現代はお笑い芸人が「お笑い」で楽しませるだけでなく、逆に一般視聴者に不愉快な思いを与えたり憤りの対象になってしまうことが珍しくない時代である。筆者が以前に記した通りで、芸人である以前に人間としての人としてのあり方が問われたり、人間の質の劣化が酷いのにも関わらず、それが全然意識化されていない、という実態がある。今回はそんな低レベルな芸人達の厚顔無恥な思い上がりを示す一面を記したい。
お笑い芸人がしばしば使う用語として「いじり」がある。一般人も通ぶって使うことが多くなった単語の一つである。
「いじり」はしばしば「いじめ」に等しい状況を作り出す。芸人同士のいじりでは時に悲惨なほど虐待を受ける人物も出るほどで、面白いどころか嫌悪感と不愉快さしか感じられない場合も少なくない。本来はお金を出してくれる客層である一般人を「いじり」と称して貶めて笑いを取る下品で無礼な芸人も少なくないし、今ではそれが当たり前の風潮にすらなってきている。
昭和の昔の芸人は客層である一般の人を貶すことは決してしなかった。貶める対象は自分たち仲間内だけである。自分や仲間を嗤う事でお客さんに笑ってもらっていたのだ。さらに笑いには常にある種の品が保たれていた。しかしテレビ番組の「ひょうきん族」あたりからそうした空気が徐々に変わり始めて、それまで保たれていた品が崩れ始めた。いきおい下品かつ幼稚な方向に向かっていったのであり、それまで存在した暗黙の規範がなし崩し的に消えていった。人間は本来下品な事が好きである。インモラルな言動や行為は人間心理の「影」の部分が賦活されることで禁断の愉悦が味わえるのである。モラルという最低限守るべき規範を一度外してしまうと、後はどこまでも下がり続けることになる。こうした潮流の中で「いじり」も「いじめ」に近似するほど近づいていったのだ。
そして、芸人同士の「いじり」が過激化し苛烈化していった、という経緯があり、その流れの中で客層である一般人をも「いじり」の対象にし始めたのである。テレビ番組の中で、時には一般人を見下し馬鹿にして笑いものにする事も珍しくなくなった。これは一般人を馬鹿にする芸人の立場では「面白いこと」なのかもしれないが、何の準備も覚悟も無い一般人がいきなりそのような扱いを受けるというのはまったく面白くもないばかりか、客観的にみた場合、「虐め」にしか見えない事も少なくない。そもそも芸人達は上から目線で一般人に相対するのである。「いじり」と称して一般人をいじめる様子を見てそれが面白いと思うなら、それは正に「いじめ加害者」の心理と完全に同一である事を知るべきであろう。それを率先して遂行しているのが今どきの芸人でありテレビ番組なのだ。(*1)
芸人の人としての質の劣化も問題だが、この風潮を煽るテレビ番組の存在も看過できない問題である。
では、どこまでが「いじり」でどこからが「いじめ」になるのか。別の言い方をすると「両者の境界線は何処にあるのか」ということになる。
境界線とは、言い方を替えれば「いじり」が成立して幸せな爆笑になる為の必要条件・・・そのラインである。その条件を満たす事が前提になるのだ。
では、必要条件とは何か?
