何かをすれば何かが変わる

すぐに結論なんて出なくていい、でも考え続ける。流され続けていくのではなくて。
そして行動を起こし、何かを生み出す。

薬剤師なのか、社員なのか

2006-11-29 19:07:24 | 薬局経営
 あるチェーン薬局では、薬剤師であっても調剤事務であっても、やたらに「社員」とか「薬剤師社員」と呼んでいるのだという。それも、やや意図的とすら思われるほどだという。
 一般の会社では「社員教育」という言葉が自然だが、活動の基盤を「会社」に置いていれば自然である。薬局は、チェーンであろうとなかろうと、薬局は薬局だ。活動の基盤は“医療提供施設”(医療機関と言ってもよい)であるから、活動の本質、実態に照らし合わせてみると、「社員」とか「会社」というのは違和感を覚えざるをえない。病院なら、「職員」と表現するだろう。

 医療提供施設であることからすると、そこで働く人々は医療従事者に他ならず、教育も「薬剤師教育」、「スタッフ教育」、「職員研修」というべきではないかと思う。

 スタッフをわざわざ「社員」と呼ぶのは何故か。「社員」という上下関係に組み込んで、指示・命令で動かせる存在だと刷り込もうとしているのだろうか。カイシャのために働いてもらいたいと考えているようなら、まるで兵隊のようではないか。
 薬局である以上、良質の医療(薬局サービス)を提供するという使命、社会的責任のようなものを負っており、公共性の高い業種である。社員である前に、国民のほうを向いて応えるべきだ。チェーンであっても、それぞれの地域において、その役割を果たそうと歩む「仲間」であり「同士」であろう。にもかかわらず「社員」と呼ぶのは、薬局としての活動とは異質の目的が、優先する(したい)からではないだろうか。

 薬局の現場では、日々、来局する患者さんと接し、100%医療従事者のひとつである「薬剤師」としての活動を求められている。社員としての活動など、期待していない(カンケイない)。
 スタッフは、薬剤師としてニーズに応えることとは別次元で「社員」としての役割を(必要以上に)求められているとしたら、そういった二重構造の環境に置かれて、それぞれから大きな要求や期待を課せられ、しばしば相反するものを求められて、相当のエネルギーを奪われているものと思われる。当然、薬局や薬剤師としてのレベルアップも阻害され、やがては疲弊してしまうに違いない 
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授業料等返還請求とクスリの返品(返金)

2006-11-28 10:54:29 | 思いつくまま
 今朝のラジオで、私大入試に関連し、合格者が辞退した際に、入学金や授業料等の返還請求について裁判で争われた件について、報道されていた。消費者契約法に基づくらしい。契約は提示されて納得して結ぶもので、過度の内容を一方的に通告されてそれに従うよう強制するのは適当ではない、というような内容だったと思う。

 入学金は、手続き費用や入学するという権利、資格を得るための対価として返還は認められないが、授業料等は受けてもいないわけだから、返還できるというようだ。すべり止めになっていた大学にしてみると、重要な資金源を失うことにもなるので、入学金の高騰につながるおそれもあるらしい。

 で、ちょっと思ったのが、薬局でしばしば見かける、余った薬、使わなくなった薬に対する返金請求問題である。現在、クスリを含めた調剤サービスは、「現物給付」という保険契約によって行われており、それは認められないとされているが、なかなかすんなりと理解されないところである。

 開封してしまったらダメというのはわかるが、(個別ではあるが)小分けされて渡されたにすぎず、今後使うあてがないのだから、返品(返金)を認めて欲しいというものだ。
 支払った一部負担金は、純粋にクスリという物への対価ではなく、それを含めた調剤サービス全体に対して、その一部を負担した金額である。残りは保険者から薬局に支払われるようになっている。お菓子を10個買ったが、事情で8個返品したい、というのとはワケが違うのだが。

 治療方針の変更や副作用などで、薬の使用中断を余儀なくされたのであろうが、当初の時点では使用継続することが計画されていたのである。必要以上に渡されたと思うのは気持ちはわかるが結果論であって、申し訳ないが、予め一方的に不利な契約を結ばされていたことにはならないのではないかと思う。そもそも消費者契約法に基づいて、判断されるような性質のものではないのかもしれない、よくわからないが。

 処方変更などの際に、いきなり長期処方がなされるようであれば、面倒ではあるが「分割調剤」という手法を使って、試しに1週間程度服用してみて、それで問題なさそうであれば、残りの期間の調剤をする・・・、薬剤師はそう提案してみてもいいだろう。医者も処方変更において、いきなり長期処方するということを控えることを考慮してもらいたい。

