麒麟琳記〜敏腕Pの日々のつぶやき改題

還暦手前の身の回りのこまごま。
スポーツや映画演劇など。

叔父さんが逝った~通夜の章

2014年03月16日 | 身辺雑記
本日通夜参列。
以下は事実に基づいたフィクションです。

※※※

「野川の叔父さん」は、厳密にいうと……
母方の祖母の妹で僕らが「大師のおばさん」
と呼んだ家の、末娘と結婚した人だ。
はたして何と呼ぶべきなのだろう。

僕の母とその末娘は従姉妹になる。
ただもう三十年以上前に離婚したから、
他人といえば他人である。

ところが互いに「連れ合い」であり、
血の繋がりは一切ない僕の父と
「野川の叔父さん」は馬があって、
ずっと往来があった。

ちなみに野川は姓ではない。
結婚当時住んでいた川崎市野川に由来。
離婚を機に住まいはかわったけれど、
その名前で定着していたから
以来ずっとそう呼んでいる。
もちろん本人と会えば、
父は下の名前で母や僕は苗字で呼んだ。

「お義兄さん」と父を慕い、
子供をもうけず別れた頃に
まだ蒙古斑の残る僕の弟を、
我がの子のように可愛がった。
残念ながら、弟本人の記憶には
まるで残っていないけれど……。
ただ。
中三の僕に五万、小四の弟に三万、
驚愕のお年玉をくれた年が一度あって、
その衝撃は彼に深く刻まれた。
ちゃっかり者の弟は、叔父さんを伴い、
デパートに繰り出すと、お年玉とは別に
ゲームウォッチ等のおもちゃをねだって
総額で僕より高額をせしめたのだった。

そんなわけで「野川の叔父さん」は
弟の結婚式にもはるばる台湾から
飛んで来たのだった。
親戚のテーブルに座るわけにもいかず、
二十歳そこそこの友人達の中に
ぽつりと五十路が混ざっていた。

バブル崩壊とともに副業はすべて失敗。
自己破産にも追い込まれたが、
本業だけは何とか残そうと手を尽くした。
この文章をフィクションする理由が、
つまりはそのあたりにあるのだが。
兎に角。
1993年、高雄の工場は機能していた。
台湾人名義にした会社を畳んだのは
それから二年後だ。

世話になったのは弟だけじゃない。
話は少し遡り、叔父さんの絶頂期。
五階建てのマンションを建て、
一階には当時目新しかったレンタルビデオ店、
二階には喫茶スナックを開いた。

予備校には行かずに迎えた一浪の僕に
「どうせ暇だろ」と一階を手伝わせた。
棚にはVHSとベータが並んでいた。
映画はもともと好きだったし、
実はひょんなことから演劇に嵌ったのも
ちょうどその頃。
店では古今東西の映画を見まくって、
バイト代は芝居と名画座に消えた。
参考書を買うべきだったのだが、
結果的に今の僕の「栄養」になった。

そんな「野川の叔父さん」の通夜が
今日、粛々と執り行われた。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 引きの強い一日 | トップ | 叔父さんが逝った~告別の章 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