宿のユースホステルまでは地図で見てもかなりの距離がありました。
そこはどういうわけか予約なしでも泊まれるユースホステルでした。
重い荷物を持ってそこまでテクテク歩いたわけですが、期待に膨れ上がっていて苦痛でも何でもありません(笑)。

ようやくそこに着き、チェックインをしました。
詳細は覚えていませんが、何かフレンドリーな雰囲気が溢れかえっているようなところでした。
荷物を置いて、ラウンジに出ていろいろ見てみると、毎日毎日いろいろなイベントを活発に催しているユースでした。
たまたま次の日はプエブロ・インディアンの遺跡を巡るツアーというのがありましたので、迷わず申し込みました。
プエブロ・インディアンという名称は聞いたこともありませんが、値段も安く、参加しました。

で、次の日、世界各国からの旅行者と共に、遺跡巡りのツアーに出ました。
15-6名の人数で2-3台の車に分乗したような記憶があります。

赤茶けた広大な大地に、しっかりと遺跡の痕跡がありました。
巨大な洞窟を利用した小さな都市です。
英語がよく理解できなかったため、詳細はよく分かりませんでした。
砂漠を車で移動しているわけですが、当然喉が渇きます。
何も用意していなかったぼくは困ったなーと思っていました。
すると前の席にいたイギリス人の若者が飲むかと言って、水のペットボトルを差し出してくれました。
この人は人の心を読むことのできる超能力者かと思いました。
サンキュー、サンキューとへいこらしながら、ぐびぐびと飲ませてもらいました。

何か所か遺跡を巡りました。
それはそれ自体でとても興味深かったです。

で、最後にホットスプリング、温泉に行くということでした。
砂漠に温泉、全く想像が付きません。
車はどんどん砂漠の奥へ奥へと行きます。
温泉というのは、なんの施設もなく、池みたいなところに湯が沸いていました。
日も暮れて、月も出ていました。
なんというシブいシチュエーションなんだろうかと思いました。

で、みんな何の躊躇もなく素っ裸になってその温泉に入り始めるわけです。
世界各国の男女の若者が主体です。
ぼくは仮にも日本男児です。
眼鏡をかけたまま入りたかったのですが、動機が見え見えなので、潔く外しました。
何も見えません。
インドから来た信じられないようなグラマラスな身体をした女性が月明かりの下で、ぼくのすぐ横の今に腰かけています。
何も見えません。
あーあと思いながら、どうせ見えないのならと後方にじりじりとにじり寄って行ったら、白人男性の身体に身を寄せていました。
ぼくもびっくりしましたが、彼もその上をいってビックリしていました。
ソーリーソーリー、とヘコヘコ謝りながら平常心を取り戻そうとしました。
赤茶けた大地を照らすサンタフェの月です。

ちなみに、先導役のユースの主人はいつの間にか消えていました。
フランスから来た若い女性も消えていました。
数十分後に何事もないように、全員で帰路につきました(笑)。

そこのユースはほぼ毎日いろいろなイベントを企画実行しているようでした。
次の日、少し遅く起きたらだれもいませんでした。
どこかにみんなで出かけたのでしょう。
ロービーには飲み放題のコーヒーがありました。
コーヒーを飲んでいると、そこにしばらく住んでいるという若い白人女性が大きなテーブルに同席しました。
なんかいろいろおしゃべりしました。
「大草原の小さな家」というテレビドラマが好きだといったら、とても喜んで「私もだ」と答えました。

その他、つたない英語で
もう行かなくちゃと言うと、バスディーポまで送ってくれるといいます。
支度をして、彼女の車に乗り込みました。
後部座席にはごみ溜めの様に一切合切が積み込まれています。
おそらくこの車が彼女の家なのでしょう。
言葉を失いながらも、彼女にバスディーポまで送ってもらいます。
バスディーポに着いて、荷物を背負い、さようならというと彼女は両手を広げて、「ハグ!」と言います。
ぼくは当時ハグという言葉の意味を知りませんでした。
彼女はさらに腕を広げて「ハグ、ミー!」と言いました。
さすがにぼくも察しました。
手を回すと彼女の身体は意外にも細く、もろそうでした。
何か言葉をかけたかったのですが、英語ですからどうしようもありません。

そのまま彼女と分かれました。

バスに乗ってから、彼女のやせ細った身体を思い、ごみ溜めの様なボロ車を思い、彼女の表情を思いました。
出発前のユースのロビーで、神とは何かという話になりました。
ぼくは知りもしないくせに「宇宙の意思だ」と答えました。
彼女はふふっと笑いました。
何かとても切ない思いになり、しばらくその切なさは消えませんでした。



