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Altered Notes

Something New.

経済を基本から分かってない河野太郎デジタル相

2024-07-22 15:51:15 | 人物

トランプ氏の「円安はアメリカにとって悲劇」「ドル高是正を」といった発言を受けて、円相場が1ヶ月ぶりの高値水準となっている。時事通信の報道では、18日の東京外国為替市場の円相場は一時155円台前半に上昇した。

この一方、河野太郎デジタル担当大臣は7月17日にブルームバーグ・テレビジョンに出演して、次のように述べた。急激な円安がもたらす国内物価への影響などの問題を強調して・・・

 

「為替は日本にとって問題だ」

とした上で、

「円は安すぎる。価値を戻す必要がある」

と発言した。

 

↑この発言、本気で言ってるのなら、河野太郎氏は本物のポンコツである。今回はこれについて数量政策学者の高橋洋一氏の解説を基調に記してゆく。

この河野太郎氏の発言は河野氏が経済をぜーんぜん理解していない、分かってない事実を自ら明かしてしまっているのであり、「私は無知です」と告白しているようなものだ。日本政府の大臣職にある人物の経済理解があまりにも低い事を世界中に明かしてしまって実に恥ずかしいのである。

まず、トランプ氏の発言は経済理論から言って至極当然なものである。「自国の通貨安は近隣窮乏化になる」、つまり自国の通貨安は経済的に自国にとっては有利に働くが、他の国にとっては不利になる…そういうものであり、世界的に普遍的な理論である。

現在のアメリカはドル高状態なので、不利な立場に置かれていることになる。「アメリカ・ファースト」なトランプ氏にとってはそれはまずいと言える。経済理論通りの至極真っ当な意見である。

だが、河野太郎デジタル相は全く逆である。日本は近隣窮乏化によって、いわば「一人勝ち」状態、すなわち有利な状態にあるのだ。それを「(円安は)問題だ。円の価値を戻す必要が…」などと言ってしまう河野太郎氏は経済の基礎的な理論すら知らない事がその発言から如実に判る。「円安」が「円の弱さ」だと勘違いしているのだ。この人、経済のど素人である。分析も全然できていないし、経済を全く理解していないのだろう。何か含みをもたせた発言でもないので、単純に経済音痴がバレた、ということだ。まったく、何処に出しても恥ずかしい御仁だ。

ただでさえ、円安で最もその恩恵を受けているのは日本政府である。円安によって生じた為替差益は40兆円にものぼる。これは日本国民の一人一人に30万円配布できる金額である。それをやれば国民も「円安は良いことだ」と判るのだが、財務省・岸田政権はそれをやらない。円安のおおかげでエクセレントカンパニーは大きな利益を享受し、税収は史上最大になって財務省もウハウハ状態だ。

これはマクロ経済学という分野だが、河野太郎デジタル担当大臣は「円安のメリット」「近隣窮乏化」という知識がないこと、「国全体の話を掴んで見る」、という視点がない事がバレてしまったのだ。こんな無能な人物に「一国の宰相は任せられない」と高橋氏は言う。もちろん「自民党総裁の資格も無い」、と断言できるレベルの話だ。

「どこに出しても恥ずかしい人物」、それが河野太郎氏である。

 

 

円安については下記の記事も参照されたい。

 

 

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<参考資料>

円安 マスコミの悪意ある印象操作

 

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<2024年9月13日:追記>

河野太郎氏は自民党総裁選に出馬し、12日の演説会で「財政健全化」の必要性を訴えた。基礎的財政収支・プライマリーバランス(PB)を均衡させるだけではもはや済まない、と述べている。金利上昇を見据えて財政収支をいかに見通していくのか、という議論が無ければ利払いで首が回らなくなる。給付金を出すどころか、必要な社会保障に金をまわすことができなくなる。そんなことになってはいけない、と強調した、ということだ。これは財務省官僚のレクチャーをそのまま意味もわからずに鵜呑みにしているのが丸見えである。やはり河野太郎氏は無知で判ってないのである。金利上昇で云々と河野氏は言うが、金利ということは借金がある、という前提である。しかし、その借金と同じ額の金融資産があるのが日本である。河野氏はここが見えていないし理解できていない。なぜか。財務省官僚に言われるがままレクチャー内容をそのまま言っているだけだから、である。日本が本当に財政がヤバイのならとっくにIMF(国際通貨基金)が赤信号を出す筈だが、IMFは「日本は大丈夫」と昔から太鼓判を押しており、それは今でも同じなのである。・・・

