Altered Notes

Something New.

ひろゆき氏 の「円安」理解の浅さ

2024-06-25 17:35:53 | 人物

ひろゆき氏がXで数量政策学者(嘉悦大学教授)の高橋洋一氏に絡んでいたが、経済に対する知識レベルの違いを改めて認識するところだ。「アマチュアがプロ中のプロに喧嘩をふっかけた」という図式であり、滑稽で、しかも面倒くさい事例である。面倒くさい理由は、ひろゆき氏 は本気で経済を知りたい(学びたい)訳ではなく、自分が悶着を起こして世間をかき回して話題を作りたい、とか、またはゲーム感覚で他人に議論をふっかけて面白がる・・・そして彼お得意の「論破」「俺の勝ち」という状況に愉悦を感じる・・・という、それだけの目的でやっていたりするからだ。何かを本気で理解しようとしている訳ではない。論争・論破というゲームを面白がって(面白半分)やっており、そして、自分が不利になると論点をずらして逃げる、といういつものあれである。こんな人物にまともに物事を教える事のナンセンス。(相手にするのが)面倒くさいったりゃありゃしない、ということだ。

そもそも ひろゆき氏 は「自分が何か疑問に思ったら、何でも答えて教えてもらえるのが当然」と思い込んでいるのが図々しく厚かましい。プロに対して非常識で無礼である。質問するならそれ相応の礼儀は必要だろう。だが、IYI(Intellectual Yet Idiot / インテリバカ)な彼にはそんな意識は微塵もないのであろう。相手は経済のプロ中のプロだ。桁違いに格上のプロに知識不足の素人がまさに素人レベルの疑問をふっかけて、しかも相手(プロ)を見下し貶める、という最も醜悪で不躾で滑稽な内容を発信したのである。

この手の一方的ないいがかりや喧嘩はマスコミ(左派系情報操作機関)の大好物である。そもそもマスコミは ひろゆき氏 のような面白半分な人間が大好きである。また、マスコミが取り上げたら何らかの対応をしないとメディアによって勝手に悪い印象操作をされてしまう、というさらに面倒な展開(被害)が待っている。実際、マスメディアも取り上げたので、最初は相手にしていなかった高橋氏も対応せざるを得なかったのだろう。YouTubeの番組(下記参照)で ひろゆき氏 の疑問にきちんと答えている。また、ひろゆき氏 の初歩的間違いも指摘している。本当にお疲れ様なことである。

ひろゆき氏の批判に高橋洋一氏が答える!円安は日本経済に「悪影響」ではない!?

ひろゆきも知らない近隣窮乏化を解説


大阪の番組「正義のミカタ」で高橋教授は「円安が日本に良い」という事の説明をきちんとしている。ひろゆき氏 が求めていた「数式」もそこで示されているのだ。(*1) その出典元も示している。そして、その数式から導かれた「数字」を根拠として「近隣窮乏化」などの概念で説明しているのだ。(*2) 普通に経済の基本的なところ(高校で習うレベル)を知っていればその説明で判る筈なのである。実際、森永卓郎氏、井川意高氏などの教養ある人は「円安」が「日本全体」と「個人・会社」レベルで受け止め方が異なる事をちゃんと理解しているし、「日本全体」にとっては大きなメリットのある状態であることをちゃんと認識しているのだ。(*3)

ひろゆき氏 のような一般人はこの「日本全体」と「個人・会社レベル」の話を混同してしまうので、それで頭が混乱してしまうのである。

円安で「個人」レベルで困っているという人は確かに居る。だから、日本としては政府が「外為特会(外国為替資金特別会計)」その他の含み益を日本国民全員に配布(一人当たり30万円以上可能)すれば「円安だから嫌だ」という人などいなくなる・・・にも関わらず、日本政府はそれをやらない。バックに財務省が居るので、財務省がそれをやらせないのだろう。岸田政権が「財務省のいいなり内閣」であることの証左とも言えよう。だから、ひろゆき氏 が本来批判すべき相手、責めを負うべきは日本政府であり岸田政権なのである。ひろゆき氏 が批判するべき対象は円安で出た含み益を国民に還元しない日本政府なのだ。なお、この件を当ブログでは以前に記事にしている。下記の記事を参照されたい。↓