初めてのアメリカ4

2016年06月08日 | 旅行
ちなみにぼくが辿った大まかなルートを紹介しておきます。
LA、サンフランシスコ、ポートランド、シアトル、バンクーバーと西海岸を北上し、
ソルトレイクシティ、デンバー、サンタフェ、エル・パソ、サンアントニオ、ニューオリンズと中西部を南下し、
フロリダ・キー・ウエストから、サバンナ、ワシントンDC、ニューヨーク、ボストンと東海岸を北上し、
最後はシカゴからラスベガス、グランドキャニオンと大陸を横断し、LAに帰着するというものでした。
ルートはすっかり忘れていましたが、今地図を見て思い出しました。
当時は毎日が楽しくてたまりませんでしたが、今同じルートを辿れと言われましても、絶対に無理です。
3日で音を上げる自信があります。

長く連泊したのは、知人のいたワシントンDCと、当時どこよりも行きたかった憧れのニューヨークです。
ニューヨークには10日ほどいたような気がします。
あとは、バスが町に着いたら、「地球の歩き方」に乗っていた安そうなホテルを探し出して、一、二泊だけ泊まります。
ホテルにチェックインしたら、荷物を部屋に置いて、とにかくひたすら町の中を歩き回ります。
歩き回ることで町の全体像と大体の雰囲気を掴みます。
日本ではあまり知られていないのですが、とても雰囲気のいい町というのがいくつか記憶に残っています。
クリーブランドとか、サバンナとか、決して大きくも、特別な何かがあるわけでもないのですが、良い思い出として残っています。
その反対に、ソルトレイクシティとかエル・パソとかセントルイスとかは大きな町でしたが、それほど印象に残っていません。
まぁ、いろいろなタイミングもありますし、相性というのもありますし、一概には言えないんですけどね。

カメラは持って行ってたのですが、途中でフィル物入ったバッグを紛失してしまい、すっかり写真を撮る意欲をなくしてしまい、
多分1枚も残っていません。
その他に、トラブルというよなことはなかったように思います。
というか、英語もまともに話せず、お金もなく、初めてのことばかりなのですから、毎日がひたすらチャレンジなわけです。
お金も一度だけ東京の姉にお送金してもらいました。
どういう方法で送金してもらったのか、全く覚えていません。
クレジットカード会社を使ったような気はするのですが、どういう方法だったのかは思い出せません。

食べ物はバスで移動中はハンバーガー、街にいればベーコンエッグとコーヒー、あとオレンジの生ジュースがあちこちで売ってます。
ニューヨークでは屋台のホットドック、ベーグル、ちょっと奮発してTボーンステーキ、これは安いけど見た目とは違い固くてまずいです。
ニューヨークの牛丼屋と思ってもらえばいいと思います。
和食の店にも何度か入りました。

確かポートランドだったと思います。
雨が降っており、暗く寂しい街並みに、日本語で書かれた赤い提灯がぽつんと雨に打たれていました。
店名やらなんやらは覚えていません。
入ってみると、ぼくの他に一組の日系のお客さんがテーブルに、大柄の白人男性がカウンタ‐に座っていました。
ぼくは何を頼んだのか覚えていませんが、多分天ぷら定食か何かを頼んだのでしょう。
ご主人は日本語が上手ではなく、おそらく日系の方なのでしょう。
壁に貼ってあるメニューも統一感がなく、たどたどしい感じで、何か間に合わせで店を開いてみましたという感じでした。

日系のお客さんは何かを食べていましたが、カウンターの白人男性はカウンターに肘をついてじっとしています。
ぼくは内心どうしたんだろうと思っていましたが、もちろんそんなそぶりを見せずビールかなんかを飲んでいたんだと思います。
だいぶたってから(10分以上?)カレーライスがそのお客さんの前に持ってこられました。
サンキューといってその白人男性は食べ始めました。

カレーライスで何分待たされたのだろうとすこしその白人男性に同情しました。
日系のご主人にはまったく悪びれた様子がありませんでした。
人のよさそうな上品なご主人でした。
ぼくも何かを食べたのでしょうが、全く記憶にないということは、まぁそういうことなのでしょう。

まぁ、今はどうか知れませんが、海外で過剰に期待して日本料理店に入ると決まって痛い思いをしたものです。
それでも、そんな店でも結構人でにぎわっています。
それ以来、美味しい日本定食屋を海外で展開すれば、間違いなく流行ると確信していましたが、とうとう今に至っています(笑)。



初めてのアメリカ3

2016年06月07日 | 旅行
もとより貧乏旅行ですから、移動手段は乗り放題のバスです。
確か30日間乗り放題のパスというのが海外からの旅行者用に売っていました。
期間内なら。どこからどこまで行こうが完全にフリーパスです。
グレイハウンド・バスです。
いくらかは忘れましたが、貧乏なぼくでさえ安いなと思ったくらいの値段でした。

とてつもなく広大なアメリカ大陸をバスで移動するというのは、なんと言いますか、低所得者層の手段ではあります。
言わずと知れた車社会のアメリカですから、ほとんどの人は車を持っているわけですし、
急ぐ人用には飛行機なり鉄道なりも国土を網羅しています。
というか、アメリカの広大さというのはちょっと体験した人でないとなかなか感覚的に理解が難しいかもしれません。
町から町に移動するのに平気で数時間を要します。
強いてバスを利用するという人は、まぁだから、そういう人たちなわけです。

