Altered Notes

Something New.

「煽り運転」を生み出す深層心理

2019-08-20 14:36:36 | 社会・政治
煽り運転が原因に依る事故・事件が相次いでいる。なぜ煽り運転がなくならないのか。なくならないどころか、増えている印象すらあるのはなぜか。

煽り運転はいじめの構図と全く同じである。「煽り運転をしてしまう心理」と「いじめ加害者の心理」は同じということ。ヒントは深層心理・無意識の中に存在している。

社会には色々なタイプの人が居るし、同じタイプでも個人によって異なる性質を持っているのが普通である。その中を見渡した時に、好感が持てる人物とそうではない人物を人は無意識的に仕分けしている。この「好感が持てない」には「自分とは違う(皆と同じではない)」という異質さの感覚も含まれる。

好感が持てない人物、それは嫌いな人物とも言えるが、なぜそう感じるのだろうか。それは人間の無意識の中に存在する種々の心的要素の動きに関係している。

どういうことか。

これについてスイスの深層心理学者であるC.G.ユングが説明しているのだが、ユングの解説をそのまま記すと非常に難解になるので、ここはざっくりと平易に説明する。

人を見て「なんか嫌だな」と思う時、それは自分が認めていない生き方を相手がしている時などにそうした感情が生じる。平たく言うなら、自分が好ましく思う言動・行動をする人には好感を持つのだし、逆に自分が嫌だなと思う言動・行動をする人には嫌悪感を持つのである。また、日本人の場合は皆とは異なる人(皆と同じではない人)に対しても嫌悪感を持ちやすい。

この時、人はその(嫌だなと思う)相手に対して自分の中にある「影(シャドウ)」を投影(プロジェクション)しているのである。

「影」とは何か?

無意識の中にある「自分が否定しているもの」「嫌なもの」と思う感情の元になる心的要素である。

煽り運転でもいじめにおいても加害者自身の無意識の中にある「影」を相手に投影しているのだ。投影された相手は自分からみて「嫌な奴」「否定されるべき人間」「存在を抹消したい人物」として意識化される。

この時に相手に対して感情的になり、同時に攻撃的になる。そしてその攻撃が煽り運転でありいじめ行為なのである。

この「影」という心的要素は誰の心の中にも等しく存在している。「影」のない人はいない。人が人として存在できるのは光と影があるからである。それは物体が塑像として見えるには光と影が必要であるのと同じである。

普通の「成熟した人間」ならば、上述の「影」を己の心の中でうまく消化して統合する事ができる。「影」を相手への攻撃エネルギーとしてではなく、自分自身の中で消化することで自分という人間を成長させる原資にすることが可能なのだ。

もうお判りと思うが、煽り運転をする人物、いじめの加害者といった人々は、上述の「影」を己の心の中に統合することができない人間なのだ。ざっくり言えばそれだけ人間的に幼く心の成長が未熟な段階にある、と言えるだろう。

2019年8月19日のCX「ワイドナショー」において、武田鉄矢氏は「煽り運転をする犯人は何かが憑依している」ので「普通に話しちゃだめ」という趣旨の発言をしている。これは当記事での説明と矛盾しないものだ。

前述のように、煽り運転をする犯人は己の無意識中の「影」が暴走するその勢いに耐えることができない未熟な人間なのである。いわば本人に「影」が憑依した、とも言えるだろう。

まともな大人ならば無意識の中で「影」が暴れだしていてもそれを意識化して自制することができる。「影」の憑依を振り払う事ができる、ということだ。

煽り運転してしまうのは自制ができないどころか、自分の心の中で「影」が暴れだしている事実にすら気が付かない、意識化できない人だから・・・ということであり、「影」が暴走している間はまともな話(論理的な話)は受け付けられない。無意識内の動きが優先された心理状態にあるからである。だから武田鉄矢氏も「普通に話しちゃだめ」(憑依中はまともな話は不可能)と言っているのである。

そしてさらに言うなら、己の心が「影」に乗っ取られた人がその攻撃の対象とするのは往々にして「※但し自分よりも弱そうな人間に限る」のである。考えてみれば判るが、いじめの加害者は加害者本人よりも強そうな人間は絶対に攻撃しないのだし、それは煽り運転でも基本的に同様である。攻撃する人間は下劣な卑しさも併せ持つ事が認められるのだ。

また、加害者は無意識的に「影」を対象相手に投影してしまう一方で、まともで常識的な社会人を装うという小賢しい事も可能である。これは人間の無意識の中には様々な心的要素が存在し、「影」はその一部分に過ぎないからである。前述のように人間の中には光と影の両方が存在するので、「影」が暴走する時に極度の異常性を発揮する人物でも一方で極めてまともな社会人像を装うことも可能なのである。

こうした人間の無意識の動きについて社会はもっと関心を持ち認識する必要があるだろう。(*1)
また、これらを生み出す背景となる社会の有り様にも関心が向けられるべきである。恐らく社会の有り様に一切のマージンが無く、型に嵌った生き方を強制されて非常に息苦しい状態にある事も関係しているのではないか、という気がしている。



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[2019/10/14付記]
スティーブン・スピルバーグ監督の出世作となった「激突!(Duel)」という映画作品がある。ご覧になった方も多いと思うが、あの映画は正に煽り運転の被害に遭うというモチーフであり、主人公の男性を執拗に追いかけてくる正体不明の大型トレーラーは正に得体のしれない「影」である。「影」という元型は自分でもはっきりと意識化できない正体不明の暗い何か、なのである。この映画で描かれたのは煽り運転がもたらす恐怖と、もう一つは現代社会が抱える得体のしれない暗い影を象徴的に描いた、と言えるだろう。誰もが主人公の男性のような危機的状況に陥る可能性はそこかしこにあり、その原因ははっきりとは判らない”何か”(=「影」)なのである。



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(*1)
事件後の報道でよくあるパターンに「あんなに良い子だったのに」とか「とても真面目な人だと思ったのに」という証言がある。犯人が普段は真面目で誠実な人柄が周囲に認識されていたにも関わらず、ある日突然凶悪な犯行に及ぶ、という事がある。人間が光の面だけでなく影の面も持ち合わせている事を知識として持ち合わせていたらこのような単純なコメントはできない筈だ。逆に普段は良すぎるくらいの性格を持つ人(光の面ばかりが目立つ人)こそ己の中の「影」を圧迫している分、いざ「影」が暴走し始めた時にはとんでもない規模の事件を引き起こしてしまう可能性があるのだ。