goo blog サービス終了のお知らせ 

tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

広島の豪雨災害に思う

2014年08月30日 09時44分22秒 | 社会
広島の豪雨災害に思う
 今回の広島の豪雨災害ではでは、被害は死亡、行方不明を含め70人を超える考えられない様な大惨事になってしまいました。
 亡くなった方々には謹んでご冥福をお祈りし、行方不明の方々には出来るだけ早く所在が判明することを願い、被災された皆様には公的支援も含め、早期に安定した日常が回復されることを望むばかりです。

 「今までに経験のなったような集中豪雨」とか「警報や避難指示の発令がもう少し早かったら」とか、直接の原因についての指摘はあります。
 しかし、現地の航空写真を見て、私が正直に驚いたのは、現地の地形であり、率直な感じとして、この災害の基本原因は、宅地開発の在り方にあったのではないかという点です。

 メインの川筋に沿って、ベッドタウンが開発され、しかもそのいく筋もの支流の両岸をさかのぼって宅地が造成され、背後は深い山、森林です。
 
 災害が発生してから、この地域は以前から土石流の発生があった所であるとか、全国には同じような状況の所が数多くあるとかといった指摘も聞こえたりします。

 思ったのは、1991年バブル崩壊以前の日本の土地政策、土地行政(核心は土地税制)です。土地神話を作り、土地の値上がりで経済を回し、そこから生まれる資金を活用して政権が政策を展開するといった構図ではなかったのでしょうか。

 銀行は土地融資に狂奔し、安易な土地造成が横行し、果ては原野商法とかで、過疎地帯の荒れ地まで投機の対象にするに至っています。
 おかげでジャパンマネーは世界を闊歩したかもしれませんが、その陰で泣いたのは、持ち家希望のサラリーマンでした。

 地価の上昇は、サラリーマンの賃金上昇をはるかに超えたものでしたから、サラリーマンの持ち家は年々困難になり、退職金まで当てにしてローンを組んでも、買える土地は不便で危険もありうる所に押し込まれていったと言えます。

 当時、通勤に便利な近郊の駅の周辺は空き地が目立ちました。高過ぎてまともなサラリーマンには手が出なかったからです。

 家族のためにと一生懸命ローンを組んだサラリーマンが、やっと手に入れた土地の価格はバブル崩壊で暴落、ローンだけは残るという痛手を負いました。しかし、既に住み慣れた所からは簡単には動けません。
 今、災害危険地域指定の問題を受けて、地価が下がるから反対という声が聞かれます。一生をかけて自宅を取得したサラリーマンの悲痛な叫びのように思われます。

 人間の生活にとって、絶対必要なもの「土地」。それを投機の対象にして経済を回し、土地バブルを演出した日本の政治、土地行政の結果が今回の災害に繋がっていると思われてなりません。

舛添都知事の健全な見識

2014年08月25日 08時20分58秒 | 社会
舛添都知事の健全な見識
 過日、8月3日付で「カジノで観光客を・・・?」を書かせて頂きましたが、この度報道で、舛添都知事が、カジノに否定的な見解をお持ちで、候補地でもあったお台場の土地を別用途に決めたと聞き、現知事は健全な見識をお持ちと知り、何となくほっとしたというのが本音です。

 舛添都知事は、「カジノは賭博」と指摘し、「青少年などに有害」と言われたようですが、青少年だけでなく立派な大人にも結構有害な場合が少なくないでしょう。
 賭け事をまともな行為とする考え方は、もともとイギリスの競馬などからの外来文化で、日本にはなかったように思われます。

 もちろん賭博はありましたが、基本的に「どば(賭場)」は非合法な存在でした。江戸時代にも「富くじ」はありましたが、落語の種にはなっていますが、積極的な財政再建策として後世に語り継がれるのは矢張り長岡藩の「米百俵」や米沢藩の上杉鷹山の治績でしょう。

 舛添都知事はさらに「カジノがないと日本経済は甦らないという人もいるが、そんなものはなくても、日本経済は甦る」という趣旨のことを言われたようですが、そうした気概こそが今、日本には必要なのではないでしょうか。

 カジノがなくても日本には世界に誇る優れた観光資源やモノづくりの成果、多様な無形の文化が存在しますし、経済発展に必要なのは、ギャンブルによるあぶく銭や、博打の胴元になって儲けることではなく、技術開発や生産活動における、真面目で勤勉な努力でしょう。

 矢張り、リーダーが優れた見識を持つことが大事で、ギャンブルで東京を賑やかにしようなどということを本気で考えるようなリーダーが続いたのでは、東京も堕ちたものだと嘆いておられた方も多いと思いますが、先ずは「良かったですね」と共に喜びたいと思います。