円安のメリットを享受できる方法があるのにやらない政府・財務省




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(*1)
ひろゆき氏 はそれに気が付かなかったのか、理解できなかったかのどちらかで、数式は出ていたのにも関わらず「数式も出さずに」と高橋氏を貶めていたのである。ここに ひろゆき氏 の間抜けで、どんくさい正体が垣間見えてしまうのである。実にみっともない。

(*2)
高橋教授によれば、その数式(方程式)の本体は個数にして500個くらいある、ということだ。ひろゆき氏 があくまで「数式を」と言うなら、高橋氏が提示した The OECD's Global Model をまずはチェックしてみたらいかがであろうか。英語で書かれているが、優秀な ひろゆき氏 なら問題ないだろう。まずはそれを読んで「個人の感想」を言ってみたらどうだろうか。但し、数式事態は難しく、経済の専門家の優秀な人間でないと理解や説明は難しいであろう。繰り返すが、高橋氏は数式をきちんと提示しているし、数字やファクトでしか語らないのが高橋氏である。そこに気づかなかった ひろゆき氏 はまず高橋氏に自身の不明を詫びて謝罪するのが妥当であろう。

(*3)
実際、「円安の時にGDPは上がる」のであり、今回もそうだ。一般に「通貨安の時に、その国のGDPは上がり、他国のGDPは下がる(近隣窮乏化)」のである。国際的な常識である。



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★参考記事
円安 マスコミの悪意ある印象操作






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宮崎駿監督のアニメ観

2024-05-07 22:37:07 | 人物

宮崎駿監督が考えるアニメ映画のあり方についてごく簡単に示す。

宮崎氏とって「アニメーション映画」はすなわち「漫画映画」なのである。ターゲットは未就学児童を含む幼い子どもたちだ。

そして、宮崎氏にとってその子どもたちが「アニメ映画」を映画館で鑑賞する回数は年に1~2回だけであることが理想であるとし、子供が帰宅してから「あれは何だったんだろう?」と思いを巡らしながら記憶と想像の世界で作品を反芻し、イマジネーションを膨らませる・・・そのような形態が理想なのだ、と考えているようである。

確かに子供たちの想像性や創造性を育むにはそういった環境は良いのだろう。筆者の小さい頃も概ねそういった環境だった。

だがしかし・・・。

これは宮崎駿氏が子供だった時代の環境下・状況下での話であって現代のそれとは根本的に違う。「自分の子供時代のスタイルが正しい」「自分がそうだったから、今も同じであれ」というのは「時代錯誤の押し付け」と言えよう。自分が体験してきたスタイルが唯一の正義であり、それ以外のあり様は認められない(想像できない)・・・人間というものは、ついついそのように考えてしまうものであり、それは判らなくはない。だが、この話は彼の幼少時代の環境(社会状況)に於いては”そうだった”、ということでしかない。外での娯楽は映画、家の中での娯楽はテレビがメインであった時代のあり方はそうだった・・ということでしかない話なのだ。

言うまでもなく社会は進化し続けており、社会状況も変化が著しい。アニメ作品は既に子供だけでなく大人の鑑賞に耐えうる芸術の一分野になり得ている。宮崎氏が考える「アニメ映画」を鑑賞する理想形態が先に述べたようなものであったとしても、今の時代にそれを押し付けるのはどだい無理というものである。しかもアニメーション・漫画映画は世代や国境・人種も越えて普遍性を持ちつつある。


宮崎氏は子供から『「トトロ」を数十回見た』などと言われたりするのが非常に嫌なのだそうである。「アニメなんて年に一回だけ見れば良いんだ」と。冒頭に記した「子どもたちがアニメ映画に触れる理想形態」から考えれば、確かにそうなのかもしれない。(*1) だが、今は宮崎氏が子供だった時代とは何もかもが違うのだ。今は今の時代に即した作品への向かい方や鑑賞方法、そしてその作品のエッセンスを自分の中に取り込む方法というものがある。それは恐らく時代の中で自然に生じてくるものなのだろう。DVDやブルーレイディスクといったメディアは宮崎氏の幼かった時代には存在しなかったものだ。各種のデジタル機器やインターネットという通信環境も含めてそうだ。それらが当たり前のように存在している現代で宮崎氏の少年時代と同じスタイルを求めてもそれは無理である。無意識が好む作品、好きなものは何度でも見たいし体験したいのである。それは人間として当然の欲求であり行動だ。

