何かをすれば何かが変わる

すぐに結論なんて出なくていい、でも考え続ける。流され続けていくのではなくて。
そして行動を起こし、何かを生み出す。

一般的な注意と個別の指導の違い

2006-10-31 14:55:44 | くすり雑感
 単に「この薬を飲むと眠くなるから車の運転には気をつけて」と言っても、相手が無免許の人やペーパードライバーであれば意味のない指導にすぎない。まちがったことを伝えているのではないが、相手にマッチしているかどうかが“一般的”か“個に即している”か、有用な情報かどうかの違いであろう。

 体調を崩し、結果として服薬という非日常を余儀なくされたとして、服薬が患者にとってすんなり適用できるのか、受け入れられるのか、服薬と患者の(日常)生活とのギャップの有無を考えてみることで、問題点を浮かび上がらせることができる。有用な情報は、その問題点を解決あるいは緩和するのに役立つに違いない。

 すなわち、
◆その服用法は(用量を含めて)、処方通り実行できるか(難しいことはないか)
◆その処方により、体調改善の治療効果が得られるか(有効性)
◆その薬が持つ副作用の可能性が、患者の生活に影響を与えるおそれはないか
◆その薬が持つ相互作用の可能性が、患者の生活に影響を与えるおそれはないか
◆服薬が、体調変化、既疾患に影響を与えるおそれはないか
◆疾病や薬物治療、生活上の注意等に関連し、必要な情報が理解されているか

 これらを患者の生活条件や、置かれている環境、服用後の様子に照らし合わせて、受容できるかどうか、支障がないか、変化に対応できるかについて情報収集し、評価するとよい(インタビュー&アセスメント)。

 確認した結果、処方という指示と患者条件との間にギャップが見つかれば、それが問題点として抽出される(アセスメント)。

 そのギャップの程度に応じて、改善の動機が生まれ、ギャップを解消するための対応が考慮され、実行される(プラン)。もしその問題を処方変更で吸収できるのであれば、それを提案すればよい(服薬情報提供)。
 またそのプランが効果的であったかどうかは、次回以降に確認していくことになる。
 服薬という“非日常”を患者の状況と照らし合わせて適用可能かどうかを評価し、患者にとって最善の治療が行われ、健康という結果が得られる(疾病の治癒を図る)よう、提案をしていくことが、個に即した服薬指導ではないかと考える 
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後から出店しても恐れることはない

2006-10-31 09:26:29 | 薬局経営
 ある大型チェーン薬局が、門前&駅前の一等地にあった他の薬局を買い取ってリフォームし、新規店舗としていることを知った。そんな一等地(ベストポジション)に位置していながら、手放さざるをえなかった前薬局にいったい何があったのだろうと思うが、買い取るほうもそれだけの資金が用意できたのだから、さすがである。

 門前という立地も、患者さんにしてみれば受診後にすぐ薬をもらえるとか、薬が揃っているというメリットがあったので、利用者も多かった。今でもその価値がまったく失せてしまったわけではなかろう。

 ひとつの医療機関に対して門前薬局がいくつもあったところで共倒れになりかねず、実際に顧客が少ない、評判が落ちるところから閉店するケースもある。

 そこで思うのが、出店は立地だけの勝負か?、ということ。「ウチは面だから」とやせがまんか清貧を自慢?していたような薬局も、(冷たく、厳しいようだが)顧客を引きつける力に欠けているともいえないか。

 時間的に先に出店していたとしても、今は薬局のあり方が見直されている時期である。医療費抑制に伴う自己負担増や患者参加型医療の推進などにより、患者が自らのパートナーとして医療機関や薬局を選ぶ時代だといってよい。つまり、われわれは評価される側である。

 分業バブルにもなったくらい、まず処方せんを院内から院外に導いて、受け皿を増やすことに躍起になった時代は終わった。それまでは薬を渡していればよいと、細部には目を瞑ってきたところもあったが、これからは薬局が本来社会の中で果たすべき本質的な役割を提供する時代である。

 それが出来るのであれば、一見、数的に薬局が足りているような地域であっても、後から良質な薬局が出店し、顧客を引きつけることもおおいに可能ではないかと考える。そんな魅力のある薬局がどこまで作れるのか?、ずっと利用してきた薬局から容易に患者が移動するのか?、無理だ・できないと言う声もありそうだ。

 街も再開発や道路拡張などに合わせて、どんどん変わっていく。機能を備え、価値が提供できるのであれば、これからの時代に合った出店の考え方を検討してもいいのではないか。
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長期処方を経営難の言い訳にするのはやめよう

2006-10-30 08:52:54 | 薬局経営
 今年度、大半の薬局は昨年度に比べ、経営に苦慮していることは業界の誰もが認めるところだろう。薬局を続けることをギブアップする店舗も加速すると聞く。
 どうしてそうなったのか、いきなりこうなったのではなく、少し前からその予兆はあった。そのなかでも応需処方せんの枚数が減った原因として、長期処方(長期投薬)を挙げる人が少なくない。たしかに処方せんは薬剤師が書いたり、勝手に変更できないので、それが原因ではない、とは言わない。