 患者さんに、新しい薬であれば長期処方を遠慮する、という判断を求めるのは、現在の「処方されたら、それに従って治療を進める」という状況では難しいだろう。分割調剤というワザも知らないだろうし。お試し期間的な治療もできますよ、ということが浸透するのには、もう少し時間を要するだろう 

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容器表示への提案

2006-11-27 19:47:51 | よくわからないこと
 昨今、散剤・ドライシロップ・小児用細粒と呼ばれる製剤は、分包品のほか、100g程度の容器に入っていることが多い。100g程度の容器は、薬局の調剤棚サイズにちょうど合っており、充填して使うこともないので充填によるミスも防止できて、便利である。

 またシロップ剤等の液剤は、500mL瓶に入れられており、これも調剤棚サイズに合っている(調剤棚のほうがこのサイズに合わせている)。

 しかしその容器ラベルは旧態依然としているように思われる。
 というのも、品名やメーカー名など、法的に決められたものはともかく、調剤する薬剤師にとって重要な、含量や配合変化等に関する情報がまったく記載されていないのである。

 そう書いておきながら含量において、「まったく記載されていない」というのは誤りである。「小さい字で書いてある」というのが正しい。どうして、もっと大きく、誰が見ても含有量だとわかるように書かないのだろうか。
 1%とか、20%とかいう部分を見ても含量はわかる。計算(換算)の早く、正確な人はいいが、10mg/gとか、200mg/gなどと、別途、白抜き文字でも使って表示してはどうだろうか

 シロップ剤の配合変化は、どの製品も触れていない。
 単独使用すべきなら、その旨を。明らかに禁忌ならそれほど品目数も多くないのだから、明記してはどうだろうか
 その際、他社製品名が掲載されるのが、プロモーションコードにでも触れるのだろうか。それより安全な調剤のほうが優先されてもいいと思うのだが。

 薬局では、わざわざカード型の注意表示を作って、瓶の首にぶらさげているところも少なくない。輪ゴムはしばしば切れ、汚れ、手にまとわりついて、使用しにくかったりもする。表示さえあれば、そんな不便さが解消される。

 何年か前に、ある研究会で本件を提案したところ、ある病院の薬剤部長が、いろいろな数字が並ぶことで、かえってエラーが増えることもあるのではないか、ということを述べ、メーカーも変えないで済むのならそのほうが楽と、結局、事態は相変わらずのままである。
 記載の仕方、文字サイズや色使いで、エラーの起きないような工夫など、いくらでもできそうであるが、とかく変更や面倒なことは避けて通りたいだけ、ということはないか。

 慣れた人にはどうってこともないことかもしれない。しかし毎年、新人薬剤師が小児用製剤の用量について悩むのも事実である。調製に悩むことで、配合変化や、さらには相互作用などについての注意も希薄になってしまうこともある。少しでも悩むことは少なくし、同じエネルギーがもっと効率良く使われたっていいじゃないか、とも思う 

 より良くしようということを誰もが思っても、実際は違う思惑が動き、事態が進展するのは事故が起こった時、というようでは残念である。
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分業率が上がっても門前指向?

2006-11-22 15:26:07 | よくわからないこと
 薬局での人材育成を目標として、何らかの行動をとった場合、それが進んでいるかどうかを何を指標に評価するとよいかについて、加算算定率を目安にするとよいか、(各種)来局者数を目安にするとよいかで意見が分かれた。

 加算算定率アップは、教育研修によりスタッフに服薬指導能力等の力がつけば、加算算定率アップを果たせるというものである。
 来局者数とは、スタッフの力量アップが患者さんに反映され、増患として効果が現れるというものである。分業により、どこの薬局で薬をもらってもいい状況の中で、薬局が評価されれば来局者件数や応需枚数は増えるという構図である。

 加算算定率アップは、調剤報酬上の算定要件が示されているとはいえ、その判断は薬剤師側に委ねられており、操作できる指標だ。客観的な線引きの難しい要件だから、グレーゾーンの扱いは微妙だ。
 来局者数アップ(増患)は、薬局サイドで件数を操作できないので客観性があるとはいえ、薬局が評価を受けたのか、医療機関など他の要因に左右されるのではないか、純粋に薬局の評価ではないのではないかと、懸念する向きがある。

