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原爆の延長上に計画されていた日本人全員滅亡作戦

2020-08-20 16:25:25 | 国際
毎年8月6日と9日には広島・長崎に於ける原爆で犠牲になった人々の追悼セレモニーが行われる。核兵器の被害にあった事は日本にとって非常に大きな事であった。

大東亜戦争当時のアメリカ大統領であったトルーマンの有名な言葉がある。

「原爆は失われたかもしれない多くのアメリカ兵の命を救った」

今でもアメリカ人の多くはこの言葉に賛同しているが、日本人の多くはこの言葉には大きな抵抗を持つであろう。一発の原爆であまりにも多くの市井の人々(非戦闘員)が亡くなっているからである。

だが、当時のアメリカが考えていたのは原爆だけではない。もしも日本がポツダム宣言を受諾せず無条件降伏していなかった場合、原爆の先に恐ろしい作戦が存在していたのだ。それは「日本人全滅計画」である。「全滅」はオーバーではなく、本当に全ての日本人を殲滅して根絶やしにしてしまう計画が実際にあったのである。

その名は「ダウンフォール作戦」。


今回は2020年8月18日配信のDHCテレビ「ニュース女子」にて紹介されたその内容をお届けする。


「ダウンフォール作戦」とはどのようなものだったのだろうか。


ダウンフォールとは滅亡という意味である。
広島と長崎に原爆が投下されたが、実は日本各地に対してさらなる原爆投下の計画があった。そして原爆だけでなく、サリン等の化学兵器で日本人を一人残らず殲滅させる、というプランもあった。それだけではなく、農地に薬剤を散布することで食料を絶って日本人を完全に抹殺する計画だったのである。

ダウンフォール作戦は下記の二つの作戦から成っている。

・オリンピック作戦
・コロネット作戦

具体的な流れとしては、まずオリンピック作戦で九州南部に上陸して占領する。そこでB29爆撃機の拠点を作って次のコロネット作戦の準備をする。

オリンピック作戦から5ヶ月後にコロネット作戦が発動される。

具体的には神奈川県相模湾と千葉県九十九里浜に上陸する。規模は107万人の兵士と1900機の航空機である。これで首都東京を挟み撃ちする形をとる。


実は日本側でもダウンフォール作戦が計画されている事を察知していた。これに対して日本軍部は一億玉砕を覚悟する。日本本土での防衛作戦である「決号作戦」で来たるべき本土決戦に挑む事になった。(実際にはポツダム宣言受諾で決号作戦は実行されなかった)

そうなると当然兵士が足りないので徴兵も強化された。60歳までの男子、40歳までの女子が徴兵されたのだが、当時の平均寿命は50歳未満だったので、事実上すべての国民(2600万人)が対象だったと言える。国民全員を本土決戦に投入しようというのである。もちろん各種の特攻兵器も総動員である。


ダウンフォール作戦が実行された場合の死傷者の想定は次の通りである。

・米軍 50万人以上
・日本 1500万人以上

相当な規模であり大きな犠牲を予想していたのである。




連合軍側に於ける「日本降伏に向けた計画と推移」は次のようなものであった。

(1)1943年11月「カイロ会談」にて方針が決定される。

(2)1945年2月のヤルタ会談直前にダウンフォール作戦の骨子が完成する。ドイツ降伏後、ソ連が日ソ不可侵条約を破って参戦申し入れ。

(3)1945年3月大都市空襲(東京・名古屋・大阪・神戸)

(4)1945年8月 原爆投下 → 日本降伏

(5)ダウンフォール作戦
大量破壊兵器や毒ガスなどによる無差別攻撃の実施。
・第1段階 1945年11月1日決行予定「オリンピック作戦」
・第2段階 1946年3月1日決行予定「コロネット作戦」



当時のアメリカはフランクリン・ルーズベルト大統領の民主党政権だった。その中でヤルタ会談を含めて日本に無条件降伏を求めて日本を徹底的に痛めるという政策を作ったメンバーの多くが実はソ連の協力者でありスパイだった。

ソ連の思惑はこうだ。アメリカに拠る日本の徹底的痛めつけで日本人がアメリカ嫌いになったところに入り込み、反米を煽ってソ連側に引き込む・・・という魂胆だったのである。

このようなシナリオをルーズベルト政権の側近たちが考えていたのであり、それが1995年に公開されたヴェノナ文書(*1)で明らかになったのである。



戦争においては、第一次世界大戦以降、国力のすべてをあげて戦う「総力戦」という概念が出てきた。国力の全てを動員して徹底的な殲滅壊滅に動く、ということだ。独ソ戦では日本以上の犠牲を実際に出している。それに対して近年ではいったん戦争が始めるとそういう壊滅的な事態になってしまう事を嫌うようになった。それ以降、大国が全面的に対決するような戦争は第二次世界大戦以降起きてない。

