tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

戦後日本の労働運動

2009年10月06日 11時49分10秒 | 労働
戦後日本の労働運動
 大上段に振りかぶって、何かハードカバーの本のようなタイトルですが、わずか1頁でのレビューです。

 占領軍の「日本民主化」の政策の中で生まれた戦後の労働組合は、左翼思想のリーダーに引きずられたものが多く、仕事の現場での生産管理から社会主義、共産主義政権樹立を目指すことがカッコイイ(国民のため)と思っていたものが結構多かったようです。
 これも日本人の島国的習性で外来文化(左翼思想)礼賛の結果だったのでしょう。本来の日本人には合わない考え方だったと思います。

 その後、東西対立の激化は、占領軍の左翼許容の政策を変えましたし、国内でも、左翼思想に疑問を持ったり、不信感を持ったりする人も増えました。
 本来争いを好まない 伝統的な日本人の体質は労働運動の基盤にも流れていて、日本経済の経済成長実現と共に、「豊かさの実現のためには何が大事か」を理解する「生産性向上のためには労使が協力する」という考え方を持つ労働組合のリーダーが主流になる時代を迎えます。

 世界政治の舞台では、共産主義国が誕生して崩壊するまでに七十余年かかりましたが、日本では1960年代に入る頃には、左翼主義的労働運動は不人気になって主流から外れ、日本の労働運動は、多少大げさに言えば、縄文時代からの日本の伝統に根ざす「争わずに、共存して共益を果たす」社会を作る方向に向かうことになったようです。

 1973年の第1次オイルショックで、日本経済が突然 マイナス成長(1974年)になったことをきっかけに、それまで「生産活動では協力し、労使の分配では対立する」といってきた労働運動の主張の中に「経済が成長しなければ分配の増加もない」という、いわゆる「経済整合性論」が生まれ、日本の労使関係は、国際的にも先進的な成熟段階に達することになりました。

 第1次オイルショックの経験を生かして第2次オイルショックを無事乗り切ることが出来たのは、政府の政策もさることながら、労使の「日本経済社会をどうするか」という真摯な話し合いの結果だったことは、当時の労使関係に関わりをもたれた方々の中にはご承知の方が多いと思います。

 その後プラザ合意とバブル崩壊での「失われた10年」を経て、労使の話し合いの風土も多少希薄化したようにも見えますが、1万年以上の伝統に根ざす日本人の形質(「和」によって共生と共益を実現する)は失われうことなく、その基底に確りと生きているのは間違いないところでしょう。
 日本の労使は、日本の再生という共通の目標に向かって、真摯に話し合えるベースを持っているように思います。


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