 今の“調剤薬局”の多くは、設立経緯として、分業率向上の追い風の中、分業バブルと言われる時代に処方せんを院外に出すことを最優先に、その他に多少目を瞑ってもらいながら出来てきたものが多い。しかしそんな薬局も、今では分業率が50数%になった中、処方せんを応需するだけでは社会の期待や役割を果たしていることにはならない。

 もし地域的・立地的な事情があって、門前医療機関の受診者全員がひとつの薬局に集中しているのであれば、加算算定率アップが人材育成の指標として意味を持ってくるだろう。果たして、そういう状況がどのくらいあるか。応需率90数%なんていうことは、少なくとも都市部では一般的にありえないのではないだろうか。少なくとも10%以上は、門前以外に流れているのではないだろうか。

 門前であるとか、マンツーマンであるとか、当初はそうであっても、近隣周辺に住民がいないはずもなく、生活圏も狭くないだろうから、もはや地域の中の一薬局である。つまり門前であっても、その薬局で薬をもらいたくなければ、車でちょっと足を伸ばせばいいのだ。逆にその薬局が気にいられれば、少しくらい遠くても来局が期待できる。門前だの、マンツーマンだのという発想はとっくに終わっているのではないか。

 もはや門前医療機関とのセットで評価を得る時代ではないし、地域の中で評価を得たい・得るべき時代であることに疑う余地はない。であるならば、応需枚数、新患件数、久々の来局者数、門前以外の医療機関の処方せん枚数、そういったものが活動を評価する指標として、適切ではないかと考える。

 そもそもわれわれの活動は、経済活動を基本にすべきではなく、医療活動を基本にすべきであると考える。結果として繁盛するのは望むところだが、「国民の健康問題を解決する」というアウトカムを付加価値として提供できるかどうかに、評価がかかっているのではないかと考える。

 算定率アップか、増患か、評価するのは自分たちではなく、顧客の反応として現れる指標にするのが適切なありかただと考える 
 
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「お大事にどうぞ」について

2006-11-20 08:59:45 | 思いつくまま
 息子の携帯電話の電池が消耗してきたとのことで、代わりにドコモショップに電池を買いに行く。

 入口に入るとフロアの案内係がいて要件を聞かれ、番号札を持たされて待つことになる。最新機種を手にとって眺めながら5分ほど待つとカウンターに案内される。電話注文してあるものとばかり行ったのだが、在庫確認をしていた程度だったようで、取り置き依頼をしてあるのではなかった。機種番号などがわからないため、電話番号から検索し、カタログで写真を見て確認し、倉庫へ該当する電池を取りに行き、支払いの確認をし、オマケで現在行っているキャンペーンのお誘いを聞き、カウンターに呼ばれてから15分程度だっただろうか。

 支払いも済んで立ち上がろうとすると、「長いことお時間を頂戴しました、お待たせいたしました」と声をかけられた。これにはいささか驚かされた。

 カンタンに言えば、自分は消耗品を買いに来ただけである。要望を聞いて、それを確認して、当てはまるものをもらっただけである。カタログや倉庫に出入りするために、店員は席を2回ほど立ったりはして、その都度短時間待たされはしたが、手際よくともいえ、ムダなく用事が済んだとも言えるのだ。

 薬局でも、自分たち薬剤師側はそれなりにムダなく、効率的に調剤を行っているつもりではいるが、それでも待ち時間の苦情を受けることは避けられない状況にある。薬を渡すにあたり、必要な確認をとることですら、煩わしく思われる始末である。けっして患者さんの事情など聞かず、薬局側のペースにすべて従えなどと思っていない。そして会計も済むと、最後は「お大事にどうぞ」のキマリ文句である。

 渡すものを渡しさえすれば終わりなどとは言わないし、健康状態が少しでも良い方向へ向かって欲しいということからその言葉がでるのであるが、どうも「おはよう」「こんにちは」といった挨拶や、「お先に失礼します」「お世話になっています」といったビジネス文句になりきってはいないだろうか。

 ドコモショップでは、確かにそれなりの時間は消費しているものの、そんなに待たされた印象はない。ひどく待たされた印象がなくてもある程度の時間がかかったのも事実であり、ひょっとしたら客にとっては気がついてみたら予想外の時間を費やしてしまったのかもしれない。そこで「お待たせしました」と・・・。

 そう言えば床屋でも散髪が終わると「お疲れさまでした」「お待たせしました」と言われることがある。「お大事にどうぞ」が必ずしも悪いわけではない。これらの言葉を添えてみることで、今より相手の心により届くものがあるように思われた 
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医療の株式会社化

