tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

コンセンサス社会日本と憲法第17条

2016年03月26日 09時58分49秒 | 政治
コンセンサス社会日本と憲法第17条
 憲法第17条と書きましたが、これは現行の日本国憲法ではありません。もっとずっと古い昔の、聖徳太子が定めた十七条の憲法の最後の条文、第17条のことです。

 十七条の憲法は、第1条の「和を以て貴しとなす」が最も広く知られていますが、その、いわばベースになっているのが第17条のように思えるのです。

 前回も今春闘に絡んで、政労使のコンセンサスづくりが希薄になっているのではないかとと指摘しましたが、この所、労使関係や政労使の3者関係だけでなく、かつてコンセンサス社会として世界から注目された日本社会が、何かコンセンサス方式を薄めて来ているに思われてなりません。

 ということで、第17条を見てみますと「夫事不可独断」と書いてあります。
「それ事は独りにて断(さだ)むべからず」
と読むのでしょう。それに続いて「必ず衆とともに論ずべし」と書いてあり、さらに、衆とともに論ずれば、合理的な結論を得ることが出来るという説明になっています。

 今、世界に騒乱が絶えない中で、和の精神やコンセンサス方式の浸透は容易ではないでしょう。どちらかといえば、独自性を強調し、己のリーダーシップを誇示し固執するような行き方が、現実に騒乱や対立の当事国などでは一般的です。

 今回のアメリカの大統領選挙戦などでもその流儀を汲むようなものが見られますが、そうした状況は「社会の成熟」とは程遠いものでしょう。アメリカの中でさえ「アメリカは途上国になった」という意見が聞かれるようです。

 うれしいことに、日本人については、折に触れてその整然とした理性的な行動様式が世界から注目されますが、こうした賢明な国民を持ちながら、そのベースであるコンセンサス方式を活用しないというのは大変残念なことのように思われます。

 安倍総理は「決める政治」を標榜していますが、上記の憲法第17条は「独断を避けること」、「衆とともに論じること」の大事さを指摘しています。
 自らの方針を「国民の理解を得られるよう十分な説明を尽くす」という言葉もよく聞きますが、その前にあるべき「衆とともに論じ、コンセンサス(和)を得るという大事な段階」が抜け落ちているようです。

 今日では、衆とともに論じるの最終の場は国会でしょう。しかしそこでも数を頼む強行採決では「和」もコンセンサスもありません。社会のあらゆるところで、こうした日本文化・社会の基本をなしていた「和・コンセンサスの理念」の影が薄くなっているように感じられます。

 このままでは日本に、日本らしさがなくなっていきそうです。日本に日本らしさがなくなったら、いったい何になるのでしょう。 「普通の国」? それは違うでしょう。
 日本は日本らしい国として存在してこそ、世界に貢献できるのではないでしょうか。

 また余計なことを付け加えますが、「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言っている宮沢賢治が、「ポラーノの広場の歌」の中に、「まさしき願いにいさかうとも、銀河のかなたに共に笑い」と書いています。
 コンセンサスを求めるための原点でしょう。