風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

初めてのアメリカ

2016年06月05日 | 雑感
初めてアメリカ旅行に行ったのは1985年だったと思います。
お金ができたらとか、時間ができたらとかを待っていたのではいつまでも行けないと思い、
2月分の肉体労働のバイト代で往復航空券とバス周遊券を買い、えいやと飛行機に乗りました。

ロサンゼルスについて、飛行機で知り合った日本人の若者と同じモーテルに宿を取ったのですが、
その夜突然目が見えなくなりました、
コンタクトを外したらまったく何も見えなくなってしまいました。
その若者に救急車を呼んでもらいました。
何が何だかわかりませんでしたが、もうてっきり失明したと思いました。
コンタクトと一緒に角膜も剥がれてしまったのだろうと思いました。

もう絶望的な気分で救急車にのせられ、どこかの病院まで連れていかれました。
救急車の甲高い音を聞きながら憧れのアメリカに着いた初日に失明してしまうなんて、
なんてことだと一人嘆いていました。
病院につき、タンカから台車に乗せられ、診療室に運び込まれたのだと思います。

看護婦さんたちが何やら言ってます。
指で瞼を無理やりこじ開けられました。
やはり何も見えません。
ああ、やっぱり失明したとはかない希望も消え失せました。
身寄りも金もない日本人がいきなりアメリカで失明したら、一体その先どうなるんだろうと考えていました。

医者らしき男性の声がしました。
看護婦さんが何かのクスリを瞼をこじ開けてぼくの瞳に垂らしました。
診療室の天井の明るい照明がはっきりと見えました。
オーマイガッ!
失明していませんでした。

どうやら日本から飛行機に乗ってずっとコンタクトをしっぱなしでしたから、角膜がボロボロに傷付いていたのだそうです。
瞳に垂らした薬は、麻酔薬の一種だったみたいです。
朝まで待って、退院です。
目が明いたから病院名まで分かりました。
忘れもしません、ビバリーヒルズ・メディカルセンターです。

朝一番で前夜のモーテルに帰りました。
何で帰ったのかは全く覚えていません。
バスで帰ったような気がします。

同室の青年には、いきなり僕のために救急車を呼ぶはめになり、心配をかけることになりました。
宿を出て、バスディーポまで一緒に行き、彼は東に、ぼくは北に向かいました。
たまたま同室になった日本人の若者とはそれ以来会っていません。
彼は彼で一種異様な思い出としてこの件を覚えているのかもしれません。

その後3か月ほどアメリカ中をうろうろしました。
気が向いたら続きを書きます。





梅雨

2016年06月04日 | 雑感
唐突に梅雨入りしたみたいです。
これからひと月弱、シトシト雨が続きます。
どうせなら、また滝に入ろうかと思っています。
身も心もすくみ上るような水量の多い滝もこの時節ならではです。

水商売は浮き沈みがありますから何とも言えませんが、このところ夜の営業時間が暇です。
その代わり、昼の弁当がそろそろ2人でするのは限界かなというところまで忙しくなっています。
そういう時はそういう時で対応していくまでです。
ですから、夜の営業に関しては、予約が入ってなければパートナーのSさんには帰ってもらうようにし始めました。
ぼくはといえば、こうして暇に任せて駄文を書いているわけです。

ここ数年、新しく飲食の店を始めたということで手探り状態ながらにひたすら試行錯誤してきました。
思う方向に行っているような行っていないような、まだまだ不安定な状態ではありますが、
なんとか軌道に乗りつつある感触はあります。
どこへ向かう軌道なのか、まだよくわかりません。
ぼくが分からなくて誰が分かるんだという話なんでしょうが、ぼくが思った通りになる感じでもありません。
なんというか、常にエンジンブレーキがかかっているような、そんな変な感じです。

というわけで、今までおろそかにしていたブログなんかもできるだけ毎日書いていこうかと思っています。
読んでくださる方がいるかどうかよりも、自分の整理にはとても有効な気がします。

このブログを始めたころには、「農漁村再生プロジェクト」を立ち上げたいみたいなことを書いてました(笑)。
どうもぼく自身がそういうことをするのは無理そうです。
それよりも、そういうことを着々と実行実現している人たちを紹介できればいいですね。
けっこうそういう人たちがいるんです、ぼくの知り合いには(倒置法)。
フェイスブックだと軽すぎるし、どういう仕方がいいのか探ってみたいと思います。

