Ommo's

古い曲が気になる

オーティス・レディングの「テネシー・ワルツ」

2019-08-13 | 日記・エッセイ・コラム
オーティス・レディングも「テネシー・ワルツ」をレコーディングしている。



「テネシー・ワルツ」を歌う江利チエミの映像は、心穏やかに見られない。江利チエミのファンだった母を思い出す………お盆のせいかな………。



「テネシー・ワルツ」は日本でも大ヒットした

2019-08-12 | 日記・エッセイ・コラム


「恋人とテネシー・ワルツを踊っていると旧友と出会い、恋人を紹介する。そして、その友だちに恋人を盗られてしまった。あの夜の事とテネシー・ワルツは忘れない」という悲痛な「テネシー・ワルツ Tennessee Walts」は、ゴールデン・ウエスト・カウボーイのピー・ウィー・キングとレッド・スチュワートが作り、1948年に出版された。最大のヒットはパティ・ペイジのカバーで、日本では江利チエミのデビュー・レコード。このSPレコードはなんと23万枚も売れたという。1952年(昭和27年)、このとき江利チエミは15歳。






「ユー・ビロング・トゥ・ミー」は、江利チエミもカバーしている

2019-08-10 | 日記・エッセイ・コラム


トミー・ドーシー・オーケストラのバックアップ・コーラスグループ、パイド・パイパーズのリードシンガー、ジョー・スタッフォードがソロになってリリースした「ユー・ビロング・トゥ・ミー You Belong to Me」(1952年)は、アメリカとイギリスのヒットチャートでナンバー1になった。この曲がイギリスで女性シンガーがヒットチャートの一位になった最初の曲だ。

「ユー・ビロング・トゥ・ミー」の作者としてピー・ウィー・キング/レッド・スチュワート/チルトン・プライスの3人がクレジットされているが、原曲はケンタッキー州ルイビルの女性ソングライター、チルトン・プライス Chilton Price が作った「Hurry Home to Me」。それは第二次世界大戦中、海外で従軍している愛しい人の帰還を願う女性の思いを歌っていた。

ピー・ウィー・キングとレッド・スチュワートによって「You Belong to Me」と改題され、1952年、最初のレコーディングはスー・トンプソンだった。そして最大のヒットがジョー・スタッフォードのカバーなのだ。日本では江利チエミのレコーディングが早い(1953年4月)。このとき江利チエミ、16歳。

ピー・ウィー・キングとレッド・スチュワートは、「テネシー・ワルツ」も共作している。





「アイル・ネバー・スマイル・アゲイン」が最初の全米ナンバー1

2019-08-09 | 日記・エッセイ・コラム




1894年創刊のビルボード誌が、はじめて全米のヒットチャートを掲載したのは、1940年7月27日号でのこと。その第一回目のナンバー1が、トミー・ドーシー・オーケストラの「アイル・ネバー・スマイル・アゲイン I'll Never Smile Again」だった。ボーカルは、フランク・シナトラとザ・パイド・パイパーズ、このヒットからフランク・シナトラのトップシンガーとしての華々しいキャリアがスタートする。

「アイル・ネバー・スマイル・アゲイン」は、1938年、カナダ・トロントの女性ソングライター、ルース・ロウ Ruth Lowe が結婚一年で亡くなった夫を偲んで書いた悲しい曲だ。このときルース・ロウは24歳。

I'll never smile again
わたしは 二度と再び 微笑まない
Until I smile at you
あなたに向かって 微笑むまでは
I'll never laugh again
わたしは 二度と再び 笑わない
What good would it do?
それが いったい 何になるの?

最初にこの曲を放送したのはカナダのラジオ局CBCのオーケストラで、アレンジャーはパーシー・フェイスだった。(やがてイージーリスニングのジャンルで世界的に知られるパーシー・フェイスは、当時まだカナダにいてトロントのラジオ局で冠番組をもっていた)。そして1939年頃、作者のルース・ロウは、この曲をトミー・ドーシー・オーケストラのサックス奏者にみせる。こうしてフランク・シナトラとザ・パイド・パイパーが歌うトミー・ドーシー・オーケストラの「アイル・ネバー・スマイル・アゲイン」は、ビルボード誌全米ナンバー1の大ヒット曲となった。
さまざまなカヴァーが発売されるが、グレン・ミラー・オーケストラのすこしアップテンポなバージョンもいい感じだ。



フランク・シナトラの『オンリー・ザ・ロンリー』

2019-08-07 | 日記・エッセイ・コラム
オンリー・ザ・ロンリー
ネルソン・リドル,フェリックス・スラトキン
EMIミュージック・ジャパン


フランク・シナトラの最も悲しいアルバムといわれる『オンリー・ザ・ロンリー Frank Sinatra Sing for Only the Lonely』(1958年)は、ネルソン・リドルのアレンジだ。ネルソン・リドルはアレンジを依頼される直前に幼い娘を気管支喘息で亡くし、指揮をした5月5日のセッションの時は母親が重病で、その4日後に亡くなっている。このセッションは使われず、5月29日の2回目のレコーディングではフェリックス・スラトキンが指揮をした。





What's New は1938年に作られた

2019-08-06 | 日記・エッセイ・コラム
ホワッツ・ニュー(SACD/CDハイブリッド盤)
ワーナーミュージック・ジャパン




「ホワッツ・ニュー What's New」は、1938年、ボブ・クロスビー・オーケストラがレコーディングしたインストゥルメンタルの“I'm Free”が原曲。作曲はベーシストのボブ・ハガート。この曲に作詞家のジョニー・バークが詞をつけ、ビング・クロスビーのレコードがヒットし、多くのミュージシャンがカバーするスタンダードになった。わたしは、リンダ・ロンシュタットのアルバム『What's New』(1983年)の「ホワッツ・ニュー」が好きだ。アレンジとオーケストラの指揮がネルソン・リドルなのだ。



「マーシー・マーシー・マーシー」

2019-08-02 | 日記・エッセイ・コラム
マーシー・マーシー・マーシー(紙ジャケ仕様)
キャノンボール・アダレイ,ナット・アダレイ,ジョー・ザヴィヌル,ヴィクター・ガスキン,ロイ・マッカーディ
EMIミュージック・ジャパン




ワルター・ワンダレイの「サマー・サンバ」が流行ったころ、ジャズ喫茶でキャノンボール・アダレー・クインテットの「マーシー・マーシー・マーシー」がよくかかった。ジョー・ザヴィヌルのエレクトリックピアノをフィーチャーしたじつにファンキーな曲だ。その「マーシー・マーシー・マーシー」のヒットから十数年後、ジョー・ザヴィヌルの演奏を舞台袖でリハーサルから間近で見ることができた。そのウェザー・リポート・コンサートのベースはジャコ・パストリアスだった。


So Niceは、「サマー・サンバ」

2019-08-01 | 日記・エッセイ・コラム


1966年、初めて聴いた「サマー・サンバ Summer Samba」はワルター・ワンダレイのインストゥルメンタルだった。マルコス・ヴァーリ作曲のオリジナルはポルトガル語で歌われ、英語の歌詞がつけられ“So Nice”となった。“So Nice”の作詞家はノーマン・ギンベル。ノーマン・ギンベルは、「キエン・セラ」「イパネマの娘」「シェルブールの雨傘」などの英語の歌詞を書き、そして「やさしく歌って Killing Me Softly with His Song」の作詞でグラミー賞を受賞している。