忘却への扉

 日記? 気づいたこと 何気ないひとこま 明日への伝言 願い 子供たちに 孫たちに そしてあなたに・・ 

じっと空を見る

2017-08-11 | 平和を

 【 「八月六日」の句 】 内子町宿間 男性( 90歳 )

[ 「じっと空ばかり見て八月六日」ー三重県が以前に実施した全国俳句コンテストの「空の一句」で最優秀賞に選ばれた私の句だ。原爆という悲惨な戦争体験の思いを読み込んだ。
 私は海軍の飛行機整備兵として長崎県大村飛行場にいた。昭和20年8月九日、どんより曇った空に突然、爆音と共に真っ黒な大きなきのこ雲が発生、ゆっくり回転し始めた。やがて真っ赤な火の渦になった。猛烈な爆風に襲われ防空壕(ごう)に飛び込んだ。しばらくして出てみると、汽車の窓ガラスはほとんどわれ、包帯をした人たちを乗せた列車が通っていった。曇天だったのと、爆心地から15㌔離れていたので爆風を浴びただけで終わった。
 終戦となり、郷里に帰る途中、広島を訪れた。駅の汽車はことごとく横転し、見渡す山々は真っ赤に焼け、街は一望焼け野原と化してドームだけが残っていた。辺りは人影もなく、至る所から煙が立ち上っていた。何とも言えない悲惨な光景に、私はいつまでも立ちすくんでいた。
 年が巡り、8月6日と9日が来るたび、じっと空を見る。空を恨み、次々と亡くなっていった人たちのことを思う。私の句は被ばく者たちの怨念と平和への切々たる心の叫びであることを胸に秘めながら…合唱。]
                          《 こだま 読者の広場 【 へんろ道 】 》 地方紙「投稿欄」より

 ( 忘却への扉 ) 同じ原爆被災地でありながら、広島が数十回なのに対し私が長崎を訪れたのは数回だけ。だが、倒壊した浦上天主堂と焼けただれた石像など目の当たりにし、原爆の凄まじさに強烈な印象を残す。
 娘が嫁ぎ孫たちを生んだ広島の県北の小学校の裏山には、広島で被爆した人たちが列車で運ばれてきて治療の甲斐なく多数が亡くなり、その人々の原爆犠牲者慰霊碑が立っていて、私も何度か石段を上った。
 「米国の核の傘」で日本の平和は守られている?たわごと(ばかげたこと)だ。傘は洋傘、和傘?布か紙の違いで一瞬にしてまる焼けになる代物。また世界で最初に核兵器を使用するのは米国だろう。