羽を休める鳥のように

きっとまた訪れる薄紫の夕暮れを待ちながら

鳥の群れが飛んでいく

2011年12月22日 | Weblog
昏睡状態の義父の病院へ行ったのは先週末だった。
わたしと長女が一生懸命に呼びかけたらうっすらと目を開けてくれて
(でも涙をたたえていた)肯いたようにも見えて、
「良かった、きっと回復するね」と言って帰ってきた翌日、
義父はかえらぬ人となった。
まるでかわいい孫が枕元にくるのを待っていたかのようだった。

通夜と葬儀の受け付けに次女と長男がたった。
喪服に身をつつんだ成長した孫たちをきっと義父は「よしよし」と
笑ってくれるだろうと思った。

ひと息ついて帰宅し新聞を読む。
最近ツイッターで見かける舞城王太郎の作品「やさしいナリン」だと
思い込んでいた。でも「やさしナリン」(新潮)
アドレナリンならぬ「やさしナリン」の分泌が激しい?ひとたちが登場するらしい。
病的なまでの「善意の人」を描く事でこの作品は「善意」や「共感」への
「強要」(震災後の日本の様子)を痛烈に批評しているのでは、、という
斉藤美奈子の文芸時評。そうなのか、と興味をひかれる。
そのまま「やさしナリン」という言葉が頭を離れない。読んでみたい。

義父の葬儀が終わり、退院の許可がでていた母を今日、迎えに行った。
あちこちに母は何かを短く書きとめている。
ティッシュペーパーの箱、メモ用紙、写真の裏、カレンダーの余白。
三度病室を変わったがいつも窓側だった。好きなテレビもみずに
いつも静かに過ごしていた。(夜間は騒ぎを起こしたこともあったようだが)
空を見て過ごしていたのだろう。
鳥の群れがとんでいく、という走り書きが数ヶ所にある。
こわい夢を見た、というメモもある。
誰がきてくれたか、何を食べたか、帰りたいのに帰れない、今日は何日?と、、。

病院へ面会に通う日々が終わり、今日からまた一階の母の部屋へと
様子を見に行く冬が始まる。
母の部屋からも外がよく見えるようにしよう。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