宮崎氏が考える理想的な形態をもう一度社会に根付かせる事は不可能である。それでも宮崎氏はその時代への憧憬を捨てられず、「こうあってほしい」という願いを持ち続けている。これは半分推測だが、もし可能であるなら多少無理にでもそうした社会にしたい願望を宮崎氏の言葉の中に感じたり読み取ることもできなくはない。事実、宮崎氏が発した他の言葉からもそうした現代のスタイルについての反発・批判・否定、といった感情は伝わってきているのである。しかし、無理に宮崎氏の幼少時代のスタイルを押し付けるなら、そのやり方はまさに共産主義独裁国家のやり方であり、それこそ独裁国家というのは国民生活のあれやこれやにいちいち口を出し、箸の上げ下げですら「あーせい、こーせい」と共産党に指導されるのだ。つまり共産党トップが指示する通り(共産党トップの好みの通り)に生きなければいけない…そういう世界である。

なぜこんな推察をするかといえば、宮崎氏は東映動画に入社した若いころから共産主義思想を信奉しており、バリバリの共産主義者だ。それ以降、共産主義社会を理想とし続けている、という事実がある。共産党の政党機関紙である「赤旗」にも漫画を連載していたほどだ。ちなみに初期の傑作である「太陽の王子ホルスの大冒険」は宮崎氏や高畑氏が理想とする共産主義社会の具現化でありプロパガンダでもある。だが、今や「世界のMIYAZAKI」であり、資本主義の恩恵を数多受けてきていることから、彼の中では迷いもあるようだ。

しかし、だ。

ドキュメンタリー等の中で宮崎駿氏が語る言葉の端々から、そんな共産主義社会への憧憬を捨てきれていないように感じるのは筆者だけではないだろう。事実、インタビューなどでもそうした趣旨の発言はしている。左派系の人間が局内に多いNHKが好んで宮崎駿監督のドキュメンタリーを作りたがるのもこうした思想的な共感が背景にあるからではないか、と筆者は考えている。そうでなければNHKのディレクターが宮崎氏に個人的に取り入ろうとあそこまで必死にはならないだろうからだ。宮崎氏が左翼側に傾いている限りは(左翼姿勢の濃い)NHKは宮崎氏に擦り寄る姿勢を変えないだろう。



今回の記事は宮崎氏の作る映画の内容や価値には一切触れていない。筆者は宮崎作品が大好きだ。「未来少年コナン」で見せた人間社会への洞察と優れたSF性、「カリオストロの城」などで見せたあの圧倒的なエンターテインメント性(*2)は見る者に「日本にもこんな凄い映像作家が居たのだ」という強烈な衝撃を与えるのに十分なものであったし、やがて世界は嫌でもその存在を認めざるを得なくなったほどである。

だが、NHKのドキュメンタリーの中で宮崎氏は「俺は今の時代に合わせて生きる気はないから」と明言している。昔、若い頃の宮崎氏は「自分が作るものが時代の価値観とずれてきたら、その時が”創る事をやめる時”だ」とも発言している。最新作はアカデミー賞を受賞しているが、国内では賛否両論あって、皆が両手を上げて歓迎している状況でもないのが実情である。もちろん質の高い作品であることは間違いないのだが。今の宮崎作品は若い頃のそれとは相当質が変わってきている。それは黒澤明監督の晩年の作品が若い頃のそれに比較して変質してしまった事とある意味で相似性があるようにも捉えられる。加齢による(円熟を含む)必然的な変化というものが人間にはあるのだろう。昔の宮崎氏は黒澤氏の変質を批判的に捉えて否定的な発言をしていたのである。ところが、今の宮崎氏は当時自分が批判していた黒澤氏のポジションに立たされているような気がしてならない。宮崎氏はそれを自覚しているだろうか。

そうは言ってもクリエイターというのは「(作品を)創り続ける事で生きている人々」だ。それは無意識的にそうなっているので、意識的なロジックでその生き方を変えられるものではない。それが人間というものである。加えて言うなら、凡人との差がここにある、ということか。今の宮崎氏に対しては毀誉褒貶入り乱れて様々な意見もあるだろうが、この偉大で稀有な才能がどこまで突き進んでいくのか、我々は見届けたいとも考えているのだ。