まだまだ研究したいことがあります。
神道のルーツ、日本のルーツ、縄文文化、宇宙とエジプト、音・香り・味・色彩・感触、五感の秘密と可能性、
エネルギーとしての意識。
全てが中途半端です。
しばらくは、降りしきる雨音に耳を傾けながら、心に渦巻く雑音やら雑念やらを打ち払ってみます。
いろいろ、本気にならないと、すべてが中途半端になりそうです。




どうでもいい

2016年06月03日 | 
どうでもいい
すべてはどうでもいい
どうでもいいからこそ
すべてが愛しい

愛しいに理由があれば窮屈だ
愛しいに理由なんぞあってほしくない
どうでもいいからこそ
すべては愛しい

命など吹き飛んでしまえばいい
それでも吹き飛ばされもせず
太陽の下にじっと身をすくめているからこそ
命は愛しい

どうでもいいから自由が尊い
どうでもいいから自分の生き方を決められる
どうでもいいから他人を信じたい
どうでもいいから季節の移り変わりが耐え難く愛しい

どうでもいいという大海の中を泳ぎ回る
どこの港がいいだのあそこの岩礁がシブいだの
どうでもいい噂が次から次へと流れてくる
すべては自分の手腕と決断にかかっている

ややもすればどうでもよくない世界にあこがれる
何かを全部誰かに決めてもらいたくなるのだ
そんな誘惑に打ち勝ってどうでもいい大海に泳ぎ出る
自分の進路は自分で決める

死んだっていい
それこそどうでもいい
どうでもいいからこそ
生きてる限りは生きてやる

それだけだから
生きることが楽しくなる
思う存分に冒険したくなる
死ぬという恐怖が無くなる

理由がれば理由から外れれば怖くなる
何かのために生きれば何かのためを失えば怖くなる
生きることにこだわれば死ぬことが怖くなる
恐れは次から次へと恐れを生み続け

そんなこんなもどうでもいい
どうでもいい大海を泳ぎ切ろう
波が荒れようが
どこにいるかが分からなくなろうが

泳ぎ切ろう
目的地などどうでもいい
どこかに辿り着くのもいいし
ひたすら漂うのもいい

ムキになって泳いだらだめだ
時にはただぷかぷか浮かんで太陽と風と空に身を任せよう
すべてはどうでもいい
完璧だ







時のはじまり

2016年06月03日 | 
何もかもを見抜く目が
何もかもを隠す目に出会ったとき
全てが完全にスパリと消えてしまった

時は止まり
色を失い
質量も消えた
風さえそよとも吹かなかった

何もかもが消え果てて
全ての記憶が失われたころ
果てしのない暗黒の空無のかなたで
誰かがクスリと笑った

そうしてまた
お馴染みの波紋が虚空に広がった
その様子を天空の外から眺めていた天使たちが
やれやれと身支度を始めた

ある顔色の悪い天使が憂鬱そうに古びた木箱から重たそうな爆薬を取り出し
いいかにも嫌でたまらないといった風情でそれに点火した
暗黒の空無の一点が唐突に爆発した
そうして再び 時が流れ始めた





ある日のテレビ

2016年03月04日 | 雑感
普段まったくといっていいほどテレビを見なくなりましたが、何とはなしにテレビを付けてみることがあります。
一昨日の夜見たのがNHKのスーパープレゼンテーション「TED」。
ブラジルのカリスマ経営者、リカルド・セムラー。
初めて知りましたが、凄い人でした。
常人の遥か先を歩いてる経営者でした。
数年後には彼のやり方が会社経営の主流になる予感がします。

その次にチャンネルを合わせたのが、マレーシアで行われている卓球の世界選手権の予選、日本対ドイツ。
5人対5人で3つ先勝した方が勝つわけですが、2対2のスコアで、最終戦が福原愛ちゃん。
相手は負け越している苦手な選手。
気合十分で善戦しましたが、惜敗。
インタビューを受けるころには、負けたのは自分のせいだと、鼻を赤くして泣いてました。
初めて卓球の試合というのを見ましたが、緊張感と技術力の高さにすっかり魅了されました。
人気の石川、福原両選手の試合も始めてじっくり見ることができました。