事実、日本のバランスシートを見ると、借金と資産は均衡しているのだ。だが、財務省は「資産」については一言も言わず、借金の部分だけを言うのである。・・・ということは財務省が嘘をついている、ということであり、河野太郎氏はその嘘を真実だと思い込んでいる無知な阿呆ボンだ、ということなのである。平気で嘘をつく財務省も厚顔無恥だが、それをまともに受け取ってしまう河野氏もここまで阿呆だったとは驚きである。

 

<2024年10月2日:追記>

河野太郎氏の写真を見ると、たいていどの写真でも表情に緊張が見られ、口を真一文字に結んでいる事が多い。これは口角周りの筋肉に力みが入っている、ということでもあり、周囲に人が居る場では常に緊張しているのであろうことが容易に想像できる。これはそのまま河野太郎氏という人物は「自分に自信がない」事の無意識的表現になっている、と推察される。自信がないからいつも緊張しているのであり、いかに「自分の意見を押し通すか」にしか関心がないからであろう。「自分に自信がないのに、一方で自分の意見は押し付けたい」・・・だからSNSでも他人のアカウントをブロックしまくるのであろう。政治家のくせに議論できない・・・その上に、他人の意見を聞く耳がないのである。論外だ。河野太郎氏を見ていると独裁国家・専制国家の領袖のような傲慢な姿勢を感じるのは筆者だけではないだろう。

 

 

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蓮舫氏・・・そもそも。

2024-07-18 09:27:09 | 人物

「2位じゃだめなんですか」でおなじみの蓮舫氏は都知事選3位の不満やら鬱憤やらを四方八方にぶちまけ噛み付いているようで、獰猛なカミツキガメのような状態と化している。その一つ一つは既にSNSや報道等で情報が世に出ており、各々批判されているので、ここでは「蓮舫氏についての”そもそも”」な話を記す。

 

筆者は、かつて蓮舫氏の配偶者(夫)だった男性を「ペット以下の存在」としてテレビで平然と紹介していた事実をどうしても忘れる事ができない。そこで映し出された映像は筆者にとってはかなり衝撃的なものであった。夫の存在は蓮舫一家の中で惨めな立場に追いやられており、何なら夫の存在自体が忘れられているかのような雰囲気もあった。言っても配偶者であり人生のパートナーである筈だ。しかし、妻である蓮舫氏は夫を人間扱いしない態度を当たり前の事として振る舞っていた。女尊男卑の究極の姿のような印象だ。元夫の男性は「自分はいじられキャラだったので」と元妻を擁護するのだが、あの時見た映像からはそんなほのぼのとした空気(ユーモアや洒落っ気)は全く感じられず、とても笑える空気ではなかったのである。

この蓮舫氏の夫に対する姿勢は当然夫妻の子供達にも影響し、夫以外の家族全員で夫を(冗談ではなく本気で)下等動物のように扱っている様は気持ち悪く吐き気がするほど気味が悪かった。ここで筆者は蓮舫氏という人はこういう人物なのだ、という認識を持ったのである。要するに、自分が少しでも気に入らなければ対象者をぞんざいに扱い、容赦なく見下して相手にもせず意見も聞かずに排除する・・・まるで中華民族のような冷血さである・・・そして、一事が万事、この調子なのだ。政治家になっても同じ事を蓮舫氏はやり続けてきた。自分の気に入らない人は事象は鬼のような形相で噛みつき、相手のすべてを批判し全否定しにかかる…そういう人物だ。そして蓮舫氏という人物はそれが全てと言っても過言ではない印象を持っている。何しろ、政治家になって以後のこの人は「自分が気に入るかが全て」であり、「批判・否定の罵詈雑言ばかり言い続けてきた」・・・そういう記憶しかないのだ。

