【 地 軸 】 2017.8.21 地方紙1面下段コラムより
[ 【悪いことをしたら何て言うの?」「ごめんなさい」「そうだよね、気をつけようね」。夏休みも終盤、少しはしゃぎ過ぎた子が電車で叱られていた。素直な横顔がほほえましい。
▲かつては皆、そうしつけられたはずだが、大人はなかなか謝らない。何秒頭を下げる、などの「技術」は発達しても嫌々、形だけ。大人の謝罪は責任、つまり地位や金銭が絡む。「損得」に直結するから。
▲殊に訴訟大国の米国では、過失を認める「アイムソーリー(すみません)」と言ってはいけない―そんな「心得」が語られて久しい。日本でも影響されたか、事故を起こしても誤らない人が増えた。非があっても、いや非があるからこそ謝らない、では社会も人の心もすさむ。
▲その過ちに気付き、米国の多くの州で「Sorry Law」、通称「アイムソーリー法」が近年、制定された。主に医療過誤で、誤っても後の訴訟で不利にならないと定める。申し訳ないと思う人としての自然な感情こそが、相手も痛みや怒りを和らげる。誠実な謝罪は、信頼を取り戻す誓いの言葉。
▲翻って、日本の政界では、支持率が下がれば「反省する」が、約束した丁寧な説明は「記録もなく記憶もない」の繰り返し。誠実な言葉はついぞ聞かれない。子どもにはちょっと見せられない。
▲「首相が謝るのはなぜ?」「『アイ・アム・ソーリ』だから」。ふと、そんななぞなぞを思い出した。日本にも「謝罪法」をぜひ。]
( 忘却への扉 ) 「ごめんなさい」親(大人)に叱られるのが怖くて子どもたちは口にした。あのころ大人が怖かった。
他人の子どもでも叱る大人がいた。謝る子供も、自分が悪いことをしたと分かっているから、どななれげんこつの1~2個貰っても仕方がないと、我慢した。
理解できる原因で叱られての「ごめんなさい」は、その後気分がすっきりする。時には仲間内での自慢話にもなった。怒鳴りたたいた大人は悪くない、私たちのことを思ってのことと知っていた。
だが、現代の日本の政治屋のように、民主主義を放棄し権力を鼻にかけ威張り、誤らず、反省しない人々に「謝罪法」を与えれば、ますます図に乗り暴走するだけ。とばっちりを受けるのはわれわれ市民。