Ommo's

古い曲が気になる

オバマ大統領の世代が、マイケルの熱いファン

2009-07-04 | 日記・エッセイ・コラム

 やはり帯広三条高校山岳部だった佐々木要くんからのメールで思い出した。国枝幸吉さんは、あの当時の高校生ではめずらしく、角刈りだった。十勝管内の中学がみな、丸刈りだった。高校にいって髪をのばすのがたのしみだった。

 ビートルズ全盛のときだ。長髪は、自由の象徴だったのだ。そんな時代に、角刈りの応援団長の三年生は、一年生のわたしには、なかなか威圧的存在だった。じっさいは、まったく恐い人じゃなく、じつに親切で、心優しい人だったのだが……

 今回、国枝さんが入院してすぐ、国枝さんが18年飼っていたクロネコが死んだ、と、山岳部の先輩、かつみさんがメールで知らせてくれた。 

 わたしは、6月の20日すぎから、妙に、士幌線幌加駅や十勝三股、石狩岳、ニペソツ岳のことを思い出していた。それは、高校一年のとき、国枝さんに連れていってもらったところだ。わたしは、国枝さんの闘病のことも、最近の入院のことも、まったく知らなかった。

 数年まえに亡くなったわたしの生母が、そんな感の強い人で、予感がするとか、胸騒ぎがするとか、そんな表現で、そういうことを的中させていた。  

 白熱電球が切れるとき、強烈に輝いてフィラメントが燃えつきる。人も何か未知なるパワーを発して、残されたものに、別れのサインを送るのだろうか?

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 マイケル・ジャクソンが亡くなって、一週間がすぎた。わたしにとっての喪があけた。日本の報道をみていて、激しく言いたかったことを、すこし書こうかな。この一週間、テレビのマイケル・ジャクソン報道は、ひどかった。

 偉大なエンターテイナーを追悼するには、あまりに不謹慎だった。亡くなってまだ一日もたっていないとき、まだ魂がこの世にとどまっているかもしれないとき、(霊魂があるかなんか問題じゃない)、テレビの報道の中心は、スキャンダルだった。それも、タブロイド紙が、おもしろおかしく、嘲笑して書いたデマがネタの話ばかりだ。

 昨日、オバマ・アメリカ大統領が、追悼のコメントをだしていた。マイケル・ジャクソンの音楽とともに育った、といっていた。まさにかれの世代、いま45才前後の人たちが、熱いマイケル・ジャクソンのファンだろう。日本でも、中学や高校の廊下で、ムーンウォークの練習をした世代だろう。

 わたしとおなじ世代のテレビ・キャスターは、ずっとマイケル・ジャクソンのファンだったと、知ったかぶりのうんちくを披露していた。(さも、マイケルと友達ででもあるかのように、自信たっぷりに)。それは、全部タブロイド紙が根拠もなく書いて、それを日本のスポーツ紙が書きとばした記事がネタだ。その知ったかぶりを、若いアナウンサーが感心したふりで、うなずいてみせる。

 さて、わたしの世代の男で、マイケル・ジャクソンのリアル・タイムのファンがいるのだろうか?    ジャクソン5が、「ABC」のヒットをとばした1970年、わたしは22才だ。22才のわたしには、「ABC」は、あまりにも子供じみた曲だった。 

 そして、「スリラー」が爆発的に売れたとき、わたしは、34才だ。もちろん、わたしは、レコード屋だったから、強烈な印象があるアルバムだった。マイケル・ジャクソンも大好きだった。しかし、ファンという感じじゃない。34才だ。熱烈に共感するには、年をとっていた。

 きっと、女性はちがうだろう。湯川れい子さんや星加ルミ子さんのように、エンターテイナーとしてのマイケル・ジャクソンやビートルズやエルビス・プレスリーを、リアル・タイムで評価できる人たちがいる。ミーハーといわれることをひとつも恐れずに。そして、一般の女性ファンも、十代のときにジャクソン5 に共感して、ずっと大事にしていくことができるのかも知れない。