アルゼンチン問題とゴルフ会員権

2014年08月10日 09時41分12秒 | 社会
アルゼンチン問題とゴルフ会員権
 今日は日曜だという事で、たわいないことを書いてしましました。お手隙でしたら、お読みください。
 バブルの頃の話です。わたしの友人が、大金を払ってゴルフクラブの会員権を買いました。私にも都合のいい場所なので、よく連れて行ってもらいました。

 そのうちにバブルが崩壊し、ご他聞に漏れず、そのゴルフクラブも「いずれ倒産」という事になるようで、会員権の値段はどんどん下がりました。
 あまり下がるので、これなら私にも買えるようになるかな、と思っていましたところ、100万円という所まで下がってきました。

 もっと待っていれば、もっと下がったのですが、「ここまで下がれば」と思い切って、私もそのゴルフクラブの会員権を買いました。

 正式に会員になったという事で、ゴルフクラブから預託金の証書が送られてきました。立派なフォルダーに入って、預託金の金額は14,400,000円と書いてありました。
 友人に「僕も君と同じ14,400,000円の証書をもらったよ」と言ってお互いに笑いました。どうせ払われないカネだという事は解っていました。

 私の払ったのは100万円ですが、友人は2000万円近い金額で購入していたのだと思います。友人はまさに苦笑いです。

 そのうちにゴルフクラブから通知が来て、更生会社になって、100分の1に減資ということになりました。14,400,000円は、144,000円になりました。

 恐らくは会員の皆様は、これも運が悪かったのだと諦めたのでしょう。たまたまそのゴルフ場で一緒にプレーした中小企業の経営者の方が、「これだけ損が出たのだから、会社の損金で落とせるのだが、損金で落とすほどの利益が出ない」とボヤいておられたのを覚えています。

 ところで最近アルゼンチンをデフォルト状態に追い込んだ、アメリカの某ヘッジファンドの提訴についての アメリカ連邦裁判所のグリーサ判事の判決が報道されました。
 そのファンドは、値下がりしたアルゼンチン国債を買い叩いて取得、額面で償還しろと訴え、認められたとのことでした。

 私は100万円しか払っていませんが、何とか14,400,000円払ってもらえないかとグリーサ判事の判決をもらう方法を研究しています。
   <このブログの最後の部分はフィクションで、実在のものとは関係ありません>

カジノで観光客を・・・?

2014年08月03日 09時49分05秒 | 社会
カジノで観光客を・・・?
 外国からの日本への観光客が昨年初めて1000万人を突破しました。今年は上半期ですでに600万人、通年では1200万人が期待されるそうです。とはいえ、国際的に見ればまだまだ少ない数字です。これからの伸びる余地は大きいでしょう。
 ヨーロッパ社会から見れば、ファーイースト、まさに東のはずれの遠い国、しかもこの20年、異常な円高で「日本には行ってみたいけど、高くついて大変」という状態でした。

 昨年からの2割ほどの円安で、日本への旅行の安くなりました。観光客急増の大きな背景でしょう。
 もともと日本には西欧文明とは異質な沢山の観光資源があります。芸術の世界でも、かつてのフランスのジャポニズム、ボストン美術館の膨大な日本の美術品の収蔵等は広く知られ、産業の世界では、世界に広まる精密機器の原産地、質が良く信頼性の高い日本製品への評価があります。

 さらに最近相次いで世界遺産に登録される自然遺産、文化遺産、中でも富士山はヒマラヤやヨーロッパのピークほど高くはありませんが、海面から一気に3776メートルに達し、その均整のとれた美しさは世界に類を見ません。
 また沖縄から北海道まで南北に長い複雑な地形の列島は、多様な文化を生み、これは多様なDNAの共存、多様な文化・宗教の共存という伝統文化、歴史とともに、日本独特の形を見せています。

 さらに加えれば、最近世界に発信されている、日本の多様な食文化、ジャパニーズ・クール、KAWAII、おもてなし、などの日本社会の在り方の人気上昇などなど、これから日本観光は着実に伸びていくと思われます。

 こうした中で、安倍政権は、観光客誘致の目玉として「日本にもカジノを!」と言っているようです。日本人として、余りに日本人本来の「心」を知らない発言と嘆くのは私だけでしょうか。

 金持ちの観光客を呼ぶためにとか、地域おこしに有効とか、理由は挙げられているようですが、些か心得違いが過ぎるのではないでしょうか。
 何時も述べていますように、日本人はおカネについても「その由来」によって区別をしているのです。同じカネでも「あぶく銭」は蔑視されるのです。観光収入のためなら、稼げるのなら、「ギャンブルだっていいじゃないか」というのは本来の日本文化とは違うようです。
 地域おこしにしても、わが町をギャンブル産業で豊かにしようと住民がこぞって賛成する地域があるでしょか。