2006-11-19 22:03:40 | Book Reviews
 民間活力の導入という空虚

 最近では、学校法人や医療法人など、基本的には「金儲け」を建前としない、広い意味でのNPOにあたる場まで、民営化や規制緩和を唱えて株式会社化しようとしていますが、これも問題があります。
 いろいろ組織のなかで、利益追求を建前にしてきたのは株式会社だけです。だからこそ、教育や医療というものはいままでは株式会社がやってはいけない一種の聖域でした。利益追求の場にしてはいけないからです。ちょっと考えてみればわかりますが、教育が利益を目的としたら、呑み込みの悪い子は切り捨てることになりますし、医療が利益を目的としたら、薬漬けにするほうが儲かってしまいます。教育も、医療も、コストや効率を重視してやっていくものではないのです。
 それがいまや、学校や病院、農業にまで株式会社が参入しようとしています。学校や病院、農業が行き詰まっているのはわかるのですが、それでは会社は行き詰まっていないのかと質問したくなります。学校に民間人校長を迎えるなら、企業にも教師出身の社長を迎えることをすべきでしょう。
 いまは民間、すなわち会社も行き詰まっており、大いなる矛盾を抱えています。それにもかかわらず、民間活力の導入などといって企業人を使えば良くなるという能天気な発想は、バブル崩壊や企業スキャンダルなど、企業の起こしたさまざまな問題に目をつぶっているとしかいえません。
『会社は株主のものではない』岩井克人ら、洋泉社、p.68~69


 これまで、薬局は医療機関であることを基盤にした活動をすべきだと言われてきたのが、今年6月に改めて医療提供施設に規定されたことで、薬局の基本的スタンスを再確認し、体質を改めるべきでだということは繰り返し述べてきた。
 だから、当然と言えばそれまでなのだが、このような記述に出会うと、誰もがわかる論理なのに、それと逆行しようとする動き、見識はたいへん遺憾であり、結論の出ていることに今さらながら議論するエネルギーを取られることは困ったことだ。

 本書は、岩井克人、奥村宏、木村政雄、小林慶一郎、紺野登、成毛眞、平河克美、ビル・トッテンの8氏の共著であ。上記は奥村宏氏によるページであるが、木村政雄氏やビル・トッテン氏のページには多く共感するところがあった。

 昨今、「会社は誰のものか」といったことに関連する書籍が何冊か出されている。株主のものである、という考えに無理が生じているという指摘ではないかと思う。法的なものと、時代の変化の中でどうあるべきか、というもののはざまに今が置かれているように思う。
 また株式会社化に関連し、アメリカに見る医療荒廃が先例として、日本は追随すべきでないとする指摘もある(『市場原理が医療を滅ぼす』李啓充・著、医学書院)。

 これらと合わせて、本書もお勧めの一冊と言っておきたい 
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OTCをもっと「薬」として扱おう

2006-11-19 14:55:40 | よくわからないこと
 「●●●●●は使用上の注意をよく読み用法・用量を守って正しくお使いください」
 多くの人がTVで耳にしたことがあるだろう。
 一般用医薬品の規制緩和や、来年度からの新たな販売態勢が少しずつ明らかになる中、薬の安全性を考えると、前々からこの言い方のどこかに違和感を覚えるのだ。俳優が笑顔で明るく元気よくそう叫ぶだけに、余計にすっきりしない。

 ここで言う使用上の注意とは、添付文書のことだと思ってよい。添付文書中の「使用上の注意」の項をさすのではない。消費者に対し、使用にあたり「使用上の注意」に目を通してもらいたいのは当然としても、「よく」読まなきゃいけないのか。“普通に”読んではダメか。熟読しなきゃいけないのか。読んだ結果、理解が足りなければ、違ったとらえかたをしていれば、読み方が浅いと、「よく」読まなかった消費者の責任だとでもいうのだろうか。「読んでお使いください」でなく、「よく」読め」とダメ押しする意味は何なのか。よく読めばたいていのことは理解されて当然だというのだろうか。

 またOTCを正しく使うにあたり守るべきは「用法・用量」だけではないと思う。ここで「用法・用量」を持ち出すのはなぜか。副作用や体調変化が見られたときのほうが、何かおかしいと思ったときはただちに医師や薬剤師に相談するか、受診を促すほうが、消費者にとって安全を守るうえで重要であって、「副作用」の項目をなぜ強調しないのだろうか

 「用法・用量」さえ守れば、必要以上に多く服用しさえしなければ、正しく使っている限りは問題が起こることは心配ありませんよ、正しく使わなければ何が起きても知りませんよと、どこか消費者側をつきはなしているようにも思えるのだ。