そもそも「政治は政策である」。

国民の為を第一に考えて良い政策を立案するのが立法府に属する国会議員の役目である。しかし、蓮舫氏は上述の通り、与党の批判・否定の罵詈雑言、そして揚げ足取り(噛み付き)ばかりで、この人から政策が出てきた記憶がほとんど無い。

さらに、今でも筆者は蓮舫氏の顔を見ると、あの時見たテレビ番組で「弱い夫を虐待する悪妻」という印象が甦ってくるのだ。あの番組に映った蓮舫氏一家は見るに耐えなかった。繰り返すが、一時が万事、この人はこういう人なんだろうな、と思えるに十分な恐ろしさを感じたのである。今の蓮舫氏の目つき顔つきにもそうした内面が滲み出ているように思えるのは筆者だけではあるまい。念のために記しておくが、性別に関係なく、その人の内面は目つきや顔つきに反映されるものだからである。

現在でも都知事選に負けた腹いせにあちらこちらへ噛み付きまくっている蓮舫氏だが、反論されると、例えば主語を「自分」から「女性」という大きなカテゴリーに置き換えて、性差別の問題にすり替えて「蓮舫批判=女性差別」の図式に当てはめて(すり替えて)言論を抑え込もうとする動きは卑怯で醜悪としか言えない。また、他人には謝罪を求めても自分は一切謝罪しない、という専制国家の独裁者のような態度を見ていると、こんな人物が都知事にならなくて本当に本当に良かった、と思うところである。(*1) 全てはあの「配偶者をペット以下の扱いにする」精神的な異常性がベースと考えれば納得がいくものである。

感情に任せてあちこち噛み付くのは迷惑だが、こういう事をしているから皆から嫌われるのである。しかし本人は一向に気が付きそうにない。こうした「嫌われる努力」を惜しまないところに都知事選で3位に沈んだ本質的な原因があるのだろうが、こんな事を言ったところで本人に聞く耳がないのでは意味がない。左翼の人は概ね「聞く耳がない」のだが、まさにその典型を身を呈して示している、という事になろう。

 

最後に…共産党丸抱えの選挙であったが故に、仮に蓮舫氏が都知事になったら首都である東京が共産党に支配されてしまったことだろう。(*2) そうならなくて本当に良かった。

 

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(*1)

蓮舫氏は台湾にルーツがあるが、実は外省人(中国大陸出身)で北京大学に留学していたそうだ。この事実と親中の立憲民主党に在籍していた事実は偶然ではないように思えるが…。

 

(*2)

蓮舫氏を見ていると、かつて共産主義の総本山であったソビエト連邦(ロシア、ベラルーシなど複数の共産主義国で形成された)の傲慢かつ身勝手な姿勢が国際社会に大きな迷惑をかけていた事を思い出す。誰かが「ソビエト蓮舫」というネーミングをしていたが、言いえて妙、である。

 

 

 

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中西アルノの音楽センスに期待

2024-07-01 15:15:00 | 人物

乃木坂46・5期生の1人として活動している中西アルノだが、オーディション時の歌唱審査の時から、御大プロデューサーを含めた審査員達はその歌唱能力のずば抜けた高さに喫驚したようである。その証拠に当時作成中だったシングルの新曲に於いてセンターを任せる判断をしたのは御大プロデューサーであった。つまり音楽を良く知らない御大Pですら、思わず「この子をセンターにする」という決断をさせてしまう…つまり、誰でも(音楽をよく知らない人でも)判るほどの高い歌唱レベルがあったのであり、それほどの実力を持っていた、ということだ。御大をして、加入前から「センターを任せよう」と判断させるのはなかなかのことと言えよう。ちなみに、筆者も中西アルノの歌唱を1小節分聴いただけで、「この子は(音楽的に)凄い」事が判った。

中西アルノは単に技術以上に「どうすればよい音楽になるのか」「音楽をどう作るべきか」を知っているのだ。

一般的に現代のアイドルといえば、歌の旋律の音程さえ正確に取れないほど歌唱が素人レベルである場合が多い。もちろん中西アルノの場合は音程云々は正確であり、そんな事は前提でしかないのだが、中西の場合は技術的な部分はあって当たり前で、しかもその上に豊かな表現力(音楽的な色気)がプラスされていた、オーディションの時から、である。