 かつて書かせて頂きましたが、日本は「普通の国」になるべきではないのです。日本は日本の、日本人の持つ本来の「心」、縄文以来保持してきた日本の自然、その上に築いた伝統文化、産業さらにジャパニーズ・クールやおもてなしなどなど、上に述べたような、自然に発生してくる日本の魅力で観光客に来ていただくの本来の姿でしょう。
 日本独特の姿「日本らしさ、日本の特色」を十分に生かし、それを世界に発信することが、世界中から観光客を呼べる原動力なのではないでしょうか。

2014年、新しい時代の始まる年に

2014年01月01日 13時35分37秒 | 社会
新しい時代の始まる年に
 2014年、平成26年、明けましておめでとうございます。
 年の始めは矢張り良いものです。切れ目のない時の流れに区切りをつけ、気持ちを新しくして生きようとするのはまさに人間の知恵でしょう。 

 例年より早く配達されてきた年賀状を見ていると、目立つのは停滞・衰退を続けてきた日本経済社会が、昨年を境に 新しい時代を迎えるという明るい感覚を感じながらも、何かそれに同居する不安感をぬぐえないといったどこかちぐはぐな感じを抱いている人が多いという様子でした。

 この感覚は何処から来るのでしょうか。
 ひとつには、不況の中で努力を重ね、何とかいわゆる「失われた20年」から抜け出せるかと思ったら、思わぬ外国の失態のトバッチリで、また深刻な不況に逆戻りといった過去の経験の再来を危惧する感覚のようです。
 そして、もう一つは、経済についてはそれなりに先が見えるようになったが、政治や国際関係の面で、何か危険なものを日本が含み始めたのではないかという違和感のようなもののようです。

 特に戦前からの経験を持つ高齢者の中に、当時の記憶を彷彿させるといった見方があるように思いました。
 ユネスコ憲章の前文にある「戦争は人の心の中で始まるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」というかつての英国首相アトリーの言葉を引用したものもありました。

 経済の先行きについては、私自身は、私自身なりに、$1=¥80といったようなことが起きなければ、日本国内の各経済主体は誤りなく安定成長維持の道を辿る選択が出来るという確信に近いものを持っていますが、国際関係、国際政治の面では、平和憲法を掲げる日本がわざわざ1段下のレベルに下りて、国際紛争に「周囲と同じレベルで」首を突っ込もうとしているとしか考えられないような、おかしな状態になりつつあるように感じています。
 問題はそういう態度を取る人たちが、「その方がカッコいい」と勘違いをしているように思われてなりません。

 しかし最後には、より多くの日本人が、如何なる考えを持ち、いかなる行動を取るかによって決まるのでしょう。
 此の所、世界から驚嘆され尊敬されるような素晴らしい行動を巧まずして取り、世界に感銘を与えてきたのが、日本人大衆の姿です。
 政権党も含め、日本全体が、そうした賢い選択をし、世界から安心と尊敬の眼差しで見られるようになることを願いながら、新しい日本の発展と成長の時代の開幕を信じて、今年1年、市井の片隅で私なりに努力してい行きたいと思っています。     

 

NGR再論

2013年11月12日 14時26分32秒 | 社会

NGR再論
 NGRというのは、かつて、CSR(Corporate Social Responsibility)と並べて論じましたが、私の勝手な造語で、Nation’s Global Responsibility の頭文字です。
 個人に道徳が言われ、欧米ではCitizen's Social Responsibilityなどが云われ、企業レベルでは最近のようにCSRが強調されるのであれば、国レベルでも基本的は同じ行動基準があるはずだという考え方によるものです。

 人間以外の動物には,当然のことながら、こうした考え方、概念、コンセプトはないでしょう。人間も、本能に従って行動している嬰児の時期にはないでしょう。もの心がついて一人の人間として社会の中で生き、社会との関係、具体的には他人との関係が意識されて、はじめて「道徳」や「倫理」といった考え方が生まれるのでしょう。

 企業などもこうしたプロセスを辿って来たようです。CSRの起源を1920年代のキリスト教会による武器、たばこ、酒、ギャンブルなどへの投資はすべきでないといった主張に求める人は多いようですが、その後、公害問題、地球環境、気候変動等に関連して、地球人類のサステイナビリティーを尊重するという考え方から、企業のかかわる多くのステイクホルダーズに十分配慮すべきという、今日のCSRの考え方に進化してきたようです。

 しかし、個人の犯罪が後を絶たないように、企業のCSRに従わない行動も後を絶ちません。だからこそ、個人の倫理観や企業のCSRが強く言われるわけで、これは、人間社会としては極めて健全な動きだと思っています。