総力戦という形で相手を徹底的に痛めつけてしまうと、その地域・国民の全員が自分達の敵にまわる事になる。アメリカ軍は沖縄を徹底的に痛めつけたので、沖縄の人はどうしても反米になるのは必然であろう。そうなるとその後でアメリカが沖縄を利用しようと思っても色々と利用しづらくなるのだ。つまり、総力戦で相手を徹底的に痛めつけることは結果として政治的にはマイナスだということがわかってきたのである。

アメリカで当時野党だった共和党、国務省の政治家・官僚たちは、かつての独ソ戦などから学び議論し、その中で「ダウンフォール作戦で日本を徹底的に痛めつけることは、実は結果的にアメリカの国益に対してマイナスである」ことを理解し始めていたのだ。だから日本に対してダウンフォール作戦を適用することは止めた方がよろしい、という方向に動き始めていた。「原爆かダウンフォール作戦か」という選択ではない事が見えていて、言ってみればそもそも原爆も不要だった、という議論すらあったのである。


それでも原爆は広島と長崎に落とされた。
なぜか?


当時のアメリカは海軍と陸軍があった。日米戦争に於いては実は海軍が連戦連勝していたのである。ミッドウェー海戦や沖縄などで勝っている。一方、陸軍はフィリピンなどでの例を含めて連敗だったのである。アメリカ陸軍としては「日米戦争で勝てたのは海軍のおかげ」と言われるのが嫌だったのだ。陸軍は「自分達のおかげで戦争に勝てた」ということにしたかった。そこで当時陸軍が開発していた原爆が登場するのだ。いわば陸軍が突っ張った結果の原爆だが、アメリカ海軍は一貫して「原爆は不要だ」と言い続けていたし、これについての議論はかなりあったのである。



ちなみに日本の陸軍と海軍も仲が悪かった。
しかし、ラッキーなことに当時の日本も東郷外務大臣や昭和天皇はそういうことを理解していたので「早く和平交渉を進めるべきだ」としていたのである。
だが、日本に於いても陸軍は視野が狭かったので、ついつい徹底抗戦・本土決戦などと言ってしまうのであった。実際はそんなことにはならないのだが。

こうして歴史的に背景を見ると視野が狭い人が指導者になるとろくでもないことになる事が判るのである。


ダウンフォール作戦の第1段階である「オリンピック作戦」の概要は次の通りである。


[オリンピック作戦]

決行予定:1945年11月1日
上陸地点:鹿児島県志布志湾・吹上浜、宮崎県宮崎海岸
兵力  :81万人
作戦内容:九州南部を制圧して航空基地の設営などを実施。日本全土がB29の射程内になる。中距離爆撃機で関東への爆撃が容易になる。原爆や毒ガス兵器の使用。制圧予定期間は4ヶ月。



日本でも大本営の参謀であった堀江氏は「この日に来るだろう」ということをほぼ正確に予想していてアメリカ側の作戦計画とほぼ一緒だった、ということが後で判明している。


そもそも「戦争の勝敗」とは何が決め手になるのだろうか?


航空機を使って激しく爆撃しても決まらないのである。そういうことではなくて、最終的には「地上を占拠」することではじめて勝敗が決するのだ。

大量殺戮兵器がなければ一定程度の被害で収まるが、ダウンフォール作戦のような大量の兵器が出てくることになるとどうしてもそうなってしまうのである。地上を占拠するという、この作戦が是か非かではなくて、軍事ではこれをやるのが常識なのである。相手方エリアを占領することが重要なのだ。そうしないと戦争が終わらないからである。


ダウンフォール作戦の第2段階である「コロネット作戦」の概要は次の通りである。


[コロネット作戦]

決行予定:1946年3月1日
上陸地点:湘南海岸(神奈川)、九十九里浜(千葉)
兵力  :オリンピック作戦との合計で、艦船3000隻、航空機6000機 、総人員180万人
首都圏を制圧し東京を包囲し攻略する
制圧予定期間:上陸後30日で東京を包囲



ドイツは実際にこれを徹底的にやられた挙げ句に国土は分割されて西ドイツ・東ドイツとなった。
ベトナム戦争もこれが行われた。枯葉剤を撒いて徹底的にやったのだが、もの凄いレベルで抵抗された上にアメリカ国内で反戦運動が起きてしまったので、それ以上戦争を続けられなくなってしまった。その結果、ベトナムはまるまる共産主義のソ連に持っていかれたのであった。