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(*1)
ビジネスとしてのアニメ制作者という立場から見れば矛盾するような見解ではあるが、その矛盾を矛盾として抱えつつも「そう考えている」そうである。

(*2)
1980年代だったと思うが、あのスティーブン・スピルバーグ監督が「なぜ自分はカーチェイスシーンを撮らないのか」という質問に対して、「”カリオストロの城”のカーチェイスシーンを越えるものは撮れないから」と述べたそうである。




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成田悠輔氏への根本的な疑問

2024-03-19 16:45:00 | 人物

一応経済学者と名乗っている人物だ。 アメリカのイェール大学アシスタント・プロフェッサーであるらしいが、はっきり言ってアメリカの、そして国際的な論壇では無名(*1)な人物である。その理由はいくつかあるが、基本的にこの人物は学者であるよりも「日本のテレビタレントでありたい」という希望を持っているように見えるからである。

そもそも、あの おでん眼鏡 というのか、右目用と左目用で真四角と円形の異なるフレームを使ったあの眼鏡が相手に対して「馬鹿にしている」「ふざけている」ように見えて不愉快である。これは第一印象からそうだ。例えば、シリアスなシーンにおいて話し相手の人物があんな眼鏡をかけて自分の前に登場してきたら「人としての誠実さに欠ける人物」という印象を持たざるを得ないだろう。本人は「これが格好良い。判らない奴は遅れてる」くらいに思ってるのだろうが、何しろファーストインプレッションの時点から、この成田氏の人としての印象は職掌以前に「人として」、の次元で最低である。少し前まではひろゆき(西村博之)氏と一緒の映像チャンネルを持っていたくらいだから、初めから学者として社会に貢献するのではなく、テレビタレントもどきとして顔と名前を売りたいタイプの人なのだろう、と受け止めていた。西村博之氏も政治や社会の真実を明らかにする、というよりは「相手を論破すること」「論争に勝つこと」が第一義になっているような人物だからである。

そう考えていたら、その考えをより明確に言語化してくれる人が出てきた。元放送作家の長谷川良品氏である。長谷川氏が成田悠輔氏について語る動画↓をご覧いただきたい。

成田悠輔氏のCMをキリンが中止【お笑いごっこの弊害】成田さん炎上が続く理由


長谷川氏の意見には全面的に同意できる。芸人もどきを目指す成田氏の発言には筆者は真の知性を感じない。そこを長谷川氏は見事に説明している。


その他に記しておきたい事を次に記す。

少子高齢化問題において「高齢者は集団自決・集団切腹せよ」という趣旨の発言は、あのニューヨーク・タイムズも含めて世間に衝撃を与えたようだ。後から本人は「メタファーである」旨の言い訳をしていたようだが、最初の発言時には「大真面目に言っている」として「字義通りの意味である」という趣旨の説明も添えられているのだ。それを後から「いや、メタファーです」は通用しない。都合が悪くなるとすぐに事実をすり替えようとするタイプのずるい人間であることを感じさせ、およそ論外と言えよう。たとえそれがメタファーであったとしても、成田氏自身がその「自決させられる年齢になった時の想像」もできない時点でアタオカというか、阿呆としか言いようがない。「自分は特別」という選民意識でも持っているのだろうか。テレビタレントとして認知してもらう為のフックとしての発言だったのかもしれないが、百歩譲ってメタファーだったとしても、それは「この手のメタファーが普通に受容され理解される社会であること」が前提になる。しかし現実はそうではない。逆に世代間の分断が生じる事となる。結局、成田氏は故意に過激な言葉を繰り出す自分に陶酔しているだけ、であるような存在となっている。実に醜悪な姿を晒すみっともない人物であり、おでん眼鏡 がその印象をさらに悪くする。それがくすぶり続けて、今回のようなキリンCMの中止といった事態にも繋がってくるのは、この人物の「程度」を表しているとも取れるし、それ以前に人として恥ずかしい事と言えよう。少なくとも「スマートではない」のは確かである。学者であるか否か以前の問題であり、人としての器に何か根本的な問題を抱えているのではないか、とさえ思わせるものがあるのだ。