 一方、国レベルのNGRはどうでしょうか。未だ、ほとんど影も形もありません。もっともプリミティブなことで言えば、個人でも企業でも「あなたと私」、「貴社と当社」と並べるのが礼儀として当然ですが、国の場合は必ず自国の方を先にします。日本で言えば、「日米」「日中」「日独」「日伯」などなど。
 他の国の場合でも、相手国を先に置く用例は見ません。

 この辺りは小さなことかもしれませんが、基本的な考え方は自国中心という天動説的思考形態が国の場合には未だに平然と罷り通っているという事でしょう。
 これがそのまま発展していくと、個人や企業ではサステイナビリティーがないということで当然否定されるべき行動が、そのまま肯定されることに繋がります。

 軍備増強競争などもそうですが、経済で言えば、赤字の連続で借金を続けるといった、いつかは行詰まる経済運営が大手を振って罷り通り、一時的にでもそれを可能にするための金融経済学や金融工学などというものが、国際的な学問として成り立ち、それを主唱する学者がノーベル賞を貰うといった、個人や企業レベルでは考えられないことが現実に起きています。

 個人の倫理観は大昔から、企業の倫理観は最近のCSR意識として強調されている中で、国レベルでは全く違った価値基準が相変わらず当たり前、といった未開な状態がいつまで続くのでしょうか。


経済団体と経営者団体

2013年11月07日 13時38分04秒 | 社会
経済団体と経営者団体
 経済団体と言っても経営者団体といっても、いずれ同じようなものだと、殆どの方は思っておられるのではないでしょうか。経済団体と経営者団体は違うのですよと言ったら、「え、どこがどう違うの?」と聞かれそうですが、実はやっぱり違うのです。
 
 「名は体を表す」と言いますが、名前が違えば、やはり団体の性格、役割、中身も違うのです。少なくとも、私はそう認識しています。
 ではどう違うのでしょうか。

 経済団体というのは経済活動をする企業の団体というのが基本でしょう。ですから定款(寄付行為)などを見ても、企業にとって経済活動をやり易いような社会を実現するために活動をするというのが主要な目的ということになります。

 これに対して、経営者団体というのは「経営者」の団体ですから相手がいます。相手は従業員(労働者)、その組織、一般的に言えば労働組合が、産業界におけるカウンターパートということになります。

 具体的な例を挙げれば、ILO(国際労働機関)というのは、国連機関としては珍しいく各国の政府だけでなく各国の代表的な経営者団体と労働組合団体の三者によって構成される組織です。

 つまり、経営者団体というのは産業内における「人間」の問題(労働問題)に対応する組織です。ですから以前、経済団体としての「経済団体連合会(経団連)」と経営者団体としての「日本経営者団体連盟(日経連)」があったとき「日経連」の方は財界労務部などと言われていました。

 2002年、経団連と日経連は合併して「日本経済団体連合会(日本経団連)」が誕生しましたが、日本経団連の定款をネットで見ますと「経営者団体」という言葉はありません。

 そのせいでしょうか、近頃、安倍政権が「賃上げ、賃上げ」と騒いでいますが、それに対して、日本経団連から主体的な意見は聞かれません。

 このブログではいつも触れていますが、経済活動というのは、人間が資本を使って社会をより豊かで快適なものにするように付加価値を創りその分配をする活動なのですが、経済活動の中から人間(労使)に関わる部分(経済活動の唯一の主体)の部分が抜け落ちていては大変です。

 日本経団連が、経済における人間の問題を最も大事な問題として本格的に取り上げることを期待したいと思います。 政府も労働組合も国民も、みんなそれを望んでいるのではないでしょうか。


「いじめ」とハラスメントとストーカー行為

2013年10月27日 10時44分10秒 | 社会
「いじめ」とハラスメントとストーカー行為
 こんな問題は、あまり取り上げたくないですね。しかし、此の所の日本社会の中で、余りに目立つので、何とか防止の方法も徹底したらという意味も含め書いてみました。

 表題の3つは、基本的には共通の問題(ストーカー行為は多少異なる面も含みますが)だと思いますが、社会や責任当局の対応はかなり異なっているように思います。
 人間関係の問題として基本的に共通の問題であれば、それへの対応も基本的に共通にしていくことが大切ではないでしょうか。

 これらのうち、最も対応が徹底し、意識改革が進んでいるのは職場におけるハラスメントの問題でしょう。
 ストーカー行為については、考えられないような残虐な事件が起きたこともあって、今後、急速に警察などの対応の徹底が進んでいくのではないかと思っています
 最も遅れているのは、学校などにおける子供の「いじめ」の問題ではないでしょうか。まだ、いじめかそうでないかといった問題が議論されたりしています。