話を戻そう。そのオーディションの頃に戻すが、その時期は中西自身の加入前のプライベート活動のあれこれが問題視された結果、その新曲でのセンター・ポジションの話はやや有耶無耶な形になってしまったが、その後の音楽活動に於ける圧倒的な音楽的センスは、中西がメイン出演者の1人である音楽番組で、もう一人のレギュラー出演者であるゴスペラーズの黒沢薫が尋常でないレベルで中西の音楽・歌唱能力に惚れ込んでいる事実からも明らかと言えよう。

また、同じグループのメンバーである井上和などが中西のソロ歌唱を聴いて涙を流すケースも多々あり、メンバー間でも中西の飛びぬけた音楽的才能は一目置かれているようだ。他人の歌唱を聴いて涙するというのは、その音楽的表現の中に人間の真実に触れるものがあるからであり、それを否応なく感知させる事は間違いなく稀有な才能と言えよう。こうしたことは単に音楽的な技術・技量だけではできない。言葉で表せない、理屈を超えた音楽センスや音楽する心・魂が備わっていないと不可能なのである。

一般的に「アイドル」という職掌に寄ってくる若い女性達はそれほど音楽の「音楽」たる側面に注目していない。普段のアイドルの会話でも「あの曲を”歌う”」とは言わずに「あの曲を”踊る”」という言い方をするケースが圧倒的に多く、踊りの方に意識は集中しているようだ。さらに言えば、曲の歌詞については語れても音楽面について語れるアイドルはほぼ皆無だ。そもそも音楽の「音楽的側面」に注目していない上に、そもそも「音楽を語る言葉」を持っていない(=知らない)のが実態である。アイドルグループにも、稀に生田絵梨花のような音楽的才能に満ちたメンバーも出現するが、これは極めてレアケースであり、その意味で中西アルノという音楽的センスに優れたメンバーがグループに入ってきた事を寿ぎたい気持ちである。

また、運営会社は中西アルノの音楽的才能を生かした活動を最大級に支援してほしい、と考えている。この才能は生かさなければもったいないし、この才能は伸ばさなければならないし伸ばすべきだ、と強く感じさせるほどの訴求力を持っている。

中西アルノの歌唱・音楽に注目である。




<参考歌唱映像>

「なんでもないや - movie ver.」 中西アルノ

神宮球場の外まで響き渡る中西アルノの声量

DAY2 Actually... 中西アルノ 乃木坂46 真夏の全国ツアー2023

乃木坂46 Actually Live mix

First Love - Nakanishi Aruno

 

 


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ひろゆき氏 の「円安」理解の浅さ

2024-06-25 17:35:53 | 人物

ひろゆき氏がXで数量政策学者(嘉悦大学教授)の高橋洋一氏に絡んでいたが、経済に対する知識レベルの違いを改めて認識するところだ。「アマチュアがプロ中のプロに喧嘩をふっかけた」という図式であり、滑稽で、しかも面倒くさい事例である。面倒くさい理由は、ひろゆき氏 は本気で経済を知りたい(学びたい)訳ではなく、自分が悶着を起こして世間をかき回して話題を作りたい、とか、またはゲーム感覚で他人に議論をふっかけて面白がる・・・そして彼お得意の「論破」「俺の勝ち」という状況に愉悦を感じる・・・という、それだけの目的でやっていたりするからだ。何かを本気で理解しようとしている訳ではない。論争・論破というゲームを面白がって(面白半分)やっており、そして、自分が不利になると論点をずらして逃げる、といういつものあれである。こんな人物にまともに物事を教える事のナンセンス。(相手にするのが)面倒くさいったりゃありゃしない、ということだ。

そもそも ひろゆき氏 は「自分が何か疑問に思ったら、何でも答えて教えてもらえるのが当然」と思い込んでいるのが図々しく厚かましい。プロに対して非常識で無礼である。質問するならそれ相応の礼儀は必要だろう。だが、IYI(Intellectual Yet Idiot / インテリバカ)な彼にはそんな意識は微塵もないのであろう。相手は経済のプロ中のプロだ。桁違いに格上のプロに知識不足の素人がまさに素人レベルの疑問をふっかけて、しかも相手(プロ)を見下し貶める、という最も醜悪で不躾で滑稽な内容を発信したのである。