 しかし、男はちがうのではないか? ジャクソン5 が登場した1969年は、「レッド・ツェッペリンⅠ」が発売され、「ディープ・パープルⅢ(素晴らしきアートロックの世界)」が発売になった年だ。「グッバイ・クリーム」が発売され、「クリーム・ライブ」がでた。中学生や高校生の男子は、ジャクソン5 どころ じゃないだろう。ビートルズの「アビー・ロード」がリリースされたのは、この年、1969年9月だ。

 ソウル・ミュージック(R&B)なら、「ABC」がでた1970年には、シュープリムスからダイアナ・ロスがソロになって、アルバム「Ain't No Mountain High Enough」が発売されていた。わたしの店でよく売れていた。ほかのモータウンでは、リトル・スティーヴィー・ワンダーがもうリトルではなくなってアルバムを発売していた。マービン・ゲイもいた。テンプテーションズもミラクルズもまだ活躍していた。そして、スライ&ファミリー・ストーンがいた。

 スライ&ファミリー・ストーンは、1969年に「スタンド!」、1971年に「暴動」と大ヒットアルバムを発売していた。そして、大御所、ジェームス・ブラウンが、ビッグ・ファンク・バンド、JB's をひきいてアルバム「セックス・マシーン」をヒットさせていた。日本のソウル・ファンにもよく売れた。帯広のわたしのレコード屋でも売れた。

 そんな時代に、ジャクソン5 を追っているR&Bファンや、ロック・ファンが日本にいただろうか? たしかに「ABC」は、バカ売れした。それは、「黒猫のタンゴ」や「泳げたい焼きくん」「だんご3兄弟」のヒットとおなじ性格のものだった。日本では。

 だから、わたしの世代の男で、ジャクソン5 のころから、ずっとファンだというのは、信じられないことなのだ、わたしには。

 そして、いま50才をすこしすぎた、真のロックの世代、ニューミュージック世代の人たちは、ジャクソン5 じゃなくても、聴くべきものが、怒濤にように登場した時代の人たちだ。、洋楽や日本のニューミュージックが、最高に刺激的でおもしろい時代を、新鮮な感性をもった十代後半をすごした人たちだ。ほんとうに音楽好きの世代の人たちだ。

 「スリラー」がでたとき、かれらは20代の半ばちかい。熱く共感するのには、音楽の知識も経験も、もう十分にあった。マイケル・ジャクソンに至るまでのソウル・ミュージック、ジャズの歴史を十分知って、聴いていたはずだ。なにも驚きではなかったはずだ。

 だから、そのまえのアルバム「オフ・ザ・ウォール」を、かれらは注目して、好んで買っていったが、「クインシー・ジョーンズとのコラボがいいですね」というような言い訳じみた言葉をいったものだ。

 (そのころ、コラボなんて言葉はなかったが。コラボレーションという語が、日本の音楽の世界に登場したのは、MJQのアルバム・タイトルからだ。1964年のMJQと、ブラジルのギタリスト、ローリンド・アルメイダが共演したアルバム・タイトルだ)。

 

セックス・マシーン

  

  フジ・テレビの番組では、あろうことか、マイケル・ジャクソンの絶頂期に、まだこの世に生まれてもいない若いタレントをコメンテーターとして登場させた。「マイケル・ジャクソンのことはよく知らないのですが……」と前置きがあって、わけのわからないコメントをしていた。このイージーさには、あきれるより怒りを感じた。死者に対する冒涜だろう。

 放送法の基に認可されたテレビ放送局が、公共の電波をつかって、こんないいかげんな番組を作っているのだ。

 きっと、番組を製作している現場の人間は、スキャンダル以外、マイケル・ジャクソンのことをまったく知らない世代なのだろう。あるいは、マイケル・ジャクソンを嫌っている人種か。だから、尊敬のかけらもない。なら、社内外から40代半ばの、子供のときから、マイケル・ジャクソンのふりを真似して育った人間をさがしだして、担当させればいいのだ。放送業界、音楽業界には、かならずそういう人がいるはずだ。