 広く言えば、これらは皆人間の人間に対する「いじめ」の問題です。いじめの問題は、いわば人間性の悪い面の表れで、人間社会がある限り、無くならないものだと思います。これはいじめに限ったことではなく、放火や泥棒、喧嘩や詐欺行為などなど、人間社会につきものだからこそ、人間社会はその防止に努力しなければならないのです。

 セクハラについてはかつて、同じことを言っても、同じ行為をしても、相手が迷惑だと思わなければセクハラにはならないが、迷惑だと感じればセクハラになる、と聞かされ、「何それ、相手次第?」などと思ったものでしたが、こうした原則の徹底が職場でのセクハラ行為の減少に大きな効果があったように感じています。

 ストーカー行為は警察などの対応が曖昧だと、まさに致命的な結果をもたらすことがありうるという事が広く知られるようになり、過剰な対応などはないという認識が高まっているのではないでしょうか。

 それに対して学校におけるいじめの問題は、未だに「いじめかどうか」などという段階で議論されています。
 職場におけるハラスメントへの対応を準用すれば、いじめられた当人が、「いじめ」と感じた時点で、その行為はいじめと判定されるべきでしょう。

 過剰対応・過剰反応という意見もあるでしょう。しかしそこまで徹底しないといじめの減少にはつながらないように思います。何故なら、前述のように、人間の人間に対するいじめは、人間社会がある限り無くならないものだと考えるからです。

 学校当局や、担任の先生にとっては、多少の辛さもあるでしょう。しかし、かつて、「加害者と被害者」でも書きましたように「いじめの意識がなくていじめをしている」とか「いじめ意識の希薄化」が進んでいる子供たちの心に、他人をいじめることは「いけないことです」という明確な情報を刻み込むためには、対応は徹底したものでなくてはなりません。

 あまりいい例えではないかも知れませんが、「この程度の盗みなら」といったことはなく、「盗みはすべていけないこと」という意識を子供の時から徹底するのと同じではないでしょうか。
 出来るだけ早く、いじめの減少(根絶は無理としても)を望むものです。


2020年のオリンピック・パラリンピック東京開催決定おめでとうございます

2013年09月08日 10時20分44秒 | 社会
2020年のオリンピック・パラリンピック東京開催決定おめでとうございます
 2020年のオリンピック・パラリンピックの開催都市ついて、東京が支持され選ばれたこと、誠におめでとうございます。
  選ばれた東京そして日本には、世界の平和と発展のために、人々の幸福と感激を増進し、より良い世界の実現の一助となるような スポーツの祭典にする責任ががあるように思います。

 もともと、古代オリンピックは、都市国家間の争いをやめ、スポーツで競い合うことを目指したものでした。近代オリンピックの父、クーベルタン男爵のオリンピック復活の理想も平和の祭典でした。
 その意味では、平和憲法を持つ日本の首都、東京が選ばれたことは重要な意味をもつと考えるべきではないでしょうか。

 開催決定を祝う日本人としても、真摯にこれを 良き機会と捉え 、再び戦争という狂気を繰り返すことなく、死の商人といわれる武器輸出などを再開することもなく、明日の世界のために、平和の理想を貫くことを改めて自覚する契機にしたいものです。

政治家と官僚

2013年07月23日 16時16分00秒 | 社会
政治家と官僚
 まず提起したい問題は「政治家と官僚は対立するものなのか、それとも協力し合うものなのか」という問題です。
 多分、「本来は協力し合う関係であるべきだが、えてして対立する存在になってしまう」などというのが答えとして出て来るでしょう。

 もともとは、政治家も官僚も国のために働くのですから、協力し合って当然でしょう。
 時として、対立することがあっても、宮沢賢治の「ポラーノの広場の歌」のように、
  「まさしき願いにいさかうとも
   銀河のかなたに共に笑い・・・・・・・」
といった関係であれば、恐らく結果は良いのでしょう。

 ところが、現実の世界では「政治主導、官僚主導打破」などと言われたり、種々の解説の中でも「政治主導とは、政治家が官僚に依存せずに・・・・・」などと書かれています。
 そんなことが可能でしょうか。企業で言えば、政治家は経営陣、官僚は従業員でしょう。経営者が従業員を当てにしないで経営をするなどということがありうるでしょうか。

 官僚は国家公務員だけではありません。地方公務員も入れれば、サラリーマンの約1割は官僚です。収入源は税金です。国民がそれだけコストを払っている官僚に依存しないと言われたら、国民は何のために税金を払っているのかと問いたくなります。
 国民としては、政治家に十分に官僚を活用してほしいし、官僚には政治家と対立するのではなく、政治家に良い政治をしてもらうように一生懸命力を尽くしてほしいと思います。