何かテレビで久しぶりに充実した時間を過ごすことができました。

で、昨日です。
前の日のことはすっかり忘れていましたが、また何となくテレビをつけてみましたら、なんと卓球の決勝リーグ、
前日と同じカード、日本対ドイツをやっていました。
石川、福原両選手はすさまじい気迫で、先日負けた相手に雪辱を晴らして、強い相手を撃退しました。
これには参りました。
涙がだらだら流れるのを止めようがありませんでした。

テレビというのはたまにこんな感動が待ち受けています。
ほんとにたま~にですが(笑)。



焚火

2016年02月05日 | 雑感
というわけで、今日も山に登ってきました。
歳を取るとどうしても膝が弱くなり、特に下りでは膝が壊れてしまうんじゃないかと思うくらいに
がくがくになっていましたが、登山用のステッキを持つようになってから、登りも下りもへっちゃらになりました。
便利なものがあったものです。
ステッキと軽登山靴をいつも車に積んでおいて、隙さえあればいつでも登れる体制にしようと思っています。

山といっても、近郊の標高数百メートルの低山ですから、往復数時間もあれば登れます。
おにぎりとお茶をリュックにいれて行けばOKです。
実はこういう低山は冬場がベストシーズンです。
歩き出したら体がポカポカして暑いくらいですし、冷たい風が心地よいです。
逆に夏場などは暑さと湿気と虫でウンザリします。

東京にいたころは、月に一二回は信州に山登りに行ってました。
新宿発の夜行列車で早朝に現地に着き、日帰りで山頂を往復し、駅前で信州そばを食べ夜の列車で帰るというパターンでした。
ゴールデンウィークと11月の連休は泊りがけでどこかの山を縦走するのが何年かの習慣でした。
ですから、九州に着たてしばらくのうちは、登りたくなるような高い山がないのがとても寂しく感じたものです。
そのうち山に登る習慣もなくなり、すっかり体力も気力も衰えました。
で、ふと見回せば、老体が登るのに格好の低山が周りにあるのに気づいて登り始めたという次第です。

そういえば、海で泳ぎ始めたのもここ数年のことです。
若いころはもちろん潜ったり泳いだりしていましたが、そのうち海はバーベキューしたり、不純な動機にまみれたり、
そんな感じで過ごすことが多くなって行きましたが、娘を連れていくようになり、どせならとクロールでしっかり泳ぐように
なりました。
どんどん無駄に健康になる中高年です。
娘がまだパパというものにポジティブな幻想を抱いているうちに(あと数年?)、キャンプと登山だけは教えたいです。
あと、神社参拝の仕方といろいろな形の雲があるということを教えておきたいです。
以前は仕事柄一年に数度は海外に行っていましたが、ここ数年はとんとご無沙汰です。
娘を連れてイタリアとロンドンに行きたいです。
これはどうかな。
今のところその可能性は見えません。

まぁ、なんでもいいです。
全ての経験は本来平等に尊いです。
畑で草をむしる喜びも、パリのカフェで街行く人々を眺める喜びも、「喜び」です。
全ての瞬間を喜べる人になるのを、「悟り」といいます。
悟りはある状態や段階ではありません。
悟りは「行為」です。
誰でも可能な行為です。

なんだか合掌したくなりました(笑)








消え方

2016年02月04日 | 雑感
一昨日近辺の山に登ったのですが、風は冷たいのですが陽射しが春めいてました。
節分、そして立春と暦の通りですね。

四捨五入すると還暦の歳になりました。
自分が年寄りになるというのはまだなじめません。
いずれ何もかもが弱って、否応なしになじんでいくのでしょうが。

何かをし遂げようとか、残そうとか思ったことがありません。
いつも目の前に起きる事象を楽しんで消化しようとしてきたような気がします。

でも、最近ふと思います。
なにもし遂げる必要も、残す必要も無いとは思うのですが、足跡すら残さず消えてしまうのだろうかと。
うちの娘はぼくの母親のことも父親のことも全く知りません。
両親とも東北で生まれ育ちあの世に逝きましたから、仕方がないとは言え、
九州生まれの娘は彼らに会ったことも、彼らに関する話を誰からも聞いたことすらありません。
おそらく彼女はぼくの母親や父親の存在を全く知らないまま成人していきます。
彼女にとって僕の母親、父親という存在は無です。
ぼくの両親の足跡を知らないどころか、その存在すら知りません。

