「成功と失敗を分ける心理学」 加藤諦三・著、PHP文庫、1991年11月15日
p.54 不運な時に戦っても勝てるものではない。お互いに同じ運の時に戦っても、勝つのにはたいへんなエネルギーがいる。それなのに、相手と不運という二つを敵にして戦ってかつ見込みはない。不運な時に、カァーッとして戦えば、すべてを失う危険がある。
やがていつの日か、やることなすこと怖くなるほどうまくいく時がくる。その時には思い切って波にのるのである。不運な時、それは自分の出る幕ではないのである。やがて自分の舞台の幕があがる。自分の出る幕があいた時には思い切って演じるのである。
不運な時、夢を捨ててはいけない。自分をリラックスさせ、自分に穏やかに話しかけ、深呼吸をするのである。意気消沈し、懐疑的になり、実体のない恐怖にとりつかれ、反抗的になっている者には、幸運も避けて通る。
p.55 偶然の不運ということだってある。そんな時こそ、自分をたたえることを忘れてはならない。断じて失敗は、その人の能力不足などというものではない。
p.63 仕事のできる人、さっぱりした人は、ひとつの失敗から学んで、次のことに自分の関心を移していくことができる。さっぱりした人というのは、可能性がある限り、それを追い求めるが、可能性がなくなればあっさりと諦める。
p.73 不運だということと、不運の犠牲者になることとは違う。
p.78 エマーソン博士が重態の女性の手術を終えて手術室を出てきた時、シーベリーが「どのようにして緊張に耐えるのですか」とたずねると、博士は、「君、彼女がよくなるにしても、よくならないにしても私の責任ではないのだ。神様の思し召しというものでね。私に課せられたものなのだ。私の責任はそこで終わり。自分のできるかぎり完全に仕事にささげつくすだけなのだ」と答えたという。
p.125 自分にできないことがあっても、それは決して自分の価値を低めるものではない。自信のない人は、このことがどうしても分からない。だから、何か自分にできないことがあると、どんな小さなつまらないことでも、それに固執してしまう。
p.233 人間力とは、自分を受け入れている人の対社会的力のことである。
p.54 不運な時に戦っても勝てるものではない。お互いに同じ運の時に戦っても、勝つのにはたいへんなエネルギーがいる。それなのに、相手と不運という二つを敵にして戦ってかつ見込みはない。不運な時に、カァーッとして戦えば、すべてを失う危険がある。
やがていつの日か、やることなすこと怖くなるほどうまくいく時がくる。その時には思い切って波にのるのである。不運な時、それは自分の出る幕ではないのである。やがて自分の舞台の幕があがる。自分の出る幕があいた時には思い切って演じるのである。
不運な時、夢を捨ててはいけない。自分をリラックスさせ、自分に穏やかに話しかけ、深呼吸をするのである。意気消沈し、懐疑的になり、実体のない恐怖にとりつかれ、反抗的になっている者には、幸運も避けて通る。
p.55 偶然の不運ということだってある。そんな時こそ、自分をたたえることを忘れてはならない。断じて失敗は、その人の能力不足などというものではない。
p.63 仕事のできる人、さっぱりした人は、ひとつの失敗から学んで、次のことに自分の関心を移していくことができる。さっぱりした人というのは、可能性がある限り、それを追い求めるが、可能性がなくなればあっさりと諦める。
p.73 不運だということと、不運の犠牲者になることとは違う。
p.78 エマーソン博士が重態の女性の手術を終えて手術室を出てきた時、シーベリーが「どのようにして緊張に耐えるのですか」とたずねると、博士は、「君、彼女がよくなるにしても、よくならないにしても私の責任ではないのだ。神様の思し召しというものでね。私に課せられたものなのだ。私の責任はそこで終わり。自分のできるかぎり完全に仕事にささげつくすだけなのだ」と答えたという。
p.125 自分にできないことがあっても、それは決して自分の価値を低めるものではない。自信のない人は、このことがどうしても分からない。だから、何か自分にできないことがあると、どんな小さなつまらないことでも、それに固執してしまう。
p.233 人間力とは、自分を受け入れている人の対社会的力のことである。