この手の一方的ないいがかりや喧嘩はマスコミ(左派系情報操作機関)の大好物である。そもそもマスコミは ひろゆき氏 のような面白半分な人間が大好きである。また、マスコミが取り上げたら何らかの対応をしないとメディアによって勝手に悪い印象操作をされてしまう、というさらに面倒な展開(被害)が待っている。実際、マスメディアも取り上げたので、最初は相手にしていなかった高橋氏も対応せざるを得なかったのだろう。YouTubeの番組(下記参照)で ひろゆき氏 の疑問にきちんと答えている。また、ひろゆき氏 の初歩的間違いも指摘している。本当にお疲れ様なことである。

ひろゆき氏の批判に高橋洋一氏が答える!円安は日本経済に「悪影響」ではない!?

ひろゆきも知らない近隣窮乏化を解説


大阪の番組「正義のミカタ」で高橋教授は「円安が日本に良い」という事の説明をきちんとしている。ひろゆき氏 が求めていた「数式」もそこで示されているのだ。(*1) その出典元も示している。そして、その数式から導かれた「数字」を根拠として「近隣窮乏化」などの概念で説明しているのだ。(*2) 普通に経済の基本的なところ(高校で習うレベル)を知っていればその説明で判る筈なのである。実際、森永卓郎氏、井川意高氏などの教養ある人は「円安」が「日本全体」と「個人・会社」レベルで受け止め方が異なる事をちゃんと理解しているし、「日本全体」にとっては大きなメリットのある状態であることをちゃんと認識しているのだ。(*3)

ひろゆき氏 のような一般人はこの「日本全体」と「個人・会社レベル」の話を混同してしまうので、それで頭が混乱してしまうのである。

円安で「個人」レベルで困っているという人は確かに居る。だから、日本としては政府が「外為特会(外国為替資金特別会計)」その他の含み益を日本国民全員に配布(一人当たり30万円以上可能)すれば「円安だから嫌だ」という人などいなくなる・・・にも関わらず、日本政府はそれをやらない。バックに財務省が居るので、財務省がそれをやらせないのだろう。岸田政権が「財務省のいいなり内閣」であることの証左とも言えよう。だから、ひろゆき氏 が本来批判すべき相手、責めを負うべきは日本政府であり岸田政権なのである。ひろゆき氏 が批判するべき対象は円安で出た含み益を国民に還元しない日本政府なのだ。なお、この件を当ブログでは以前に記事にしている。下記の記事を参照されたい。↓

円安のメリットを享受できる方法があるのにやらない政府・財務省




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(*1)
ひろゆき氏 はそれに気が付かなかったのか、理解できなかったかのどちらかで、数式は出ていたのにも関わらず「数式も出さずに」と高橋氏を貶めていたのである。ここに ひろゆき氏 の間抜けで、どんくさい正体が垣間見えてしまうのである。実にみっともない。

(*2)
高橋教授によれば、その数式(方程式)の本体は個数にして500個くらいある、ということだ。ひろゆき氏 があくまで「数式を」と言うなら、高橋氏が提示した The OECD's Global Model をまずはチェックしてみたらいかがであろうか。英語で書かれているが、優秀な ひろゆき氏 なら問題ないだろう。まずはそれを読んで「個人の感想」を言ってみたらどうだろうか。但し、数式事態は難しく、経済の専門家の優秀な人間でないと理解や説明は難しいであろう。繰り返すが、高橋氏は数式をきちんと提示しているし、数字やファクトでしか語らないのが高橋氏である。そこに気づかなかった ひろゆき氏 はまず高橋氏に自身の不明を詫びて謝罪するのが妥当であろう。

(*3)
実際、「円安の時にGDPは上がる」のであり、今回もそうだ。一般に「通貨安の時に、その国のGDPは上がり、他国のGDPは下がる(近隣窮乏化)」のである。国際的な常識である。