娘が成人するころには、ぼくは70近くの老人です。
自分の若いころをを振り返ればわかりますが、成人するころの青年にとって70近い老人の心境など、
まったくどうでもいいです。
若い人間というのは、自分の進路と自分の伴侶だけが関心の的です。
そういうものです。

人間も年取ってそのまま煙のように消えてなくなればいいのですが、そうもいかないから始末に困ります。
葬式だのなんだのになります。
このまま死んで、葬式などされるなどと想像しただけで、恥をさらすだけじゃないかという気がします。
野山に捨てられて、朽ちていくというのが一番親切なんじゃないかと思ったりします。

立派な足跡を残して死ぬ人もいます。
周りに迷惑ばかりかけて死ぬ人もいます。
誰にも気が付かれずひっそり死んでいく人もいるでしょう。
なんにせよ、人は死にます。

そして、なんにせよ、人は死ぬまで生き続けます。
人がコントロールできるのは、おのれの生き様だけです。
焼酎を飲みながらぼんやりそう思います。

この例に寄った感傷パターンがたまらなく月並みなわけです。

それで、そんなこんなが嫌になり、月を見ます。
真正面から、じっと月を見つめます。
とりあえずぼくはうなだれて見せます。
その次に、顔を上げて歯をむき出しにして月に向かって笑って見せます。
そして月から目をそらし、星々を仰ぎます。
大きく仰ぎながら、深く深く深呼吸をします。
何があるのでもなく、何もないのでもありません。
ぼくの呼吸と星々の光の明滅のリズムが溶けあいます。
時は止まり、微笑みだけが天空に満ちます。

明日も山に登ってこようと思っています。


季節の変わり目

2015年11月25日 | 雑感
昨日車を運転していて、どういうわけか懐かしい感じで胸が苦しくなりました。
窓の外には変哲の無い風景が続くばかりなのですが、懐かしさは消えません。
今日になってその訳が分かりました。
寒気が西から入り込んで、「冬」の香りがしたんですね。
東北生まれのぼくは、秋から冬に移り変わる日というのが分かります。
山で初雪が降るころです。
大気の匂いがその日を境に代わります。
九州でその大気の移り変わり目を感じたことはなかったので、なんか久しぶりな感覚で懐かしくなったのでしょう。

色々なことが起きては消えて行ってるわけですが、まさに流れに浮かぶうたかたです。
その一つ一つに大した意味などありませんが、一つ一つに味わい深いものがあるのは確かです。
目の前を流れていく出来事を呆然と見過ごしてしまうのには、なんというかもったいない気もします。
人の人生はどう生きたかの意味ではなく、どう生きたの味わいにあると、年を取ったら思います。

一昨日は仙臺屋の忘年会ライブでした。
年々スキルの高い人の参加率が高くなっているのは何よりです。
それでも、ド素人の仙臺屋バンドはオープニングを飾り続けようと思ってます。
皆にど素人でもできる愛と勇気を送り続けようと思っています(笑)。

日本文化の発信プロジェクトは細々とながら、着々と進行中です。
高千穂神社の宮司様のインタヴューは完了しました。
修験道の導師、禅の老師、茶道のお師匠様、次々と動画発信予定です。

焦ってはいませんが、何もしないままで呆然と過ごす癖がついていますので、ここらで心機一転です。
日々経験したことくらいは記録に残していきたいと思います。
今思い返しても、この9月に行ったバリ島での経験などは、とても貴重なルポルタージュになりえるのになと思います。
インプットばかりでアウトプットが長らくなさ過ぎました。

ま、いろいろあります。
生産性を妨げているのは例によって「酒」です。
考え中です。
一切断つのか、程よい距離感を保てるのか。
正念場です。



何に勝つ?