 ほんとうに、マイケル・ジャクソンを追悼する気があるのなら、司会は、知ったかぶりの、にわかファンの、モーニング・ショーのおっさんではなく、小林克也さんだろう。

 このキャスターおっさんも含めて、にわかにマイケル・ジャクソンを持ちあげるやつらが、テレビには登場する。

 児童虐待の裁判が起きたとき、えん罪だ、報道はデマだと、ファンの抗議は、欧米では大きな運動になっていた。(「欧米では」、とは、タカ&トシのなつかしいフレーズみたいだが)、そんな動きがあるとき、日本のマスコミの、だれが擁護したのだろうか? このマイケル・ファンのキャスターおっさんは、マスコミのフロント・マンとして、デマだ、とマイケルをかばってやったのだろうか? 

 デイブ・スペクターは、それを商売のネタに稼いでいたのだろう。あることないこと、英語のタブロイド紙からゴシップをひろってきて、根拠もなく、それをテレビで話す。それがかれの商売だ。自分で取材して確認したわけじゃない。それはそれでいいんだ。だれもかれに本当のことを期待しているわけじゃない。そういう商売なのだ。

Diana Ross and Marvin Gaye

 しかし、仮にもニュース・ショーのキャスターである、還暦すぎのおっさん、小倉智昭氏は、追悼番組で、タブロイド紙のスキャンダルを垂れ流しちゃいかんだろう。

 ほかの番組では、もっと前に死ぬべきだった、とまでいうコメンテーターがいた。なんということだろう。まだ、死者に体温が残っているようなときに、なぜそんな不謹慎な言葉を口にできるのだろうか。だれもが生きて生きぬきたいはずだ。まして、前日までリハーサルをつづけていたのだ。それに、どんなぶざまな晩年をおくったとしても、マイケル・ジャクソンの偉大な足跡と栄光は、黒人文化史に永遠に刻まれるだろう。

 マイケル・ジャクソンの症状を知るブログがある。これも読んでほしい。http://yuuki-rinrin.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-f40e-1.html

 清高くんとやすおくんの、札幌・帯広・厳冬期徒破行のつづきは、また次回ということで。

All 'N All

 

 いま50才代の洋楽ファンが、「スリラー」がヒットしたころ注目していたのは、スティーヴィー・ワンダーやアース・ウインド&ファイアー、クール&ザ・ギャング、タワー・オブ・パワーなどだったのではないだろうか。

 アース・ウインド&ファイアー September http://www.youtube.com/watch?v=iknEJf9cPeY&feature=related

 クール&ザ・ギャング Celebration http://www.youtube.com/watch?v=YwEMxYggoKQ&feature=related

 タワー・オブ・パワー http://www.youtube.com/watch?v=VUFxj59Fa9o&feature=related

 ましてや、わたしの世代は、もう中年になろうとしているときだ。ジャクソンズやマイケル・ジャクソンに感情移入するには、あまりに年をとっていた。わたしより一つ年上の、小倉智昭氏は、最初からのマイケル・ジャクソンのファンだったと、先日、テレビで公言していたが……

 そのころ、わたしが好きだったのは、ダイアナ・ロスとマービン・ゲイのデュエットだった。http://www.youtube.com/watch?v=tMktolSxGxw

 そのまえ、マービン・ゲイのデュエットでは、タミー・テレルとの最高作がある。1960年代だ。http://www.youtube.com/watch?v=Xz-UvQYAmbg&feature=related

エイント・ノーマウンテン・ハイ・イナフ~マーヴィン・ゲイ&タミー・テレル・コンプリート・デュエッツ

 

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 マービン・ゲイの最高のデュエット・パートナー、タミー・テレルは、このヒットのあとすぐ、1970年、脳腫瘍で突然亡くなる。24才だった。そのあとマービン・ゲイは、ソロ歌手としてトップスターになり、グラミー賞も獲得する。しかし、1984年、父親と言い争いの末、父親に射殺された。

Collaboration with Almeida Collaboration with Almeida

 ローリンド・アルメイダとMJQのコラボレーション One Note Samba    http://www.youtube.com/watch?v=W-9OrHd6QdM


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