 薬という健康支援のためとはいえ、体にとって異物であるにもかかわらず、外れた使い方だけは避けてもらうとして、使用を促しているように思われるのだ。CMを通じてより安全に適切に必要な人だけに使ってもらおうという雰囲気がいまひとつ感じられない。消費者へのおもいやりや、国民の健康を守る気持ちが薄いような、守ることさえ守ってもらえば、あとは一般の商品と同じように販売促進や売上げ拡大が意図されているような印象を受ける。それが違和感の正体なのだろう。

 薬害の背景には、薬を一般の商品と同じように経済性を追求してきた側面がある。人間にとって健康を維持するために必要な「薬」だから、安全が確保された中で適切に使われるよう、単に消費者に責任を負わせることがないよう、視点を消費者の安全においたコマーシャルであって欲しいと思う 
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将来に向かって道が開けているだろうか

2006-11-18 09:45:25 | 思いつくまま
 何年か前に吉本新喜劇の人気が低迷してきた頃、ある大物タレントが吉本を辞めて東京に行きたいと言い出したという。それまで新喜劇は大阪というローカルエリアではそれなりの地位を得ていたが、少し離れるとその影は薄い。
 新喜劇には、落語家や漫才師のように当たれば東京にも進出でき、全国区でもてはやされる道もチャンスもなかった。そんな、頑張って努力しても先が見え、ある一定以上の発展も望めない環境では、タレントのモチベーションも上がるはずもなく、若く才能のある人も入ってこない。新陳代謝がされなければ衰退は自然の流れであり、それ以上新喜劇の成長も期待できない。今の活動が全国区にはばたける道が開けているということで、明るい未来にもつながっているということで、有能な人材が集まり、ひいては新喜劇の発展にもつながる。

 こんな要旨だと思う(『人間の賞味期限』木村政雄・著、祥伝社、p.158~159)。

 著者はやすし・きよしのマネジャーを務めた(本人によると、自ら買ってでたというが)人として知っている人も少なくないだろう。人あっての活動である。素質のある人、成長できる環境、将来に夢が持てること、それが活動の、組織の発展を支えている。

 薬局にもそっくりあてはまるのではないか。薬の袋詰めをしているだけの、有資格者じゃなくてもできる仕事だと、バカにされる向きもあるくらいだ。
 「人は大事だよ、優秀な人がたくさん集まって欲しいよね」と、多くの、ほとんどの経営者がそう言うが、やっていることを見れば、それがいかに口先だけかと思えるほど、悲しいかな、あちことで見られている。
 売上げ減少とばかり、教育研修費を削減しているにもかかわらず(この場合もやむをえずと言いながら、他は変えずに、いとも簡単に削る!)、「自分はけっして教育をどうでもよいなどと思っていない、大事だ思っている」などとうそぶく実態もあるという。「優秀」とは、経営者にとって都合のよい、文句も言わず、もくもくと日常を言われたようにこなす者と言わんばかりではないか。それはその個人の人格や成長を無視したかのような、犠牲を強いたようなことではないのか。教育が大事というのは、それこそ薬局の発展にとって最大の拠り所であると、誰の目にも言動が一致してこそ、組織内に理解されることだ。

 薬剤師も、ずーっと調剤だけを繰り返しているのではなく、そこは基本としてなくならないまでも、続けていくうちに得意もできれば経験も増え、いろいろに活躍の場が出てくる。その範囲も深さも広がれば、薬局内にとどまらず外界との交流も増え、社会の中で活躍することにもなる。

 そんな先鞭が身の回りにあるだろうか。前例といわなくても、そういった可能性を感じることで、やがては自分もと光を感じ、閉塞感から解放され、日々伸び伸びと活動ができ、将来に向かってより多くのことを吸収するようにもなり、個人の成長がそのまま組織の発展にも活かされることにつながるのではないだろうか 

 上に立つ者がすべきは、そういう支援態勢や環境、文化を作ることであろう。
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針回収に思う

2006-11-16 00:42:38 | 思いつくまま
 今朝はB-Dマイクロファインプラス(インスリン用注射針)の回収で慌しかった。朝刊を読み、速報を流そうと思っていたが、メーカーは9時からしか電話の受け付けを開始しない。案の定、9時過ぎると電話は全くかからず(「お話中」でおかけ直しくださいのアナウンスばかり)、つながったのは10:30過ぎだった。
 ホームページも、朝は何も掲示されておらず、関連情報が掲載されたのは10時過ぎではないだろうか。ようやくかかった電話も、質問事項に対して折り返し電話をもらうことにして切ったのだが、今夕までに返答はいただけなかった。