2015年09月03日 | 雑感
またまたブログ更新の日にちが空いてしまいました。
なんというか、言い訳に言葉に詰まります。
忙しいのは忙しいのですが、どこに向かっているのかを説明する指針を時折見失います。
なる様になればいいと思うのが本意ですので、行く先を見失うから困るというのでもありません。
誰に向かって、何を言うのかという動機を時折見失います。
自分に対して?
自分の身近な人に対して?
そういう人たちには、何を語ろうが、自分の行動が圧倒的に説明責任を果たしています。
あいかわらずの、ただの飲んだくれ、です。

まぁ、それは仕方がありません。
そのとおりですから。
でも、どうやら禁煙に成功しそうです。
もう止めてからひと月以上は立ちます。
今でも吸いたいと言えば吸いたいです。
でも、吸いません。
吸わないことを選択できます。

酒も、どうやら、距離を置かざるを得ない感じです。
説明が難しいのですが、美味しくないのです。
美味しいかどうかは問題外のアルコールなのですが、美味しくないというのが前面に立ちます。
こんなことは初めてです。
禁酒までするかどうかは分かりませんが、まぁ、酒に溺れる日々からは離れる予感はあります。

簡単に言うと、無茶をしても何やらかにやらが可能な年齢ではなくなったということです。
したい放題すれば、ひたすら心身が疲弊してそれで終いです。
青春時代なら、エネルギーの過剰は、ロマンティックな物語に昇華しえます。
老年になってからのエネルギー過剰の癖としての性向は、見苦しい悪あがきしか生み出しません。
悪あがきを物語としてきちんと成立させるだけのエネルギーに欠けるがために、見苦しい痴話となります。

老年になれば、それなりの生き方があるはずです。
ひとつは、対象との距離感の持ち方です。
冷めてもおらず、かといって、夢中にもならず。
対象そのものと素で向き合うこと。

どうしても自分を語りたくなるでしょうが、あえて黙して、相手が何を感じ何を考えているのかに
注意を集中すること。
自分より若い人間と共に生きようとするなら、自分をわからせることよりも相手を知ろうとすること。
その時初めて、若い人はあなたに耳を傾ける時が来ます。

なんてことを、またつらつら書くわけです。
酔いながら。
これ以上のことがあるとも思いませんし、これでいいとも思いません。
これでも、いろいろ考えてはいるのです。
考えていることを形にしていくのは、そう簡単なことではありません。
でも、考えることをやめたら、永遠にそれが形になることもありません。

一人一人が考えることなんて無駄だと思ったら負けです。
子供に、お前が夢想し考えることが無駄だといったら負けです。
負けるのは簡単ですが、勝つのは難しいです。
でも、勝ちましょう(笑)。




何を積み重ねる?

2015年03月07日 | 雑感
またブログの更新が空いてしまいました。
いろいろ言い訳があります。
まず、ネット通販で買った安いPCが恐ろしいほどすぐに固まります。
Winddows8ですが、心底嫌いになりました(笑)。
二つ目は、弁当事業が本当に忙しくなりました。
ほぼ毎日数十個の弁当の注文があります。
これだけ忙しいのに常に金欠状態というのはどこかに問題があるのでしょう。
どこに問題があるかは経営者としてはその所在は分りますが、かといって金銭に絡むことは面倒だからと、
とっとと解決できる様なことでもありません。
商売は地道に信用と実績を積み上げるということしかできません。
でも、それらが積み上げられたら、それはたやすくは崩れません。
ひたすら積み上げるだけです。

何かを積み上げるという作業はずぅ~と苦手でした。
産まれてこの方、そういう地道な歩みということから逃げてたと断言してもいいくらいです。
でも、今はひたすら一歩一歩積み重ねています。
積み重ねさせて頂いてます。
ぼくの中では、大きなチャレンジであったわけですが、何とか漕ぎつけています。

生きている限り、次から次へとチャレンジが続きます。
チャレンジが来るということこそが神の恩寵だと思います。
神の恩寵などという言葉を使うとたちまち誤解を受けそうですが、まぁ続けます。

生命とは何か、です。
植物、鉱物、動物、バクテリア、そして、人。
万物は何をしているのでしょう。
生命保存のためにすべては遺伝子が操作支配している説もあります。
生存するための情報を遺伝子レベルで残すというのは頷けます。
でも、なんのために生命を保存しなけらならないかの説明にはなっていません。
あれやこれやとメンドクサイ生命など最初からなかった方が平和と言えば平和です。
しーんと静まりかえった世界。
いかなる諍いも競争もない世界、挫折も進化もその克服もない世界です。
でも、それって苦しみや悲しみもない代わりに、何の喜びもない世界でもあります。

酔いが回ってきたので、続きは今度!