それでいけば、日本は敗戦国になったのに分割支配されなかったのは奇跡的なのである。それはその事にアメリカ内でも常識ある人が気づいたことで変化があったのである。


戦争は戦闘員同士の正規の争いである。国際法では非戦闘員の殺戮は認められていない。しかし原爆で大きな被害を受けて普通の市井の人々が多く亡くなっている。独ソ戦でもそうだったのである。なぜそれが許されるのか不思議である。これは国際司法裁判所に訴えられるレベルの話である。広島長崎の人々はアメリカに対して訴訟できる資格がある筈だ。アメリカは国際法違反をしたからである。

ドイツでも敗戦が確定した後でドレスデン空爆(*2)があったのだ。


余談だが、歴史を見た時、もっと古い話で言えば、コロンブスの南米大陸発見がある。そこからスペインが何をやったかと言うと、南米大陸を支配する目的で自国の刑務所で服役している囚人たちを連れて行って「(新大陸の住民を)殺してこい」と命令したのだ。首何個で報酬がいくら…などとやっていたのである。ぞっとする話だが、それくらい欧米の人間は実は残虐なのである。(*3)

話を戻す。

コロネット作戦に対応する日本軍の話である。
当時の軍サイドは準備を一生懸命にやっていたが、実際に昭和天皇が「これに本当に立ち向かえるのか?」と疑問を呈して何度も軍に聞いたのだが、軍はちゃんと回答できなかった。できないのである。物資不足で既に武器が何も無い状態だからだ。


昭和天皇はどういうルートでダウンフォール作戦の情報を得たのだろうか?


実は、軍は一枚岩ではなくて、軍の中でも政治がちゃんと判っている人たちも居たのだ。いわゆる「反ソ派」の人たちだ。インテリジェンス(情報)系の人たちはソ連に対して警戒心を持っていたのだ。「アメリカと戦うことは一方的に日本をソ連に追いやることだ」と判っていたのである。なので、「ソ連に占領されないようにするためにはアメリカと戦うべきじゃない」ということがちゃんと判っている人たちが当時の軍の情報部/インテリジェンス系には結構居たのである。彼らが裏から吉田茂とか重光葵を通じて昭和天皇にそういう情報を上げていたのだった。

明治時代、日露戦争の頃から日本は本質的に北方に対しての警戒感が非常に強いのである。軍のインテリジェンスも基本的には北方向けだったのだ。



[日本の防衛体制について]

★決号作戦:「一億玉砕」をスローガンとした本土防衛の最終作戦計画

国民義勇戦闘隊:男子60歳、女子40歳までの国民全員(約2600万人)装備は各自が準備(弓、刀、農機具、竹槍など)

国土決戦教令:決戦間には傷病者の後送を行わない。戦闘中の部隊の後退を禁ずる。支援部隊であっても命令があれば突撃に参加する。敵が住民を盾にして前進してきた場合には躊躇なく攻撃する。

もし日米の両作戦(ダウンフォール作戦&決号作戦)が決行されていれば戦死者はアメリカ50万人、日本1500万人になったと推定されている。

恐ろしいのは、敵の攻撃で「一億玉砕」ではなく、自ら「一億玉砕」しに行くようなイメージになっていることだ。ほとんど自滅の形なのである。


日本陸軍の一部にはソ連大好きな人も居た。その人達は「朝鮮半島から北を全部ソ連にあげて、交換にソ連軍に来てもらって一緒にアメリカと戦おう」という訳のわからない事を言ってる奴もいたらしい。

映画「日本の一番長い日」(岡本喜八監督)では「玉音盤を奪って終戦工作をさせない」という陸軍の跳ねっ返りの参謀たちが居て、そういう連中が正に「一億玉砕」を言っていたのである。ソ連の罠にまんまとはまっていた残念な人たちである。それは「鬼畜米英」と叫んでアメリカ・イギリスがけしからん、と言ってソ連と組もうとする単純馬鹿だ。今現在でもアメリカ・イギリスが嫌いで、その関係で中国が好きだという人が日本の野党にいっぱいいるが、あれと同じである。ついでに言うと朝日新聞も同じだ。