 政治家も、官僚も国民のために働いているはずなのに、なんでこんなことになるのでしょうか。対立するのはどちらかが悪いからだろうという見方もありますが、日本には昔から「喧嘩両成敗」という諺があります。矢張り問題は両方にあるのでしょう。

 アメリカのように政権が変われば、高級官僚は「総取り替え」というのも1つの方法でしょう。しかし日本に官僚は、行政、更には立法業務の専門職として、政権に関係なく身分を保証されています。だからこそ、新人の政治家より「自分の方が専門家」という意識も強いのでしょうし、現にそういう場合も多いでしょう。しかし考えてきれば、だからこそ官僚は政治家の役に立てるのです。

 官僚だけでなく、民間でも、経済団体の事務局が民僚と言われたり、大企業の従業員が官僚的と言われたりすることも良くあります。そういう所をよく見ると、担当者の視野が狭くなって、国や社会全体より所属組織、所属企業・部所・業務に関心や意識が偏っていることが多いようです。現に、官僚出身の評論家で官僚批判をする人は多いですね。

 政治家でも、官僚を目の仇にするような人は、官僚を惹き付ける人間的魅力、リーダシップが不足といった場合が多いようです。有能な官僚トップが心酔する政治家も、現実には数多くいるのです。
 一方、官僚は、自分の役割を良く知るべきです。官僚は政治家を補佐する立場なのです。政治家をないがしろにするなどは官僚のすべきことではありません。政治家の役割をしたければ、政治家になるべきでしょう。

 あらゆるところで「コラボレーション」が言われる時代です。失われた20年からの日本復活のために、政治家と官僚の良き「コラボ」を期待したいところです。


参議院の存在意義

2013年07月18日 10時35分14秒 | 社会
参議院の存在意義
 かつて第二次臨調で行革が論議されたころにも、衆議院のコピーでしかない参議院などは意味がない、止めたらどうかという意見がありました。
 今回の参議院選挙の中でも、「ねじれ」がなければ参議院は衆議院のコピーになってしまう、という意見が聞かれたりします。

 では、ねじれがあった方がいいのでしょうか、と言えば、誰しも、ねじれがなければならないとは考えていないでしょう。もともと、参議院には衆議院とは違った役割があるからこそ二院制になっているということのはずです。

 議会制民主主義発祥の地と言われるイギリスを始めほとんどの民主主義国家は二院制です。これは、それぞれの国の政治の歴史的経験・教訓から、二院制の方が、チェック・アンド・バランスの効果が発揮され、政治が安定すると考えられてきたからでしょう。

 もともと上院を指す senate と言うのは「元老院」という意味で、下院を指す commons  とか representatives というのは一般庶民あるいはその代表という意味でしょう。もちろん上院には貴族院という言い方もあったわけです。

 いずれにしても、上院と下院とではその役割が違っていて、庶民の意見を代表する下院と、それを一段高い識見・良識で判断し、誤りのない政治をしようというというのが本来の二院制の趣旨だということですし、日本でも参議院が、以前から「良識の府」と言われるのはそういう意味でしょう。
 
 例えて言えば、衆議院で国際関係を「力を誇示して」という論議があったら、参議院では「力では解決しない、知恵で解決を」という識見を示すといった意味でしょう。

 しかし国民を差別することがなくなった今の社会では、当然のことながら、上院と下院を区別するものは、被選挙権と任期制で差をつけるぐらいですが、それも現実にはほとんど意味を持ちません。衆議院と同じ政党の主張ばかりが聞こえてきます。

 参議院にその存在意義を持たせるにはどうすればいいのでしょうか。参議院議員に、あなたは常に「良識を発揮」しなければなりませんと言っても多分詮無いことでしょう。
  この状況の中で、矢張り二院制がいいという本質的な論拠を見つけるのは、残念ながら、かなり大変だと思いませんか。

 せめて国民に出来ることは、何とか本来の参議院の意味を取り戻してもらうために選挙に行くという事でしょうか。


ポピュリズム支配の困った社会

2013年07月14日 10時59分39秒 | 社会
ポピュリズム支配の困った社会
 ポピュラーという言葉はいい言葉だと思います。私もポピュラーという言葉は好きです。しかし「ポピュリズム」(=ポピュラーでありさえすれば)」というとどうでしょうか。

 あの人はポピュラーだと言えば、「あの人は皆んなに知られている」とか「あの人は人気がある」という意味でしょう。
 
 しかし、こうした感覚は、つきあう中身によって違ってくることもあります。「一緒にゴルフをやると楽しくていいんだが、一緒に仕事をやったら、とんだ目に合う」などという場合もあります。確かに人間というのは極めて複雑で、長く付き合っているけど、どうもよく解らないところもあるなどというのは現実によくあることです。