あけましておめでとございます

2015年01月17日 | 雑感
遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

当たり前のことですが、いろいろなことが毎日起こり続けます。
それに対して、違和感があろうが何であろうが、いろいろなことが起こり続けます。
後で考えれば、なるほどそういうことだったのかと思うことがほとんどです。
起こることは、起こるべくして起こるということです。
そして、今でも起こるべきことは起き続けるということです。

既に年頭は過ぎました。
年末年始の御礼御挨拶を欠いたまま、無礼に生きています。
それではよくないと思いつつ数十年です。
何はともあれ、何とか足元を固めたいと必死に生きてきた数年ではありました。
なんとかかんとか、足元が固まりつつある感触はあります。
楽しいかと聞かれれば、黙るしかありません。
楽しかろうが苦しかろうが、覚悟の上の途上です。
楽しさも苦しさもひっくるめた上の行脚です。
幸いなことに、悔いというのは何ひとつありません。
どこへ向かっている行脚なのか?

ぼくがぼくであるための行脚です。
ぼくがぼくであることが幸せであるための行脚です。

その他はすべて遊戯です。
ビジネス遊戯、恋愛遊戯、哲学遊戯・・・。
でも遊戯もとても大切な行脚の行程です。
行脚自体が壮大な遊戯なのだとは思いますが。

今年初めてのブログなので、「愛」について書きます。
愛という訳語ほど厄介なものはないかもしれません。
仏教では「愛」という言葉は、愛執という「執着心」に近い超脱すべき心境とされていますが、
おなじ「LOVE」という言葉で、西欧の精神世界は至高の世界をイメージしているようです。

好きな人や家族ととずっと一緒にいたいというのと、世界人類の恒久的平和を願う気持ちというのは、
同じ「愛」という言葉でくくれるもなのでしょうか。
誰かを大事にしたいという気持ちということでは一緒なのですが、「自分にとって」大切なものに執着するという気持ちと、
「自分には直接的には関係ない」何かを大切に使用とする気持ちとの間には、
大きな大きな心境の境界なもののようなものがあると思います。

自分と直接的にはかかわりのない人に対する大きな関心や共感や心痛というのは合理的な反応ではありませんが、
きわめて精神的な反応です。
自分に関わる人に対する共感や同情や哀感というのは、猫や犬でも持つ精神的というよりは生物的な反応です。
猫はアフリカや中東の猫に同情はしません。

で、ぼくが思うに、「愛」という概念がうまく日本人に溶け込めない理由は、もっとすぐれた概念が東洋にあるからだと思うのです。
東洋といい方が最近好きではありません。
少なくとも日本にはあるからなのだと思います。
それは「慈(いつく)しみ」と「愛(め)でる」です。
まさに「慈愛」という言葉があります。
慈愛という言葉には、誰かを独占的に愛し愛されたいというニュアンスは微塵もありません。

仏教では、「慈悲」という言葉もあります。
「慈」
この言葉がキーポイントのような気がします。

なんにせよ、誰かが何かをしてくれて自分を幸せにしてくれるという無意識の願望を持っていると、
この先どんどん生きづらくなると思います。
「自分」という宝の山をとっとと発見しないと、ですね。
宝の山は自分以外の外にはありませんよ。
偽物だから、様々な攻略を巡らしては、人目を引いてるわけです。
さてさて、その「自分」とは?
そこからがスタートです(笑)

ビジョン・クエスト

2014年11月01日 | 雑感
毎日書くと言いながら、すぐこれです(笑)。
まぁ、でもできるだけ書いていこうかと思っています。

今年の秋は、晴れた日が多く、秋が好きなぼくとしてはとても楽しめました。
近年、めっきり四季の境目があいまいになり、夏と冬しかなくなってきているように感じていましたが、
今年はしっかりと秋を感じることができました。