都市から都市へ移動するのには夜行便を利用して、宿代を浮かすというのがぼくの基本戦略でした。
ぼくは当然のごとく貧乏小僧でしたから、おそらく貧乏であろう人たちと同じバス内で数時間か数十時間かを
過ごすのは少しも不快なことはありませんでした。
それよりも、パック旅行では得ることのできない素のアメリカというものを感じられたような気はしています。

バスは町ごとにバスディーポと呼ばれる停留所に止まって行きます。
たいてい、そこにはファストフードの店が24時間体制でオープンしています。
マクドナルドもありましたが、大方バーガーキングでした。
よって、バスの移動中はバーガーキングのハンバーガーとポテトばかりを食う羽目になります。
若かったので、ハンバーガーを食べることに別段抵抗はなかったので、まぁ、どうってことはなかったです。
ただ、気が付いたのですが、ハンバーガーばかり食べてると腋臭がし始めます。
自分でわかります。
なるほどなぁ、と思いました。

どこからどこへ移動中かはすっかり忘れてしまいましたが、深夜にどこかのバスディーポに停車しました。
例のごとく、みんな降車してトイレに行ったりタバコを吸ったりバーガーキングに行ったりします。
ぼくもタバコをたらふく吸って、バーガーキングでポテトのチーズがけだか何だかを買って、車に乗り込みました。
隣の席には中年の黒人男性が座っていました。
それより数時間前にどこかの停留所から乗り込んできていました。
挨拶もするわけでもなく、不機嫌そうにぼくのとなりにどさりと座りました。
ぼくも余計なことは言わず、何時間か隣同士でバスに揺られていたわけです。

その彼が、休憩を終え、バスに乗り込んだぼくが手にしていたポテトをちらっと見ました。
そして憮然とした顔をして前を見据えています。
なるほどなぁ、と思いました。

意を決して、食べるか、と聞きました。
黙って頷いたので、そのまま手渡しました。
その食べ方が、いかにも何時間も食べてなさそうな食べ方でした。
ああよかったなと思い、またこれはすぐ寝たふりをしなければいけないと思って、目をつむりました。

そうしたら、しばらくバスに乗りっぱなしで疲れていたのか本当に眠っていました。
気が付いて目覚めた時には、隣の席に黒人男性の姿はありませんでした。


初めてのアメリカ2

2016年06月06日 | 旅行
次へ目的地はサンフランシスコだったと思います。
幼い子供の頃なぜか耳にしていた「思い出のサンフランシスコ」という歌が耳にこびりついてまして、
ものすごく大きなロマンティックな期待を抱いて、その地に向かいました。
思った以上に素敵な町でした。
とにかく、いろどりがきれいな街並みが続きます。
日本では見れないパステルカラーの競演です。

サンフランシスコは坂道の街です。
その坂道をケーブルカーが走っています。
急斜面を走る路面電車といった感じです。
大きなリュックを背負いながらそれに乗ってみました。
どうやって乗るのか、どうやって降りるのか、どこで降りたらいいのか、緊張の連続です。
そんなことよりも、今こうやってこの俺がサンフランシスコにいるという至福感で一杯です。
なんたって、ダーティハリーが暴れていた町にぼくがいます。

たしかフィッシャーマンズ・ワーフという港のエリアに行って、シーフードを食べたような記憶があります。
奮発しました。
そのあと山の手にあるユースホステルにてくてく歩いたんだと思います。
ガイドブックは「地球の歩き方」一冊です。
安く泊まれる宿として、ユースホステルが紹介されていたんだと思います。
今ならとても無理な距離を歩いたような気がします。
ところがそこいざ着いてみると、前もって予約しなければ泊まれないシステムでした。
今ならユースホステルというのはそういうものだと知っていますが、その時はショックでした。
炎天下の中、必要以上に重くて大きいリュックを背負って数時間上り坂を登ってきての、その結果でした。
でも、グズグズ言わないのが日本男児だとは心得ていました。
踵を返して、ダウンタウン目指して坂道を下り始めました。

「地球の歩き方」に乗っている一番安いクラスの宿を訪ねて、どうやら泊まるところを確保しました。
そのあたりの細かいやり取りは全く記憶にありません。

でも、サンフランシスコという町はとても気に入りました。
何か懐かしいような、不思議な感覚を覚えました。
その当時はまだヒッピー崩れみたいな人も街中をウロウロしていました。

10数年後、再びかの地を訪れましたが、初めて訪れた時に感じた懐かしさみたいのものは失われていませんでした。
中華街の中華料理が絶品です。
いつかまた行ってみたいです。
その時も懐かしい感じがするのでしょうか。
わかりません。

若干1名(しかも身内w)から続きを読みたいという希望がありましたので、アメリカシリーズ書きます。
自分で書いていてもなんだか新鮮で面白いです(笑)。
遠い昔の誰か他の人の話のような気がします。