 ある特定のロットが回収になったのなら、問題のないロットで代替すれば済むのだが、今回は回収優先ロットがあるとはいえ、全ロットが対象である。しばらくは使える針を探してしのがざるをえない。

 時間の問題で(ただし今回は時間がかかりそうだが)欠陥のない製品が供給されるであろうが、それまでの間なんとかするとしても、ただ復旧を待っているだけでよいのか。

 既に渡してしまった人に対して何もしないでいいのだろうか。来局した人に事情を説明し、対策をとり、協力を求めているだけでよいのか。
 レセコンで過去に渡した患者さんをリストアップできるだろう。彼らに対して薬局側からコンタクトをとり、今回の事態を説明し、不具合のある欠陥針の見分け方を伝え、問題のない針を選んで使うよう、働きかけていくことが必要だと考える。

 「面倒くさい」という思いが先立つことはないだろうか。100人いたら100回同じことを繰り返して説明しなければならないことだから。しかし、これを面倒くさいと尻込みしていてはいけない。糖尿病の、インスリンを使う患者さんは、注射を差し控えるわけにはいかないのだ。年中無休で必要なことである。
 注射が命をつないでいるわけで、このようなことこそ、薬局にとって、薬剤師にとって一番やりがいのあることだと思って楽しむべきではないかと思う。

 欠陥品でない製品が出回れば、それを手配し、交換することだけが、回収に対する行動ではないだろう。既に渡してしまった人に対して、遡ってアフターケア(サポート)することのほうが、今回は重要だと思う。欠陥は薬局が引き起こしたものではなく、メーカーに拠るものだ。その点だけでも薬局は気が楽だと思う。すみやかで、誠実な対応がとれるかどうかは、より信頼関係を築くことにもなるであろう 
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薬局力

2006-11-14 10:14:18 | 薬局経営
 「この会社が必要とするのは、会社を利用して、自分の価値を高められる人間。だからどんどん会社を利用しろ。」
 「だから、もっとも要求される人間は、自分で方向を決め、自分で伸びていく人材だ。そういった人間が増えれば、結果的に組織のパフォーマンスも伸びていく。」
『若者はなぜ3年で辞めるのか?』(城繁幸、光文社新書、p.199)

 組織の成長は、個の育成~成長を基に、それが業務に活かされることに支えられている。つまり組織はスタッフの育成があってこそ、発展が臨めるのだと思う。そこで組織がすべきことは、スタッフが自分たちを伸ばせる態勢や環境を整えてあげることだ。薬局でいえば、内部研修態勢を設け、学会等の外部研修への参加を奨励していることである。それらを通じてスタッフは自らを伸ばし、自己を高めることができる。個人が伸びれば、それが薬局の業務に還元される。ひいては薬局のパフォーマンスが向上することが期待できる。
 若く向上心のあるスタッフほど、教育研修をバックアップし、自分の成長を支えてくれる環境を求めている。自分が成長するのがイヤな者などいないだろうから、そういう環境が与えられれば喜んで積極的に自らを鍛えるだろう。成長すれば、得たものをどこかで使い、示そうと思うだろうから、その方向が顧客に向けばいいのである。そういうスタッフが増え、定着すれば、魅力ある組織になるにちがいない。

 一方、
 「わが社が必要とするのは、自分を殺して会社のために滅私奉公してくれる人間。だからつべこべ言わず黙って働け。」
 「必要なのは、会社の与える枠にすんなりはまってくれる便利な人間だ。彼らがアウトサイダーを嫌う理由はここにある。」
(前掲書、p.199~200)

 さて自分たちの現在はどちらの状態に近いだろうか。指示命令という形で絶対服従を強いられていたり、おかしいと思うことも言えずに我慢していることはないだろうか。研修の実態がカタチばかりであったり、あるいは洗脳的であったり、組織色に染め上げた作業人か、単に労働力を養成しているにすぎないことはないか。学会参加など費用がかさむものは、ガス抜き程度に多少与えておこう、極力制限をかけておこう、などということはないだろうか。

 薬局が利用者に価値を生産し提供する能力を「薬局力」とすれば、スタッフの育成、成長こそ、顧客のみならず、組織にとってプラスをもたらすと思う。組織は、成長や育成の仕組みや態勢、環境を充実させることは必須であると考える。

