忘却への扉

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そんなことできる時代ではなかった

2017-08-25 | 平和を

 【 「平和死守」戦後世代の務め 】 松山市 男性( 61・無職 )

 ◇戦後生まれの私には戦争の現実やその悲惨さは想像するしかない。だが、戦争で生き残った父はさまざまな十字架を背負い人生を歩み続けている。多くを語ろうとしない父とこんなやりとりをしたものだ。「悲惨な戦争を二度と繰り返してはならぬと言いながら、なぜその時、戦争反対と声を大にすることができなかったのか」と軽口を発する私に、「そんなことできる時代ではなかった。お前らにどんなに言ってもわからない」と父は眉をひそめながら言い返していた。
 ◇父は小笠原諸島の父島へ守備隊として配属された。硫黄島での玉砕後、次は自分たちの番だと覚悟したが、米軍が沖縄に上陸したので命拾いしたことなども話してくれた。そのたびに、自分が存在するのは父が戦死しなかったおかげだと、ほっと胸をなで下ろす自分がいた。
 ◇生き残ったことに負い目を感じ、その後は贖罪(しょくざい)としての人生を送る戦争体験者も少なくないだろう。「平和は戦争のための準備期間」というが、それを現実にさせないのが戦後世代の務めだと思う。
                       《 こだま 読者の広場 【 終戦の日に思う 】 地方紙「投稿欄」より

 ( 忘却への扉 ) 

[「なぜその時、戦争反対と声を大にして叫ぶことができなかったのか」]わが子に説明できない悔しさが、私には分かる。戦時中に、平和や戦争反対は禁句で、今で言う「共謀罪」当時の「治安維持法」で監視社会、厳しい取り調べと罰則だけでなく命を捨てる覚悟がいること。
 隣人でも知人がそのようなことを言うのを聞けば、警察に密告しなけれが同罪だ。市民同士にスパイを強要させ冤罪を生んでも国家は平気な時代だった。
 以前も書いたが、母が私の2人の幼い兄たちを連れ暮らした貧乏長屋は、隣の声が筒抜け状態、息子に召集令状が届き別れの前夜、親子の泣き声と小声の会話を聞いた。「密告するのが義務とわかっていたが、親子の気持ちも当然、黙っていた」。他の住民がそのことを訴え出れば、親子も母も捕まったはず。誰も密告せず無事だった。
 母の話もあり、権力の犬(回し者、スパイ)には絶対ならないと誓った。まあ、母方の血筋「お人好しの頑固もん」は私も受け継ぐ。