「いじり」を仕掛ける側と受ける側に「共通認識」或いは「共通の価値観」が存在し、概念の共有ができていること、である。
そこで発生する「笑い」のネタについての共通の認識と価値観であり、「いじる側」と「いじられる側」がそのネタに対する認識と価値観が同一、つまり共有できている場合にだけ笑いが生まれるのである。ここが両者間でズレていたり、極端な場合にはパラダイムのギャップがあったりすると、その「いじり」は「笑いとして成立しない」のであり、それだけでなく逆に「いじめ」として成立してしまう事になるのだ。
「いじり」を仕掛けた結果、「いじる側」だけが喜んでいるケースは全てこれである。「お笑い」として成立していないにも関わらず、それを「笑い」としてテレビ番組で映される事になり、結果として視聴者は「いじめ」を見せられる事となって不愉快さと憤りしか得るものがない…という事になる。
「笑い」というのは本来は非常にインテリジェントなものなのだ。知的レベルの高い人々が物事に対する認識、概念や価値観を共有している時に、その認識や価値観を意図的に崩したりくすぐったりすることで笑いは生まれる。「いじり」が「いじめ」に転化してしまうのは、前提となる「共有する部分」が存在しないまま突っ走ってしまうからである。笑いを作るための立脚点を用意しないまま「いじり」に突入するから、だから意図とは違って「いじめ」になってしまうのだ。
芸人同士の「いじり」でも醜悪にしか見えないケースは多々あるし、まして芸人が一般人を「いじり」の対象としたケースではほぼ100%「いじめ」と化しているのが実態である。百歩譲って「いじめ」でないとしても「晒し者」にしているのは間違いない。これを「笑い」としてテレビ局は放送するので、価値観も常識もきちんと作り上げられていない若年層などは「これが笑いである」と受け止める。多くの場合、若年層はそれを自分の友人層一般に仕掛けてしまう。仕掛けた側はそれが「いじり」であり笑いの場を作っているつもりになっているのだが、実際はそれは「虐め」となっているのである。これは学校に於ける「いじめ問題」の主要な発生要因の一つと言えよう。
中途半端な芸人達と愚かなテレビ局が作り上げた「いじり」はこうして社会に「いじめ」の手段・風潮として拡散されてしまったのであり、「いじり」は限りなく「いじめ」に近いものとして一般に受け止められるようになったのである。こうした実態は全ての芸人達とテレビ局によってもたらされたのである。
(*1)
芸人が一般人を「無知な人」として笑いものにする場面も見られるが、実はその芸人の方が無知で、自分の無知に気が付かないまま一般人を見下して笑っているようなケースもある。厚顔無恥ここに極まれり、である。また、思い上がった芸人が一般人に対して思いっ切りバカにした笑いを浴びせるケースも時折見られる。自分たちが一般人からの人気と支持があってはじめて存在し得ている現実を忘れている愚か者である。そのような種類の芸人は当然のように他人を見下す一方で自分が見下されると異常に怒り出したりする幼稚な精神の持ち主であることが多い。己の姿が全く見えていない愚鈍で醜悪な連中なのである。
お笑い芸人がしばしば使う用語として「いじり」がある。一般人も通ぶって使うことが多くなった単語の一つである。
「いじり」はしばしば「いじめ」に等しい状況を作り出す。芸人同士のいじりでは時に悲惨なほど虐待を受ける人物も出るほどで、面白いどころか嫌悪感と不愉快さしか感じられない場合も少なくない。本来はお金を出してくれる客層である一般人を「いじり」と称して貶めて笑いを取る下品で無礼な芸人も少なくないし、今ではそれが当たり前の風潮にすらなってきている。
昭和の昔の芸人は客層である一般の人を貶すことは決してしなかった。貶める対象は自分たち仲間内だけである。自分や仲間を嗤う事でお客さんに笑ってもらっていたのだ。さらに笑いには常にある種の品が保たれていた。しかしテレビ番組の「ひょうきん族」あたりからそうした空気が徐々に変わり始めて、それまで保たれていた品が崩れ始めた。いきおい下品かつ幼稚な方向に向かっていったのであり、それまで存在した暗黙の規範がなし崩し的に消えていった。人間は本来下品な事が好きである。インモラルな言動や行為は人間心理の「影」の部分が賦活されることで禁断の愉悦が味わえるのである。モラルという最低限守るべき規範を一度外してしまうと、後はどこまでも下がり続けることになる。こうした潮流の中で「いじり」も「いじめ」に近似するほど近づいていったのだ。
そして、芸人同士の「いじり」が過激化し苛烈化していった、という経緯があり、その流れの中で客層である一般人をも「いじり」の対象にし始めたのである。テレビ番組の中で、時には一般人を見下し馬鹿にして笑いものにする事も珍しくなくなった。これは一般人を馬鹿にする芸人の立場では「面白いこと」なのかもしれないが、何の準備も覚悟も無い一般人がいきなりそのような扱いを受けるというのはまったく面白くもないばかりか、客観的にみた場合、「虐め」にしか見えない事も少なくない。そもそも芸人達は上から目線で一般人に相対するのである。「いじり」と称して一般人をいじめる様子を見てそれが面白いと思うなら、それは正に「いじめ加害者」の心理と完全に同一である事を知るべきであろう。それを率先して遂行しているのが今どきの芸人でありテレビ番組なのだ。(*1)
芸人の人としての質の劣化も問題だが、この風潮を煽るテレビ番組の存在も看過できない問題である。
では、どこまでが「いじり」でどこからが「いじめ」になるのか。別の言い方をすると「両者の境界線は何処にあるのか」ということになる。
境界線とは、言い方を替えれば「いじり」が成立して幸せな爆笑になる為の必要条件・・・そのラインである。その条件を満たす事が前提になるのだ。
では、必要条件とは何か?