 伸び伸びと、自分たちのもてる力を最大限に発揮しようとしたチームと、「常勝だ」「優勝こそ至上命題だ」というチームと、どちらが目標を達成するのか、したのか 
 失敗など許されないかのように、「管理」や「統制」を楯に、権力や命令で束縛している組織は、スタッフの犠牲のもとに存在しているにすぎず、それは組織のためにもならず、未来も開けてこないのではないだろうか 
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狂った薬局の感覚

2006-11-13 13:43:24 | 思いつくまま
 昨日、都内で保険薬局の薬剤師を中心とした研究会が催された。あたかも学会であるかのようにポスター発表と口頭発表の演題を募集し、それぞれ発表があった。

 ある口頭演題で、薬局が患者さんの動向を分析する中で、再来しない患者さんの群を「脱落」と表現していたところ、フロアより異議が唱えられた。脱落とは何事か、自分の薬局に来ない患者さんが悪いみたいではないか、薬局は何のために仕事をしているのか、再来しない患者さんを「脱落」と表現するような目で対応していたのか。まさに薬局の都合をまるだしの言葉であって、患者の視点に立っているとはいえず、不適切な表現であると。

 また発表者の中に、発表を終えるにあたり、「このような機会を与えてくれた社長に感謝します」などと、謝意を述べる発表者がいた。学術発表は、自らが応募して発表するものであって、招かれて発表する場ではない。「お招きいただき、このような場を与えてくれて・・・」というのが、本来の謝意だろう。それとも発表にあたり社長に謝意を述べなければいけない事情がその薬局に存在するのだろうか。

 いや存在するのだろう。おそらくそれは許可を得なければいけないといった制約的なものではなく、いつ何時も社長サマのお加護のもとに下々があって、常に感謝を忘れてはならない、とでも言いたそうに思われた。

 ある薬局では「結果を出せ」と“社員”に発破がかけられているという。しかもその結果(アウトカム)とは、ご丁寧に、「仕事で求められる結果」だと説明まで付けられているという。
 まさに薬局にとっての結果であって、患者さんのための結果ではないことが一目瞭然としているではないか。自分たちの仕事によって、どれだけ患者さんの健康問題が改善するのか、薬剤師の介入の有無が顧客にとってどのようにメリットをもたらすかどうか、それこそアウトカムではないか。
 「結果」などとキレイ事を言わず、ストレートに売上げとか利益だとか言えばいいものを。そんなことが最優先課題にされている医療機関に、患者さんはかかりたいか、身を任せたいか、相談をもちかけたいと思っているのだろうか。

 これらの問題発言の背後に潜んでいるのは、薬局は“会社”であるという意識ではないだろうか。あたかも善人のように振る舞い、いかに稼ぐかを腹の中で考えて対応されているとしたら、売れ売れ詐欺と言われても仕方がないだろう 

 より良い薬局のあり方を検討するにあたり、医療提供施設である薬局を「会社」と呼び、スタッフ(局員)を「社員」と呼ぶところに、その薬局のもつ文化や環境の危うさや違和感を覚えるのは、私だけだろうか。
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薬局が人不足でも補充しない実態

2006-11-09 19:43:10 | 薬害は人災だ
 ある理由があって退職者が出た薬局において、経営難から補充をせずに、労務費削減とばかり、それまでより1名少ない人数で薬局をまわそうとする経営手法が後を絶たない。調剤の核心は人でなければできないさまざまな判断を含んだ指導や管理であるにもかかわらず、報酬でそこが手厚くなっているにもかかわらず、である。

 そういった人減らしによるサービス低下は患者さんに対してのみならず、残されたスタッフにさらなる負担を課し、ますます安全管理などとはほど遠い態勢になっていくのを嘆かわしく思っていたところ、次のような文章に出会った。

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 ゆえに、説明もロクにしないまま、押しつけるかのように商品を販売してしまう。その結果、せっかく接点を持てた顧客が「言われるままに買ったけど・・・」と不満を募らせたり、「販売員にうまく買わされた」という「恨み節」さえ、大量発生させてしまう

 ゆえに、説明もロクにしないまま、押しつけるかのように商品を販売してしまう。その結果、せっかく接点を持てた顧客が「言われるままに買ったけど・・・」と不満を募らせたり、「販売員にうまく買わされた」という「恨み節」さえ、大量発生させてしまう
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『クレーム対応 ここがポイント』武田哲男・著、ダイヤモンド社、2002年、p.13~14