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★参考記事
円安 マスコミの悪意ある印象操作






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宮崎駿監督のアニメ観

2024-05-07 22:37:07 | 人物

宮崎駿監督が考えるアニメ映画のあり方についてごく簡単に示す。

宮崎氏とって「アニメーション映画」はすなわち「漫画映画」なのである。ターゲットは未就学児童を含む幼い子どもたちだ。

そして、宮崎氏にとってその子どもたちが「アニメ映画」を映画館で鑑賞する回数は年に1~2回だけであることが理想であるとし、子供が帰宅してから「あれは何だったんだろう?」と思いを巡らしながら記憶と想像の世界で作品を反芻し、イマジネーションを膨らませる・・・そのような形態が理想なのだ、と考えているようである。

確かに子供たちの想像性や創造性を育むにはそういった環境は良いのだろう。筆者の小さい頃も概ねそういった環境だった。

だがしかし・・・。

これは宮崎駿氏が子供だった時代の環境下・状況下での話であって現代のそれとは根本的に違う。「自分の子供時代のスタイルが正しい」「自分がそうだったから、今も同じであれ」というのは「時代錯誤の押し付け」と言えよう。自分が体験してきたスタイルが唯一の正義であり、それ以外のあり様は認められない(想像できない)・・・人間というものは、ついついそのように考えてしまうものであり、それは判らなくはない。だが、この話は彼の幼少時代の環境(社会状況)に於いては”そうだった”、ということでしかない。外での娯楽は映画、家の中での娯楽はテレビがメインであった時代のあり方はそうだった・・ということでしかない話なのだ。

言うまでもなく社会は進化し続けており、社会状況も変化が著しい。アニメ作品は既に子供だけでなく大人の鑑賞に耐えうる芸術の一分野になり得ている。宮崎氏が考える「アニメ映画」を鑑賞する理想形態が先に述べたようなものであったとしても、今の時代にそれを押し付けるのはどだい無理というものである。しかもアニメーション・漫画映画は世代や国境・人種も越えて普遍性を持ちつつある。


宮崎氏は子供から『「トトロ」を数十回見た』などと言われたりするのが非常に嫌なのだそうである。「アニメなんて年に一回だけ見れば良いんだ」と。冒頭に記した「子どもたちがアニメ映画に触れる理想形態」から考えれば、確かにそうなのかもしれない。(*1) だが、今は宮崎氏が子供だった時代とは何もかもが違うのだ。今は今の時代に即した作品への向かい方や鑑賞方法、そしてその作品のエッセンスを自分の中に取り込む方法というものがある。それは恐らく時代の中で自然に生じてくるものなのだろう。DVDやブルーレイディスクといったメディアは宮崎氏の幼かった時代には存在しなかったものだ。各種のデジタル機器やインターネットという通信環境も含めてそうだ。それらが当たり前のように存在している現代で宮崎氏の少年時代と同じスタイルを求めてもそれは無理である。無意識が好む作品、好きなものは何度でも見たいし体験したいのである。それは人間として当然の欲求であり行動だ。

宮崎氏が考える理想的な形態をもう一度社会に根付かせる事は不可能である。それでも宮崎氏はその時代への憧憬を捨てられず、「こうあってほしい」という願いを持ち続けている。これは半分推測だが、もし可能であるなら多少無理にでもそうした社会にしたい願望を宮崎氏の言葉の中に感じたり読み取ることもできなくはない。そもそもある時期から宮崎氏の作品は社会や人間に対して「訓を垂れる」匂いが強くなっている。「ルパン三世 カリオストロの城」のような「訓たれ」とは無縁なエンターテインメントに徹した作品なら良いが、その後の作品は宮崎氏の上から目線の「訓を垂れる」姿勢があからさまに見えるのであり、これが観る者を分断してしまうようになった気がしてならない。

宮崎氏の「こうあってほしい」という願望は、宮崎氏が発した他の言葉からも現代のスタイルについての反発・批判・否定、といった感情となって滲み出てきているのである。しかし、無理に宮崎氏の幼少時代のスタイルを押し付けるなら、そのやり方はまさに共産主義独裁国家のやり方であり、それこそ独裁国家というのは「訓を垂れる」どころか国民生活のあれやこれやにいちいち口を出し、箸の上げ下げですら「こうしろ」と共産党に指導される…というくらい息苦しい世界なのである。つまり共産党トップが指示する通り(共産党トップの好みの通り)に生きなければいけない…そういう世界である。