「いじり」を仕掛ける側と受ける側に「共通認識」或いは「共通の価値観」が存在し、概念の共有ができていること、である。
そこで発生する「笑い」のネタについての共通の認識と価値観であり、「いじる側」と「いじられる側」がそのネタに対する認識と価値観が同一、つまり共有できている場合にだけ笑いが生まれるのである。ここが両者間でズレていたり、極端な場合にはパラダイムのギャップがあったりすると、その「いじり」は「笑いとして成立しない」のであり、それだけでなく逆に「いじめ」として成立してしまう事になるのだ。
「いじり」を仕掛けた結果、「いじる側」だけが喜んでいるケースは全てこれである。「お笑い」として成立していないにも関わらず、それを「笑い」としてテレビ番組で映される事になり、結果として視聴者は「いじめ」を見せられる事となって不愉快さと憤りしか得るものがない…という事になる。
「笑い」というのは本来は非常にインテリジェントなものなのだ。知的レベルの高い人々が物事に対する認識、概念や価値観を共有している時に、その認識や価値観を意図的に崩したりくすぐったりすることで笑いは生まれる。「いじり」が「いじめ」に転化してしまうのは、前提となる「共有する部分」が存在しないまま突っ走ってしまうからである。笑いを作るための立脚点を用意しないまま「いじり」に突入するから、だから意図とは違って「いじめ」になってしまうのだ。
芸人同士の「いじり」でも醜悪にしか見えないケースは多々あるし、まして芸人が一般人を「いじり」の対象としたケースではほぼ100%「いじめ」と化しているのが実態である。百歩譲って「いじめ」でないとしても「晒し者」にしているのは間違いない。これを「笑い」としてテレビ局は放送するので、価値観も常識もきちんと作り上げられていない若年層などは「これが笑いである」と受け止める。多くの場合、若年層はそれを自分の友人層一般に仕掛けてしまう。仕掛けた側はそれが「いじり」であり笑いの場を作っているつもりになっているのだが、実際はそれは「虐め」となっているのである。これは学校に於ける「いじめ問題」の主要な発生要因の一つと言えよう。
中途半端な芸人達と愚かなテレビ局が作り上げた「いじり」はこうして社会に「いじめ」の手段・風潮として拡散されてしまったのであり、「いじり」は限りなく「いじめ」に近いものとして一般に受け止められるようになったのである。こうした実態は全ての芸人達とテレビ局によってもたらされたのである。
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(*1)
芸人が一般人を「無知な人」として笑いものにする場面も見られるが、実はその芸人の方が無知で、自分の無知に気が付かないまま一般人を見下して笑っているようなケースもある。厚顔無恥ここに極まれり、である。また、思い上がった芸人が一般人に対して思いっ切りバカにした笑いを浴びせるケースも時折見られる。自分たちが一般人からの人気と支持があってはじめて存在し得ている現実を忘れている愚か者である。そのような種類の芸人は当然のように他人を見下す一方で自分が見下されると異常に怒り出したりする幼稚な精神の持ち主であることが多い。己の姿が全く見えていない愚鈍で醜悪な連中なのである。