 まさに鉄骨を減らして強度は保たれているように見せかけた事件を彷彿させるのではないか。医療機関が(薬局は医療提供施設であるが)、必要な人的資源の補充を怠り(あるいは軽視し)、安全管理の質を定価させている様子を見て、安全確保を手薄にしているようでは、食肉の産地偽造事件に関連し「マスコミはあなたを殺人未遂犯として追及してくるから覚悟してください」というフレーズを思い出した。
『そんな謝罪では会社が危ない』田中辰巳・著、文春文庫、2006年、p.159 
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「いじめ」を取り返しのつかない事態を引き起こした主因ととらえると

2006-11-04 11:57:37 | よくわからないこと
子どもをいじめから守る サインつかめぬ裏に 「直視」避け把握遅れる
 朝日新聞 2006.11.1より転載
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 いじめのサインは、なぜ見逃されるのか。

 「いじめられています」。96年にいじめを苦に自殺した福岡県城島町(現・久留米市)の町立中3年、大沢秀猛君(当時15)は、命を絶つ2年前、家庭訪問に来た担任にそう打ち明けた。
 だが、担任は「大分から福岡に引っ越してきたばかりで、少し言葉が違うから」と言った。「いじめではなくトラブル」と判断したという。
 「中学1年のころから同級生から殴るけるの暴行を受け、現金を脅し取られた」と遺書にはあった。父親の秀明さん(62)は「家庭訪問の後、秀猛はいじめられていることを隠すようになった。あの時点で教員が『いじめ』ととらえていれば」と悔やむ。
 秀明さん夫妻が県と町に求めた訴訟の福岡高裁判決は、教師らは自殺を予見できなかったとしたが、その姿勢を「いじめを直視していない」と批判した。

 10月11日に、2年の男子生徒(13)が自殺した福岡県筑前町の町立三輪中学校。生徒は繰り返し、校内で「死にたい」ともらしていた。
 「教師のところまで死ぬという言葉が伝わっていなかった」。合谷智校長は16日の記者会見でそう語った。同校は、この生徒の件以外に過去数年で7、8件のいじめに気づきながら、文部科学省には「0件」と報告した。
 昨年9月に自殺をはかり、今年1月に死亡した北海道滝川市の小6女児の場合、担任や学校は自殺の前から「いじめ」ととれる行為の一部を認識していたが、それを1年余り、「いじめ」と認めなかった。

 学校や教育委員会、教師の「いじめを公式に認めたくない」姿勢だけではない。公立の小中高校でのいじめによる自殺が99年から05年まで0件だった文科省の調査方式に問題はなかったのだろうか。
 「これでは実態把握は難しい」。ある民間信用調査会社の担当者は、文科省の調査書類を見て、そう語った。いじめ自殺の理由を尋ねた項目は、「いじめ」「友人との不和」など、15の選択肢から一つを選び、不明なときは「その他」を選ぶ。
 企業に経営実態を聞く場合、「売上高は」など直接的な質問だけではなく、「1日あたりの来店者」「一般的な客単価」など間接的に売上高につながる質問も織り交ぜて探るという。

 サインの見落とし、調査による把握方法の限界、組織の及び腰・・・・・。隠れたいじめの裏には、そんな実態がある。
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 この記事を読み、岐阜県の中学での自殺報道に見る校長の二転三転した見苦しい会見を見て、さらに身の回りにある実態を見て、「いじめ」とはとりかえしのつかない事態を引き起こした主因と定義してみた。

 なぜ直視しないのか、事実を認めないのか。見て見ぬフリをしたり、さして関心を持とうとしない。

 多くの人も指摘しているように、また気付いているように
・それを認めると、管理不十分、日々の怠慢を認めることになる
・さらには管理側の昇進、昇格の妨げになる
・その原因を探り、掘り下げていくと、管理する側の自分たちもたとえ直接でなくても、間接的にそれを助長していた、プレッシャーを与えていた(守る側の者が、加害者寄りだった!)

 などが衆目のもとにさらされてしまうからではないだろうか。
 だから、予兆、前兆、初期症状、いつもと違うちょっとした変化に気づかず、また気づいても放置してしまうことになる。
 それが、自分たちはそれなりのことをやっていた、というような責任転嫁の姿勢となって見られる。では、いったい何が原因だったというのか。不可抗力なのか。

 無責任体質の裏には自己保身も見え隠れする。そういう資質を持った権力者による人災に他ならないと思う。教育の世界だけの話ではなく、そういう構図はどこにでも見られるように思う。会社でも大人によるイジメは、日常茶飯事だ。
 そんな不心得者が上の地位にいることが既に有害であり、再発防止からもほど遠い。代わる者はいくらでもいるのだから、居座ることなく、責任を取るとともに、即刻退場していただきたい 
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