日本軍の「決号作戦」は現実的な計画ではない。槍で戦うのはまるで戦国時代のようである。実際には兵站線がなくなった段階でその人達は「戦闘能力ゼロ」とされる。日本の場合、最終的に幸運だったのは「ちゃんと降伏できる政府があった」ということである。これが無政府状態で「北陸は海軍が治めている、東北は陸軍が握っている」といったバラバラな状態だと無理であったことは間違いない。降伏する主体がないからである。日本がきちんと近代国家として成立している事が判るのは、ちゃんとヘッドクォーターがあって、最終的には天皇陛下の御聖断を仰ぐ、という形があること。昭和天皇が「戦争を終わらせる」と決断してくれたのだ。その決断を言ってくれる人がいて、それを実行できる政府があったことがラッキーだったのである。これがもし無かったとしたら状況は混沌とするだろう。誰が誰と戦ってるのかもわからなくなって、下手したら東北地方の一部にはソ連軍が
入ってきて、南方はアメリカと共同でソ連に対抗し始めて…となると完全にベトナム戦争と同じになってしまう。または朝鮮戦争のようなものだ。それを避けられた事は本当に大きなことだったのである。


当時のアメリカに於いても、前大統領だった共和党のハーバート・フーバー(*4)がシムスン陸軍長官の顧問になっていた 。シムスン陸軍長官に対して「軍事だけでものを考えちゃ駄目だ」と言ったのだ。「戦争は政治」だから、軍部は軍の合理性だけで考えるのは間違いである。そうではなくて国際政治の大きな構造を見た時に「日本が余力がある間に日本とアメリカで和平を進めていけばアジアは自由主義陣営で維持できる(*5)」という大局観を懸命にシムスンに訴えるのだ。言っても前大統領なのでシムスンたちはフーバーの議論に押し戻されて最終的にトルーマン大統領も「余力のある日本と終戦に応じる」という決断をしたのである。日本側ももそういう構図を理解した上で決断をしたのだった。国際政治はお互いの意向を踏まえなければ進められないのである。



終戦後の対応もソ連とアメリカの評価を分けた。

当時の日本でも例えば満州でソ連に抑留された人々はソ連に対する恨みつらみが半端ない。「一生許さない」「死んでもソ連だけは許さない、と。一方で南方組(アメリカ)は一回降伏してしまったらむしろ優遇されるのである。日本の植民地に派遣されている官僚に対して巣鴨プリズンに入れる前にお土産もたせて一回帰還させてからもう一度戻らせる。それでアメリカへの評価は全く違ってくる。お土産の缶詰数十個だけでアメリカへの印象が俄然良くなってしまうのである。その後ずっと親米になったりする。こうしたところでもアメリカとソ連の違いが際立つのだ。これが何かと言えば、アメリカは戦争が政治であることをちゃんと理解していた、ということなのである。

アメリカは日本の事を考えて対応したのではなくて、自国のメリットデメリットを考えていた。しかしソ連の場合は「共産主義革命」であり「革命の輸出」を進める気満々だったのである。実はアメリカのトルーマン政権はソ連が参戦してくる方が恐怖だったのだ。日本側としても原爆よりもソ連の参戦が問題だったのである。

これらがぶつかりあっていたのであって、当時の日本のマジョリティーはこれが理解できていなかったのである。


戦争は政治である。


昭和天皇と吉田茂なども含めて日本の外務省、軍の情報(インテリジェンス)関係でこれをきちんと理解していた人たちがいてくれたからなんとかなったのである。戦争は政治であり、これを軍事の視点だけで見ていくと訳がわからなくなって思考停止になるだろう。





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(*1)
ヴェノナ文書
米英の情報機関が第二次世界大戦時のソ連の暗号を傍受・解読しまとめた極秘文書
1995年にアメリカ政府によって情報公開された

(*2)
ドレスデン爆撃
1945年2月13日~15日、第二次大戦終盤、連合国軍はドイツ東部のドレスデンに3900トンの爆弾を投下した。街の85%が破壊され、多くの一般市民が死亡した。これはイギリスの将軍が独断で決行を決定した。

(*3)
アメリカにとって原爆は降伏させるための道具でもあり実験でもあった。アメリカの科学者は原爆の威力・影響力・被害等々をつぶさに調べたかったのだ。終戦後にやってきたアメリカの諜報員が向かったのは広島・長崎であり、原爆の影響力を実地に調べたのであった。日本人は実験動物にさせられたのである。

(*4)
ハーバート・フーバー:第31代米国大統領。ルーズベルト政権が第二次世界大戦に参加することに強く反対していた。

(*5)
捏造された自虐史観でしか歴史を捉えていない人々が信じているのは「東南アジアで日本軍は嫌われているに違いない」ということ。しかし実際は逆だ。1955年にインドネシアで開催されたバンドン会議(アジアとアフリカの29カ国が参加した国際会議)があった。多くの国が欧米諸国の植民地支配から独立した国で、当時の世界人口の約半分を占めていた。ここに日本代表も恐る恐る参加したのだが、アジア・アフリカの人々は日本を歓迎した。なぜなら「自分達の地域を支配していた白人を追い出してくれたからのは日本だけ」だからである。日本は思いのほか上品だったのである。




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