11月にも入れば、初冬になるのでしょう。
北国では、雪虫が飛び始め、大気の中に雪の匂いを感じるようになります。
そのころに山や森の中に入りますと、枯葉が風に吹かれてカサコソいう以外の音も、生命の気配もなくなります。
色彩も単調な茶色に染まります。
鳥の声も虫の音も聞こえません。
全ての生命が鳴りを潜めます。

そういう時節に、森の奥の切り株に腰かけて、持参した携帯ガスコンロで湯を沸かし、時間をかけて飲むコーヒーは美味いです。
そういう時は、ウイスキーや酒ではありません。
コーヒーです。
苦めの方がいいです。
まぁ、そういう体験は恐ろしく長い間していないわけですが、そろそろそういう活動も復活しようかなと思っています。

ヴィジョン・クエストというネイティブアメリカンの青年たちのいわば通過儀礼があります。
食料も水も持たず、何日間か荒野でった一人で過ごします。
徹底的に大地と、生と死と、たった一人で対峙します。
自分の強さも、弱さも、ともに強烈に体験します。
その体験はその青年の魂に一生涯にわたって刻み込まれます。

ぼくはそういう体験をうらやましいと思います。
強さを本物にするには、自分の弱さを思い知っていないと、無理なことなんじゃないかと思っています。
自分の弱さを知るからこそ、強くなれるというか。

今更、そういう過酷な体験をしたいわけではありません。
ただ、若い時にしておきたかったなぁという感慨はあります。
今は切り株でコーヒーを飲むくらいで十分です。




記憶

2014年10月20日 | 雑感
昨日の記事は読むに堪えられず削除しました。
泥酔状態で書きました。
書けばいいというものじゃありませんね。

気持ちの良い天気が続いています。
釣りでも、登山でも、公園でも、どこへ行っても気持ちがいいでしょうね。
まさに行楽の秋です。
そろそろ北海道辺りでは初冠雪の頃なんでしょうか。

店の隣はカーディーラーのホンダで、夜間は無人になるのですが、その広い駐車場で子供たちが
なにやら大声をあげながら走り回って遅くまで遊んでいました。
そういうのって子供の記憶に深く刻まれるんですよね。
特に、夜中に走り回り、叫びまわるというのは、子供にとってはとてもスリリングな経験だと思います。
大人になっても、ホンダの車を見るたびに、その時のことを思い出したりするわけです。

ぼくもふとしたきっかけに何度も蘇る思い出があります。
5歳か6歳の頃だと思います。
何かのことで母親に叱られ、家を飛び出しました。
どこに行く当てもなく、べそをかきながら暗い街中を歩いていきます。
母親が追いかけてくれるはずだと期待しているのですが、いつまでたっても母親は来てくれません。
寂しさと悔しさと怖さがごちゃ混ぜになって心をかき混ぜます。
大人になった今では大した距離ではありませんが、500メートルくらい離れた橋に差し掛かった時に、
母親に手をつかまれました。
幼い子供にとっては、遠い遠い道のりでした。
手をつないでの帰り道、大泣きに大泣きでした。
母親は何も言わず、ただ僕の手を引っ張っていました。

それだけの記憶です。
なぜ、それが何度も何度も蘇るのか、わかりません。
決して嫌な記憶として蘇るわけではありません。
何か大切な思い出として蘇ります。
それから間もなくして、ある事情があって、母親は目の前からいなくなります。
遠い遠いところへ行ってしまいます。
家を出たら、誰も引き止める人がいなくなってしまいました。
5歳か6歳の子供にはきつい経験です。
でも、きつかったであろう様々な経験は、あまり記憶に残っていません。
思い出せと言われれば思い出せますが、あまりその気になれません。

記憶というのは不思議です。
国木田独歩の小説にもあったと思いますが、重要さや楽しさや強烈さで記憶が残るわけではありません。
なんだかわからないけど、鮮明に記憶に残ることって、多々あります。
ふと見た風景であったり、誰かの何気ないしぐさであったり、風に漂っていた匂いだったりします。

ある人が言ってます。
あの世に持っていけるのは、何を経験し、何を感じただけだ、と。
まったく同感です。
できうるならば、楽しむのも苦しむのも悲しむのも、豊かに楽しみ、豊かに苦しみ、豊かに悲しんでいきたいものです。




