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帯広高等女学校の制服はセーラー服だった

2012-11-01 | 日記・エッセイ・コラム

  帯広高等女学校の制服姿の中城ふみ子さんを確認したくて、帯広市図書館に出かけた。もちろん、徒歩だ。往復2時間、ちょうどいい散歩かな。

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  わが帯広三条高等学校の前身、帯広高等女学校の制服は、セーラー服だった。

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 帯広高等女学校1年生の頃の中城ふみ子さん。美少女だ。

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 中城ふみ子さんは、夏服のセーラー服。校舎の板壁と白い窓枠は見覚えがある。わたしの通った帯広三条高校に、まったくこのまま残っていた。

 

 帯広三条高校4期生の、医学博士・松嶋喬先生にうかがったが、男女共学の新制高校になったばかりの当時は、まだ校舎全体に女学校の雰囲気が色濃く残っていて、男子便所は仮設の様相だったという。

 

 

 

 わが帯広三条高校の大先輩、松嶋喬先生は、北大病院助教授、函館市立病院院長、稲積記念病院院長などを歴任して、現在は、札幌・手稲いなづみ病院顧問をされている。『ウイルス肝炎の病態と治療に関する研究』で北海道医師会賞・北海道知事賞を受賞している。

    “北海道新聞帯広支社 『わたしの十勝』 松嶋喬さん 内科医 夢中で遊んだ少年時代 級友と60年ぶりに再会” http://tokachi.hokkaido-np.co.jp/watashino_tokachi/20120613.html

 

 松嶋喬先生とわたしの母は、帯広三条高校の同級生なのだ。母が亡くなるその日まで、毎朝、先生から電話をいただいた。

 松嶋先生は毎朝、母の症状をたずね、わたしに適切なアドバイスをしてくれた。奥様の珪子さんからは、毎晩、母に励ましの電話をいただいた。そして先生は、なんども帯広の自宅まで母の診察に来てくれた。もちろん無償で、札幌・帯広往復の費用も先生ご自身の自腹で。

 

 そして、母の通夜・告別式には、ご夫婦で参列していただき、さらに、火葬場で骨を拾っていただいた。

 

 先生と母は、近所に暮らして、帯広三条高校に通学していた。かって帯広駅の西側に国鉄病院があって、そこで松嶋先生のお父さんは外科の医師をしていた。国鉄病院は、国鉄職員だけでなく、一般住民も診察していた。当時は十勝管内最大の総合病院だったのだ。

 そして、その界隈は、国鉄職員のための売店や散髪屋や美容室などさまざまな施設があり、官舎が並んでいた。松嶋先生は、その国鉄病院官舎に住み、三条高校に通っていた。そして、わたしの母は、その国鉄官舎がならぶ少し北側で、大きく商売をしていた老舗電気店の娘で、やはり三条高校に通っていた。つまり、松嶋先生と母はおなじ歳で、帯広小学校、帯広第三中学校、帯広三条高校とおなじ学校に、おなじ区域から通っていたわけだ。(松嶋先生は、小学5年生のとき、札幌から引っ越してきた)。

 

 

 

 帯広市図書館では、『中城ふみ子読本』(帯広市民文藝第43号補訂抜刷り)という小冊子を売っていた。いままで見たことがない写真が載っていたので、資料用に買った。高校一年のときに『乳房喪失』の写本をつくっていた友人、橋本時比康くんのためにも一冊買った。

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 『中城ふみ子読本』のなかの写真。帯広高女の時代だが、上の1年生の少女っぽい写真からずいぶん成長している。大人の女性、それも、いかにも聡明そうで、美女だ。

 

 北海道庁立帯広高等女学校に昭和10年(1935年)、13歳で入学して、昭和14年(1939年)に17歳で卒業している。二人で写っている上の写真が、13歳ころ、この写真が17歳くらいではないだろうか。その後、東京家政学院に入学して19歳で卒業している。尋常小学校の6年で働きにでる時代だ。当時の女性としては最高レベルの教育をうけたといえるのではないだろうか。東京で池田亀鑑に作歌指導を受けている。

 帯広市図書館の中城ふみ子資料室に、蔵書の万葉集が展示されていた。池田亀鑑に師事していたときの教本だろうか? 東大で学び、のちに東大教授になる池田亀鑑は万葉集研究家でもある。

 

    帯広市図書館 ホームページ http://www.lib-obihiro.jp/


2 コメント

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初めて投稿します。あまりの懐かしさに書き始めま... (kan)
2012-11-03 23:31:08
初めて投稿します。あまりの懐かしさに書き始めました。中条ふみ子さんは本当に美しいですね。夏服のセーラー服の後ろに見える校舎。高い位置にある白の窓枠は紛れもなく私が毎日通った音楽室!
2階には茶道部の茶室。中条さんの見つめる先には依田勉三の銅像が!?
当時は、まだ建っていなかったかもしれませんね。
申し遅れました。ご主人とは北栄、一中、三条の1年後輩です。帯広勤務中は何度もレコードをお届けいただきました。今は東京で勤務しております。山親爺さんは合唱部同期かな?
kameさんとは今、川崎の合唱団で一緒に歌ってます。三条の合唱部には、9月に訪問してきました。10月のNHKコンクール当日には職場が近いので応援に行きました。とても素晴らしい声をした合唱団がそこにありました。2年連続の日本一は私たちの頃では考えられない快挙です。
母校の快挙に感動しています。
ステキなブログに割り込んで申しわけありません。今後もエッセイ・コラムを楽しみにしています。
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ひょっとしたら指揮者のkanさんですか? (山親爺)
2012-11-05 20:01:23
ひょっとしたら指揮者のkanさんですか?
だとしたら、私は一期後輩のベースです。(部活途中挫折組)
中城さんの写真の背景の建物はやはり音楽室でしたか…ワッ!(和)と驚きですね。
クラブ員だけがわかる親爺ギャグですみません。
確かに、当時の中城さんの視線の先には、まだ勉三さんの銅像はありませんでしたが、でも、すぐその後に建てられているようです。
以下、慶應の三田評論抜粋<北海道の開拓者(上)依田勉三>を参照

□帯広の晩成社跡地であった帯広神社前の中島公園には、「依田勉三の銅像」が立つ。帯広出身の歌手中島みゆきの祖父で、帯広商工会議所会頭、帯広市議会議長を務めた中島武市が、土地と銅像建立の費用を負担して昭和十六年に完成したものである。太平洋戦争の金属供出に遭ったが、昭和二十六年に再建された。

それで「中島公園」と命名…そういわれてみればあの銅像の「人は空ばかり見てる…♪」のではなく「地上の星」をしっかりと見つめている雰囲気ですね。

Ommo’sさんの紹介で、昨日の夜はZAZとマリーザをしっかりと堪能させて頂きました。身体の中の全ての弦がぶんぶん共鳴してました。
また、先日来、ブログの場にすっかりお邪魔させて頂き、ネット同窓会にしちゃったみたいでご勘弁下さい。
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