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京都で定年後生活

2013年3月60歳で定年退職。

美術館と庭園めぐり、京都の四季の行事と花を綴ります。

織田信長の京の宿舎 二条新造御所

2020-12-17 06:08:21 | 京都歴史散策


 久しぶりに織田信長歴史散策(第4回)です。
旧本能寺跡、南蛮寺跡、旧二条城跡に続き、今回は二条新造御所です。
現在NHK大河ドラマ『麒麟がくる』が放送中ですが、織田信長が1577年から1579年の間、京の宿舎としていたのが二条新造御所です。
1571年比叡山延暦寺を焼き討ち、1573年足利義昭を京より追放、1575年長篠の戦いで武田軍に圧勝、1576年天王寺砦の戦いで本願寺勢を撃破、1577年紀州攻めで雑賀衆を討伐して、二条新造御所に入ります。2年後の1579年には本能寺に京の宿舎を移します。そしてその3年後に本能寺の変です。


 二条新造御所 

 元は摂政や関白をつとめた公家の二条家の邸宅で、押小路通と烏丸通交差点の南西側にありました。
その庭園は名園として知られ、『洛中洛外図屏風』にも池を眺める貴族の姿が描かれています。
 二条家が別の邸宅に移った後、信長は天正5年(1577)から京都で滞在するときの宿舎として利用しました。
二条新造御所はその後の天正7年(1579)、正親町天皇の皇太子であった誠仁親王に献上したため、織田信長が入京の際は、本能寺を宿舎としたのです。
 天正10(1582)年6月2日早朝、明智光秀は本能寺を襲撃する本能寺の変で、信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てました。享年49才でした。
 明智光秀の軍勢はその後、嫡男の信忠が宿泊していた妙覚寺へ向かいます。
信忠は一旦妙覚寺を出て本能寺へ向かいますが、すでに手遅れと知り、村井貞勝の提案により防御力の高い二条新御所へ移ります。
信忠は誠仁親王らを二条新御所から出した上でここに籠城し、これを攻囲する明智光秀勢と奮戦するが、信忠を始め貞勝ら60余名が討ち死にし、二条新御所も隣接する妙覚寺と共に灰燼に帰しました。

 織田信長の京都の遺跡はことごとく破壊され、跡地に石碑が立っているだけです。
二条新造御所跡も例外ではなく、烏丸御池の西側に二カ所の石碑が立っています。

 二条新造御所があった場所
東は烏丸通、西は室町通、北は押小路、南は御池通りに囲まれた範囲です。





 烏丸御池を少し北へ行ったところに漫画ミュージアムがあります。
同施設の西は両替通りに面しています。
その両替通りの施設の前に石碑があります。

漫画ミュージアム










 石碑ではないのですが、ミュージアムの南隣りは「二条城交番」です。現役の交番です。










 両替通りです。
京都国際マンガミュージアム、マンガ研究センター、京都市立龍池小学校、龍池自治連合会、龍池教育財団が表示されています。
ここは元龍池小学校の跡地でした。











ちなみに、この付近は江戸時代に金座、銀座があった場所でもあります。










室町通りの民家前にも石碑があります。






 旧本能寺、南蛮寺、旧二条城、二条新造御所の位置関係
それぞれが非常に近いところにあります。
旧本能寺から二条新造御所は直線で700mほどです。
旧本能寺を急襲したあと、数分で二条新造御所に行ける距離です。



参考資料より
一番上にあるのが、旧二条城跡です。足利義昭のために建てた城ですが、後に追い出し、ことごとく破壊してしまいます。




参考資料

213回京都市考古資料館文化財講座 2010年1月30日
『織田信長と京都』財)京都市埋蔵文化財研究所  山本 雅和氏
市民向けに開催されている講座で、私も興味のある回は参加しています。





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