日常と非日常

2014年10月18日 | 雑感
これから、できるだけ毎日ブログを書いていこうかと思っています。
何か特別書きたいことというようなことは、年を取るにつれどんどんなくなっています。
なんでもないような日常の中に味わいというか、妙味とうか、そんなものを見つけ出す傾向が強くなっています。
座禅の影響がじわじわと体全体に染み込んでいっているのではないかと思っています。

考えてみれば、海外旅行とか、初めてのデートとか、子供の誕生とか、心が踊ることというのは確かにあるのですが、
海外旅行も何度も行けば長いフライトが苦痛になりますし、あれほど好きだった彼女と喧嘩を重ねるようになりますし、
子供も自我を発達させるにしたがって小憎らしくなっていきます。
非日常も繰り返し経験すれば、ただの日常になっていきます。
たいていの若い子が憧れる芸能人だって、彼らからすれば舞台の上で、スクリーンの中で、テレビの中で演じるのは
ただの日常になっていることでしょう。

何か特別なイベント、非日常を追いかけるのではなく、日常の瞬間瞬間を輝かせることができれば、
日常こそが最高の経験=非日常になります。
日常と非日常の区別がなくなります。
全ての瞬間が至福の時になります。
そうなる状態を、「涅槃」に入るというのでしょう。
頭でその状態を理解しても、体全体、心全体がその境地に没入するのはなかなか難しいのかもしれません。
ぼくはまだまだです。
ただ、そのような境地があり得ることは、なぜだか確信しています。

ぼうっと秋の風に吹かれて至福を感じ、枯葉がかさこそ音を立てるのを聞いて至福を感じ、転んだ子供を抱き上げる
母親の姿を見て至福を感じ、もう見るもの聞くもの至福の嵐です(笑)。
そうなれればいいなとか、そんなの無理だとかという話だとは思いません。
そうなると決めればそうなることのような気がします。
なかなか小理屈つけてそう決めない人が多いだけのような気がします。

相変わらず、世界は大荒れです。
中東、西アフリカ、火薬庫だらけです。
非日常の嵐です。
ぼくは日常を大切にしていこうと思っています。

出会いと別れ

2014年10月17日 | 雑感
人が生きていれば、出会いと別れがつきものです。
毎日毎日、目に触れる人は数えきれないほどいるわけですが、実際に触れ合う人はほんのわずかです。
また、せっかく出合っても、数年数十年と付き合いが続く人というのも稀です。
かつてものすごい頻度で会っていた人も、いつの間にか疎遠になるということも珍しいことではありません。

人が出会い、また別れる時には、何かタイミングというか、縁が熟すというか、意味深い何かがあるように思われます。
えてして、その意味は後になってから初めてわかるような、そんな意味ですが。
初めから意味が分かって、人と出会ったり別れたりするのでは、さぞかし味気ない出会いと別れになることでしょう。
胸のときめきや、痛みや、人生の意味について考えることや、そういった生きるということの隠された味わいを失います。

コントロールできないからこその出会いと別れの意味深さなんだと思います。
コントロールできれば、それは単なるパワーゲームでしかありません。
自分の都合のよい人と出会い、都合の悪い人は切り捨てるだけです。

出会いを大切にするというのは、誰でも彼でも出会う人を大切にするという意味ではありませんでしょう。
もちろん出会う人に丁寧に、新設に接するというのは、大切なんだと思います。
でも、何か接点があって、実際に付き合うようになる人というのは、何かしらの「縁」持っているのだと思います。
もちろん良縁ばかりではありません。
悪縁というのもあると年を重ねた今ではきっぱり言えます。
良縁を豊かに育て、悪縁は次の次元に昇華していく。
そうできれば、いうことないですね。

実際は、良縁に甘え過ぎ、悪縁にずるずる引きずられるというのが、よくあるパターンですが。
良縁とか悪縁とか言いましたが、自分の外側にいい人や悪い人がいるという風にとると間違えます。
自分の心がある種のパターンでもって、人に引きつけられ、人を引きつけるだけのことです。

つい最近、ある人がある場所を去りました。
その状況を見ていて、なんとなく思ったことです。