なぜこんな推察をするかといえば、宮崎氏は東映動画に入社した若いころから共産主義思想を信奉しており、バリバリの共産主義者だからだ。それ以降、共産主義社会を理想とし続けている、という事実がある。共産党の政党機関紙である「赤旗」にも 秋津五郎 のペンネームで漫画を連載していたほどだ。ちなみに東映動画初期の傑作である「太陽の王子ホルスの大冒険」は宮崎氏や高畑氏が理想とする共産主義社会の具現化でありプロパガンダでもある。だが、今や「世界のMIYAZAKI」であり、資本主義世界の恩恵を数多受けてきていることから、彼の中では迷いもあるようだ。

しかし、だ。

ドキュメンタリー等の中で宮崎駿氏が語る言葉の端々から、そんな共産主義社会への憧憬を捨てきれていないように感じるのは筆者だけではないだろう。事実、インタビューなどでもそうした趣旨の発言はしている。左派系の人間が局内に多いNHKが好んで宮崎駿監督のドキュメンタリーを作りたがるのもこうした思想的な共感が背景にあるからではないか、と筆者は考えている。そうでなければNHKのディレクターが宮崎氏に個人的に取り入ろうとあそこまで必死にはならないだろうからだ。宮崎氏が左翼側に傾いている限りは(左翼姿勢の濃い)NHKは宮崎氏に擦り寄る姿勢を変えないだろう。



今回の記事は宮崎氏の作る映画の内容や価値には一切触れていない。筆者は宮崎作品が大好きだ。「未来少年コナン」で見せた人間社会への洞察と優れたSF性、「カリオストロの城」などで見せたあの圧倒的なエンターテインメント性(*2)は見る者に「日本にもこんな凄い映像作家が居たのだ」という強烈な衝撃を与えるのに十分なものであったし、やがて世界は嫌でもその存在を認めざるを得なくなったほどである。

だが、NHKのドキュメンタリーの中で宮崎氏は「俺は今の時代に合わせて生きる気はないから」と明言している。昔、若い頃の宮崎氏は「自分が作るものが時代の価値観とずれてきたら、その時が”創る事をやめる時”だ」とも発言している。最新作はアカデミー賞を受賞しているが、国内では賛否両論あって、皆が両手を上げて歓迎している状況でもないのが実情である。もちろん質の高い作品であることは間違いないのだが。今の宮崎作品は若い頃のそれとは相当質が変わってきている。それは黒澤明監督の晩年の作品が若い頃のそれに比較して変質してしまった事とある意味で相似性があるようにも捉えられる。加齢による(円熟を含む)必然的な変化というものが人間にはあるのだろう。昔の宮崎氏は黒澤氏の変質を批判的に捉えて否定的な発言をしていたのである。ところが、今の宮崎氏は当時自分が批判していた黒澤氏のポジションに立っているような気がしてならない。宮崎氏はそれを自覚しているだろうか。

そうは言ってもクリエイターというのは「(作品を)創り続ける事で生きている人々」だ。それは無意識的にそうなっているので、意識的なロジックでその生き方を変えられるものではない。それが人間というものである。加えて言うなら、凡人との差がここにある、ということか。今の宮崎氏に対しては毀誉褒貶入り乱れて様々な意見もあるだろうが、この偉大で稀有な才能がどこまで突き進んでいくのか、我々は見届けたいとも考えているのだ。



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(*1)
ビジネスとしてのアニメ制作者という立場から見れば矛盾するような見解ではあるが、その矛盾を矛盾として抱えつつも「そう考えている」そうである。

(*2)
1980年代だったと思うが、あのスティーブン・スピルバーグ監督が「なぜ自分はカーチェイスシーンを撮らないのか」という質問に対して、「”カリオストロの城”のカーチェイスシーンを越えるものは撮れないから」と述べたそうである。




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