それでも日本国内のテレビ屋がキャスティングしてくれるのは、左翼であるテレビ屋にとって都合の良いタレントもどきであり、内容はともかく、ちょっと知性を感じさせる発言ができるので、成田氏に発言させることで番組に権威付けができ、ステータスが保たれる、といった安易で愚鈍な発想からであろう。しかも芸人のような笑いも取れる(こともある)ので、その意味でも重宝する存在なのだろう。最終的な評価として、成田氏を学者という存在としては全然見られないのは確かである。学者の衣を纏ったテレビタレントもどきの一人でしかない…ということだ。器の小さい人物だ。こんな人物が持て囃されるのが日本のテレビの程度なのである。テレビが斜陽産業と化しているのもよく分かる、というものである。(蔑笑)





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(*1)
つまり国際的な学術界では相手にされていないどころか、その存在を認識されてもいない。(知られていない)そういう人物である。日本のテレビ屋がキャスティングしたところで、そんなものは何の意味も価値もない。




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<2024年5月28日:追記>
下記記事を参照されたい。↓
『舘ひろし、成田悠輔氏の悪癖に“ガチ説教”「それはよくない。直そうとは思わないですか?」』

平気で遅刻をする人間は当然のように人を見下す上に自分自身の「思い上がり」を意識化できていない人間であり、仏教で言うところの「増上慢」に相当するだろう。自分も将来は高齢者になる、という想像力すら無いのだろう。有り体に言えば低次元な人物である。このような人間が「高齢者早く死ね」と平然と言うのだ。成田氏という人間がいかに「考えなし」の幼い発想・思考しか持ち合わせていないかがこれだけでもよく判る。まさに学者ではなくテレビタレントでしかない実態を自ら暴露しているようなものだろう。そして、クズ揃いのマスゴミはこんな人間(しかも「学者様」という箔が付いているので)をありがたがって出演させるのだ。(蔑笑)






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一ノ瀬美空 と 吾妻ひでお の相似性についての覚書

2024-02-07 15:43:15 | 人物

乃木坂46・5期生に一ノ瀬美空という「特異な」キャラクターが居る。わざわざ「特異」という言葉を使う意味を説明する。ビジュアルは美少女である。紛れもない美少女。ある種、完成された美少女だ。しかも福岡産である。(笑)


この子を初めて見た時に惹きつけられたポイントは目である。笑った時の目の形が「円弧」になるのだ。三日月を横倒しにしたような形だ。この形が漫画家・吾妻ひでおが描いた美少女がナンセンスギャグのシーンで見せる笑顔の時の「目」にそっくり同じなのだ。筆者はこれを見て内心ひっくり返った。

 



乃木坂の5期生が加入したての頃、運動能力テストという企画が冠番組で実施された。その時に、5期生メンバーは皆、名前が書かれたビブスを着用していたのだが、一ノ瀬美空は前後ろを逆に着用してしまったのだった。メンバーの井上和に「ビブスが逆だよ」と指摘された時のバツの悪さと恥ずかしさを湛えた笑顔。その時の目の形がまさに円弧型だったのであり、それは同時に吾妻ひでおが描く美少女キャラクターが同じようなシチュエーションで見せる笑顔と同じだった…事を思い出させるものでもあった。それ以後、一ノ瀬美空の笑顔、それも満面の笑みになるほど吾妻ひでおキャラに似てくる(ほとんど寄せている、と言えるほど)印象を否定出来なかった。



一ノ瀬美空と吾妻ひでおの「特異」に相当する相似性はこれだけではない。

上述したのは外見上の相似性だが、次は内面の相似性だ。

世間では常識から逸脱した発想・思考・行動、しかもそれが人間同士の関係性の中で起きた場合、しばしば「変態」という言葉をあてがうケースがある。吾妻ひでおの漫画作品はナンセンスギャグが多く、その中に美少女を美しく配置し、しばしば「変態」に相当する倒錯の世界を描いて、ある種の人間の内面性をビジュアルとして我々に提示してくれるものであった。「変態」と言っても単にエログロの世界を描くそれではなく、一種のスペキュレイティブ性を兼ね備えた広義のSF作品と呼べる世界でもある。事実、吾妻ひでおは、自身の体験をSFに昇華させた「不条理日記」で星雲賞やその他の賞を受賞している。