 こういう種類の話は、直接付き合っての話です。しかし、今「ポピュリズム」として問題になっているのは、選挙に関わる話です。市会議員などの場合には直接お付き合いがある場合もあるでしょう。しかし国政レベルになると、通常は新聞やTVといった媒体を通してしか知らない人について、「適切かどうか」を判断しなければなりません。

 現実に私たちがやっていることは「本当は良く知らないのだけれど、知ったつもりで投票する」ということなのでしょう。
 その結果、時を経ずして選択が誤りだった事が解り、政権交代が起こったりします。選挙する我々にも、よく考えれば、大きな反省が必要なのです。

 こうした中で、世界中で見られることなのですが、大変心配なのは「ポピュリズム」蔓延の傾向です。
 マスコミのせいもあるのかもしれませんが、国民がポピュリズムの傾向を強めると、選挙大事の政治家は忽ちそれに反応します。可能性などは解らずに、国民が喜びそうな公約やマニフェストを掲げ、政権を取ってみたら結果は何もできないとった事になります。
 EU加盟の赤字国などは典型ですが、国民の口に苦い良薬(緊縮政策)より甘いお酒(緩和や減税)を掲げた方が国民に人気があったりするのです。アメリカの赤字垂れ流しの儘の出口戦略なども同列です。 

 これは何も政治の世界だけではありません。経済経営の世界でも、長期的にはいざ知らず「今の評価が良ければよい」が流行です。
 時価総額最大が経営の目標になったりします。時価総額などというのはポピュリズムの典型で、タレントの人気投票と一緒で、明日はどうなりかわからない指標です。

 舶来崇拝のまだ残る日本ですが、こうした社会の傾向だけは賢く見分けて、何とか追随しないようにしたいものです。


多様共存

2013年05月18日 16時13分10秒 | 社会
多様共存
 昔からの癖で、正月には書初めをしています。今年は「多様共存」と書きました。
 多分四文字熟語の辞典にはないと思いますが、私の造語で、「多様なものが仲良く共存するような状態が一番良い事ではないか」と考えて書いてみたわけです。

 勿論意識の中には、日本列島が、世界で最も多様なDNAが共存 する地域だといったこともありましたし、また、宗教も異教を認めないのではなく、お互いに尊敬し、尊重し合いながら仲良く共存できればいいなという気持ちもありました。
 経済・経営にしても、それぞれの国や地域の文化的背景の違いに応じて、それぞれに特徴があって、それが巧く共存できればいいな、といった気持もありました。

 例えば、企業間で問題が起きても(自動車事故でもそうだそうですが)、欧米では絶対に先に謝らないと言います。あらゆる理屈をつけて「こちらは悪くない」と主張するそうです。
 労使関係でいえば、労使は対立すべきもので、協調してはいけないというのが欧米では基本的な考え方のようです。労使協調は御用組合と同義でしょう。
 ベンチャー企業で時価総額が上がれば、良い時に企業を売却して大金を得るのは当たり前の行動で、日本人はなぜ企業を売りたがらないのかとアメリカの有力ファンドの経営者が言っていました。

 自分の利益や立場もさることながら、相手も同じ人間で、お互いに人間同士、気持ちが解ってしまう(解り合おうと考える)。多くの日本人からすれば、矢張り、日本的の考え方や態度の方が「人間味」があっていいのではないかと思ってしまいます。

 企業を売りたがらないというのも、自分(自分たち)の手作りのものに愛着を持ったり、一緒に仕事をしてきた仲間との人間関係を大事に考えたりする文化が日本人にはあるからでしょう。

 経済的に見れば、そうした人間的な関心や配慮のために、得られたはずの利得を失うのは馬鹿げているのかもしれませんが、日本人は単なる目先の金銭的な利得より、生涯の中での人間関係の方が大事だと考え、それがまた長い目で見れば、経済的にもより大きな報酬をもたらすこともあるのです。

 生物多様性は欧米でも関心の的ですが、これは自然界のもたらす優れた働きを大事にしようということでしょう。人間の歴史、伝統、文化などの多様性も、出来るだけ残しつつ、それぞれの特色、長所を生かして共存できる社会を目指す方が、結果的には優れた文化のあり方のように思うのですが、どうも世界を一色に塗りつぶそうとする動きの方が強いのは残念です。


「日本らしさ」を考えよう

2013年04月29日 16時23分54秒 | 社会
「日本らしさ」を考えよう
 アベノミクスで、行き過ぎた円高が急速に改善されたことは、日本にとても世界にとっても大変良かったと思います。これで日本経済の健康が回復すれば、改めて日本が、いろいろな面で世界に貢献できる可能性が大きくなるからです。

