ロシアのウクライナ侵攻は、ロシア、中国のこれからの態度次第で、第三次世界大戦につながる可能性もあるといわれています。
そんなことを地球人類は許していいのでしょうか。
ごく自然に考えれば、地球人類の大部分がそんな事は望んでいないといと解っていながら、人類社会の中の数えるほどの人間でしかない独裁者と、そうした人たちを信仰する極く少数の取り巻き、そして独裁者の恣意的な誤情報に騙されている人々、煎じ詰めれば、数えるほどの独裁者のために、人類のほとんどが望んでいない世界戦争という野蛮な行為に曝されるということが「起きるかもしれない」と言われているのです。
こんな事、人間が戦争をしなければならないといった事は、国際関係がどうとか思想や主義の違いとかいった難しい事を持ち出さなくても、「人間の自然な心情として」、おかしな事、あるべきでない事、人類社会は、そんなことはなくて当たり前と考えるのではないでしょか。
もともと、民主主義という考え方は。そういった「みんなが、より多くの人々が、良いと思う事が良いのだ」という人間本来の考え方から来ているのでしょう。ですから、これが人類社会の自然の在り方でしょう。
こうした人類の基本からきている民主主義ですから、正面切って、これに反対して、「みんなが嫌だと言っても、俺の考えに従え」と言う事は、出来ないし、時に出来ても長続きしないのが歴史の経験です。
今地球上に独裁国と言われる国はありますが、そういう国でさえ、その多くは、形は国民によって独裁者が選ばれているのです。
その意味では、民主主義という考え方が、基本的に人類社会のとって望ましい物であるという事は、独裁者においてすらも、頭のどこかには入っているはずです。
であってみれば、地球上から独裁者をなくすことは決して不可能ではないのではないでしょうか。
そして、そのために必要なことは、人類社会の行動についての絶対的な権威は、ほかならぬ人類社会の総意の多数決ということではないでしょうか。
一国の政権のリーダーであろうとも、地球人類の多数意見には従わなければなんらいという「地球人類民主主義」こそが最高の権威ということであれば、地球上で、独裁者による戦争といったものは、恐らく消滅するのではないでしょうか。
考えてみれば、既に人類は、それだけの知恵を持っており、そのためのシステムも作ろうと努力して来ているのです。
具体的には、国連機構がそれでしょう。国連総会は、世界人類のための「地球人類民主主義」実現の舞台です。
この、「地球人類民主主義」の舞台を、いかに生かしていくかが、当面する課題ということではないでしょうか。
今回国連総会で決まった「常任理事会」で拒否権を行使した場合には「理由を説明すること」は、その第一歩になるのかもしれません。
民主主義国は多数の意見を合理性の根拠にして「力による解決」は否定します。一方、独裁国は、政権に反対する世論を抑えるために「力がもっとも重要」です。
従って、戦争という「力の勝負」になれば、独裁国の方が強いのは、いわば当り前です。
そこで、意見は2つに分かれます。1つは民主主義国も力を強くする必要があるという意見、もう1つは、地球人類の最高権威である「国連総会」の決定を執行する統一地球行政機関である国連組織が「人類多数決の権威に裏付けされた力」を持つべきという意見があるでしょう。
今は、民主主義国も力を強くという意見が一般的なようです。然しそれは人類の生活を破壊する兵器の山を、人類のより良い生活を犠牲にして築くことでしかありません。
いつの日か最高権威である国連総会、国連組織が、世界人類の平和と繁栄のために必要な「力」を保持するという事になるのが理想でしょう。
そしてその時は、「国連軍」ではなく『国連警察』ということになるのが、あるべき姿ではないでしょうか。
そんなことを地球人類は許していいのでしょうか。
ごく自然に考えれば、地球人類の大部分がそんな事は望んでいないといと解っていながら、人類社会の中の数えるほどの人間でしかない独裁者と、そうした人たちを信仰する極く少数の取り巻き、そして独裁者の恣意的な誤情報に騙されている人々、煎じ詰めれば、数えるほどの独裁者のために、人類のほとんどが望んでいない世界戦争という野蛮な行為に曝されるということが「起きるかもしれない」と言われているのです。
こんな事、人間が戦争をしなければならないといった事は、国際関係がどうとか思想や主義の違いとかいった難しい事を持ち出さなくても、「人間の自然な心情として」、おかしな事、あるべきでない事、人類社会は、そんなことはなくて当たり前と考えるのではないでしょか。
もともと、民主主義という考え方は。そういった「みんなが、より多くの人々が、良いと思う事が良いのだ」という人間本来の考え方から来ているのでしょう。ですから、これが人類社会の自然の在り方でしょう。
こうした人類の基本からきている民主主義ですから、正面切って、これに反対して、「みんなが嫌だと言っても、俺の考えに従え」と言う事は、出来ないし、時に出来ても長続きしないのが歴史の経験です。
今地球上に独裁国と言われる国はありますが、そういう国でさえ、その多くは、形は国民によって独裁者が選ばれているのです。
その意味では、民主主義という考え方が、基本的に人類社会のとって望ましい物であるという事は、独裁者においてすらも、頭のどこかには入っているはずです。
であってみれば、地球上から独裁者をなくすことは決して不可能ではないのではないでしょうか。
そして、そのために必要なことは、人類社会の行動についての絶対的な権威は、ほかならぬ人類社会の総意の多数決ということではないでしょうか。
一国の政権のリーダーであろうとも、地球人類の多数意見には従わなければなんらいという「地球人類民主主義」こそが最高の権威ということであれば、地球上で、独裁者による戦争といったものは、恐らく消滅するのではないでしょうか。
考えてみれば、既に人類は、それだけの知恵を持っており、そのためのシステムも作ろうと努力して来ているのです。
具体的には、国連機構がそれでしょう。国連総会は、世界人類のための「地球人類民主主義」実現の舞台です。
この、「地球人類民主主義」の舞台を、いかに生かしていくかが、当面する課題ということではないでしょうか。
今回国連総会で決まった「常任理事会」で拒否権を行使した場合には「理由を説明すること」は、その第一歩になるのかもしれません。
民主主義国は多数の意見を合理性の根拠にして「力による解決」は否定します。一方、独裁国は、政権に反対する世論を抑えるために「力がもっとも重要」です。
従って、戦争という「力の勝負」になれば、独裁国の方が強いのは、いわば当り前です。
そこで、意見は2つに分かれます。1つは民主主義国も力を強くする必要があるという意見、もう1つは、地球人類の最高権威である「国連総会」の決定を執行する統一地球行政機関である国連組織が「人類多数決の権威に裏付けされた力」を持つべきという意見があるでしょう。
今は、民主主義国も力を強くという意見が一般的なようです。然しそれは人類の生活を破壊する兵器の山を、人類のより良い生活を犠牲にして築くことでしかありません。
いつの日か最高権威である国連総会、国連組織が、世界人類の平和と繁栄のために必要な「力」を保持するという事になるのが理想でしょう。
そしてその時は、「国連軍」ではなく『国連警察』ということになるのが、あるべき姿ではないでしょうか。