吾妻作品に登場する美少女は単なる性的対象としての存在ではなく、そのSF的ナンセンス空間の進行役であったりヒロインであったり、巻き込まれて大変な目に遭う役回りだったりしてセクシュアリティーの追求とはひと味もふた味も違う存在意義があった。

乃木坂の一ノ瀬美空もまた同様の「特異」な魅力を持つ。基本的には常識を踏まえる社会人としての佇まいを持っているのだが、その一方で、彼女が居るフィールドが「表現」の場になった時、平易に言えば「ぶっとんだ」行動や言動を見せることがあり、それは「飛べない一般人」には到底理解できないものだったりするのである。一般人から見れば「変態」という言葉に収斂してしまうようなものかもしれないが、しかし一ノ瀬の発想は「一般」の領域を遥かに超えており、知らぬ間に「向こう側の世界」にワープしているかのようでもある。ある時は同じメンバーのお尻を触って5期生全員のお尻をコンプリートしたかと思えば、なんとコンサートの本番中に先輩メンバーのお尻をお願いして触らせてもらったかと思えば、卒業を間近に控えた1期生の齋藤飛鳥の脚にしがみついて「安心できます」と言ってみたり、という常人には発想し得ない発想と行動を突如として起こす。さらに、コントやスキット中の役の中で時おり見せる狂気を孕んだ目つきは一ノ瀬美空ならではの「凄み」を感じさせる。また、同期メンバーの小川彩を溺愛しており、小川がドン引きしているにも関わらず纏わりつく様が映像として放送された時に初めて自分の行動の「特異性」に気がついて「あたしってこんなに気持ち悪いんですね」と素直な感想を述べたのには笑えたものである。それらの奇抜な行動や発想は決して一ノ瀬美空が本当に「おかしな人」だからではなく、ちゃんと「常識」も「礼儀」も兼ね備えた立派な社会人としての一面がありつつのそれだから面白いのである。



そうしたある意味で「非常識」な発想や行動が吾妻ひでおが描く美少女キャラクター達の活躍を彷彿とさせるものがあり、それは限りなく(前述の通り)面白いのであり、意味が不明なのに楽しさと不思議な感情を視聴者側にもたらすところが相似性の最たる部分でもあり、それが笑顔の中にある「円弧型の目」で完結するところに、なんだかわからないが拍手したくなるのである。


この『「なんだかわからない」のだが、しかし「面白い」「楽しい」』というのは「SF作品」に対する最高の賛辞の一つであり、ある種の「凄み」を表すものでもある。

一ノ瀬美空の凄さは、自身の中にあるこうした「特異な何か」を包含しつつ、常識的な世界と折り合いをつけつつ(現役大学生でもある)渡り歩いているところにあるのかもしれない。ビジネス(仕事)上で求められるものは何でも器用にそつなくこなせる頭の良さ、勘の良さ…そして、同時に時おり見せる、時にアザトさをも含む特異で奇妙な魅力・・・全て計算され制御されているのだろう。筆者もまだ把握しきれていない、この一ノ瀬美空という「特異」なキャラクターは継続的に見ていきたい、という思いを起こさせるに十分な魅力を持ったアイドルと言えよう。








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無知を恥じない田原総一朗氏

2024-01-16 16:08:16 | 人物
またも老害こと、田原総一朗氏である。

テレ朝の「朝生!元旦SP」に於いて田原氏は「 安倍さんは『アベノミクスは失敗だった』と言った」と公言したが、これは間違っている。事実よりも田原氏ご自身の願望が先に出てしまっているようだ。左派系の人間にはありがちなのだが、事実よりも自分の思想に寄せて物事を捉えようとする傾向が強いのである。

真実は、悪夢の民主党政権時に決まってしまった消費税増税があった為にアベノミクスを2年間で終わらせることができなかったのである。また、安倍氏自身の病気も関係している。しかし、例えば労働人口は見事に増加させている事実を見逃してはならない。その証拠に労働者団体の親玉である連合の会長も安倍氏に感謝の意を伝え、安倍元総理の葬儀にも出席している。他の総理ではなかったことである。

もしも田原総一朗氏が本当に「アベノミクスは失敗」と言い張るのなら、その証拠・根拠をきちんと出す事が必要になる。そうでなければ単なる誹謗中傷でしかない。









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