 そうした形で経済面の改善が進む一方で、中国、韓国との関係が主ですが、最近の日本の国際関係面で、徒にギクシャクが増えるような状況が見られることは大変残念です。
 「かつてアジア侵略に手を染めた日本が、その本性を改めて示し始めた」などという疑念や誤解を持たれないためにも、日本は「本来の日本らしさ」を取り戻さなければならないようにい思います。

 「本来の日本らしさ」と書きましたが、私自身日本人の原点と言われる縄文時代に生きていたわけではありませんから、多くの先哲の研究、種々の伝統文化、自分なりの感覚、日本の自然、人間関係、などなどから、まさに自分なりに考え、想い、納得する「日本らしさ」でしかありません。
 しかしその時代に生きていても、無意識でやっていたという面もあるでしょから、よく言われる「後世の歴史家が判断してくれる」方が、よく整理されているということもありうるかもしれません。

 そんな目で見ると、先ず、日本人は本来「争いが好きではなかった」と思われます。日本列島は地球上で最も多様なDNAが共存する地域 のようですが、人間だけではなく、自然との共存という意味でも、それは、国土の7割の森林面積の維持という面で見られるような気がします。山と海は友達(兄弟)、山(森林)が豊かになれば海(海産物)も豊かになるという理解は日本の縄文以来の伝統文化(知恵)です。

 また、縄文時代は戦争がなかったというのが考古学の研究者の意見の主流です。奴隷制もなかったと言われています。上のような多様性共存の状況証拠もそれを支持しているように思われます。
 その一方で、怨霊、祟りは広く信じられていたようです(梅原猛)。今でいえば、偶然に起こる自然現象を、恨みを持って亡くなった人の祟りと考えるのです。

 私なりに理解すれば、これは日本人が、伝統的に、「自分は何か他人に対して反省すべきことをしたのではないか」という謙虚な気持ちを強く持っていたことの表れだということではないでしょうか。
 以前、「加害者と被害者 」で書かせて頂きましたが、日本人には本来「加害者になりたくない」という気持ちが強かったような気がするのです。

 誰しも自分は大事ですが、知人、友人も、赤の他人も、袖すり合うも他生の縁で、自分と同じ人間であり、同じように生きている、人間だけではない、他の動物も植物も、生命を持つものとしては変わりがないという考え方です。だから、人間だけでなく、動物でも植物でも、更に無生物の針や筆に対してさえ『供養』をするのが日本人です

 こんな伝統から日本人の基本哲学(思想)である「和」が来ているように思われます。(以下次回)


ますます必要な国民の連帯

2012年12月14日 12時15分12秒 | 社会
ますます必要な国民の連帯
 「世界に1つだけの花」というのも、われわれ一人一人が「それぞれに自信を持って咲きましょう」というためにはいいと思います。しかしその花々が「連帯」の気持ちを持って咲き競えばもっと良いのではないでしょうか。
 
 今度の選挙は小党乱立です。同じようなのに、何か違いを強調しているように感じます。販売戦略には「差別化」というのもありますが、人間社会は最終的には、差別化ではなく、連帯しなければなりません。
 神と悪魔が永久に対立する宗教では、必ずしもそうでないのかも知れませんが、八百万の神々が共存し、神仏すらも習合出来るような日本社会には、そうした二元論よりも、「調和」「連帯」の方が似合うようです。日本古来の「和」の精神でしょうか。

 以前、「舶来崇拝からの早期脱出を」と書かせて頂きましたが、まだ難しいようです。
 今、日本のおかれている状況もそうですが、戦後最大の国難と言える状況ではないのでしょうか。

 プラザ合意という自らの外交の招いた失敗の中で20余年のデフレ不況を経験し、世界経済に何かあれば、世界が「¥」に皺寄せするような悪い経済習慣を定着させ、経済の停滞から派生する民心の不安定、格差社会、その結果の社会の劣化を引き起こし、日本人自らが、自信を喪失、先進国からの脱落さえ認めるような体たらくです。

 こんな国難の中にありながら、説明を聞いても良く解らない程度の違いを言い募り、分裂していく様相を、冷静な国民はどう見ているか、一体だれが考えているのでしょうか。

 古事記によれば、天照大神が天の岩戸に身を隠された時、八百万の神々は、高天原、天の岩戸の前に集まり、いかにして、天照大神に岩戸から出て来ていただこうかと、みんなで相談されたとのことです。

 たかが神話と馬鹿にするのは簡単でしょう、しかしそこからは何も生まれません。いま日本に必要なことは、国債は借金だから子孫に残すべきではない、などという、プラザ同意前には似合った論議ではなく、「先進国から脱落した日本」を子孫に残すのかどうかといった、もっと、もっと深刻な問題なのです。

 「貧すれば鈍する」という諺は確かに存在します。しかしその諺どおりになるのが良いのであはありません。諺は、そうした失敗をしないために言い伝えられて来たものです。