 しかし情けなく思うのは、いまだにそれを挙げて理解や同情を求めようとしていることである。現在のように、一部の薬剤を除いてほぼ解禁状態になる前から、拡大の動きはあったのである。その時から「さらに拡大したらどうなるか、今後どう対応すべきか」という考察と行動が欠けていたといえるからだ。

・これまで持ち込まれなかった処方が、持ち込まれるようにするには、どうしたらよいか
・今来局してくれている人も、他に移ってしまわないためにはどうしたらよいか

 といったことが、未来を予測しながら考察されていなければならなかったと思う。よって、単純に長期処方が増えて処方せん枚数が減少したのは仕方ない、と嘆いているのは、自らの無策を示すようにも映るのである。

 長期処方の増加を持ち出せば、誰からも咎められない言い訳として通用すると思っているのだとしたら、今さらながらもはや見当違いであるとはっきり言っておきたい 
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什の掟

2006-10-29 23:08:47 | 心に残ること
 最近いじめもさることながら、教育者を含め、大人がそれから目を背けていることに関連し、「什の掟」たるものが注目されているという。

一、年長者の言うことにそむいてはなりませぬ

一、年長者にはおじぎをせねばなりませぬ

一、うそをついてはなりませぬ

一、ひきょうなふるまいをしてはなりませぬ

一、弱いものをいじめてはなりませぬ

一、戸外でものを食べてはなりませぬ

 最近の子供は・・・などというつもりはないのだが、こういうことを言うと「どうして?」とか、「なんで?」と聞いてくる。少しくらいの説明では「だって・・・なんだから、したっていいじゃん」などと反論する。説明して納得を得なければならないのは、今も昔も大きく変わらないものだろうが、「ならぬことはならぬものです」と毅然としているところが立派である。

 「ダメだって言ったらダメなのぉ~」、「えぇー、どうして~?」、「ウルサイわねぇ~、とにかくダメって言ったらダメなのっ!」みたいな感じで手をやくシーンは巷でも珍しくないが、カッカとなるのではなく、冷静に対応するのは難しいものだ。

 いじめる側にまわる子供も子供だが、大人になっても陰湿にハラスメントとして姿を変えていることもあるのだから、老若男女を問わずこの“掟”に心しておくべきなのだろう 

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儲けたい気持ちから経営改善はできない

2006-10-25 23:08:43 | 薬局経営
 業績悪化で上場を果たせなかった薬局が、再生プランを立てようとしているが、その手法が通用しなかったにもかかわらず、誰も責任をとらないばかりか、既定路線を強化しようとしている。誰の目からも行き詰まりが見えているのに、新しいソフトを入れれば何かできると思っているようだ。入れ替えるのはOSであるにもかかわらず

 その最たる例が服薬指導加算算定率アップの大号令である。ある経営者は、毎月、その数字ばかり追いかけて、スタッフが頑張っているかとか、みな仕事をしているかなどと、目を光らせているようだが、改めてそれが最大の悪循環を招いている原因であることを、順を追って説明しておきたい。

▼算定率アップの指示を出す。
▼スタッフは、算定率アップのために、何か“指導”をしなきゃいけないと考える
▼無理しても何か言おうと、処方された薬の中から注意事項がありそうな薬を選び、ネタを探して“薬に由来する”何かを言う
▼その内容は、薬に付随したことなので、たとえ正しい情報であっても“その患者さんの状況や背景に依拠した内容ではないので”、一般的注意の域を出ない
▼その(一方的な)“指導”内容が繰り返されると、患者にしてみれば決まりきった指導であり、画一的な情報提供に過ぎないので、患者自身のためというよりも、不特定多数に向けた情報提供だと受けとめられる
▼換言すれば、そのような情報提供や指導は、患者にしてみれば、その薬を飲む人なら誰にも当てはまる内容であり、自分のことを理解してくれて声をかけてくれた内容ではないので、意義や必要性を、ひいては価値を感じない(薬局の事情を知っている者なら、指導料算定のために話しかけているにすぎないと、看破する)
▼患者はそんな薬局に対して、自らのことをさらけだし、悩み事があっても打ち明けて相談しようとはしないし、当然、かかりつけ薬局になど選ぼうとしない
▼薬局は信頼を失い、評判を下げる
▼患者は減少する
▼経営は悪化し、経営者はますます算定率アップを強制するがごとく、指示する(悪循環)

 ではどうすればよいかは、これまで述べてきたので、ここでは繰り返さないが、では服薬指導はどうすべきか、患者さんにどう接すべきか考えて、近々出してみようと思う。
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業務で数字を求めることを止めよう(2)

2006-10-22 23:07:09 | 薬局経営
 昨今、小・中学生の自殺をめぐる報道が多い。文部科学省に挙がっている報告によると、いじめの報告件数が毎年数万件あり、自殺者が数百人いるが、「いじめによる自殺者はゼロ」という状態が近年数年間続いているという。誰が見ても「シンジラレナ~イ」と、耳を疑うだろう。

 自殺の原因がいじめにあったとすることで、教職員か教育委員会か、はたまた文部科学省か、都合が悪い状況があるから、困る人たちがいるからだろう。子供が自らの命を断ったことは痛ましいとしながらも、それを未然に防ごうなどという動きにはなかなか結びつきにくいのだろう。イジメがなくなる気配が見えないことも、頷ける。

 「いじめによる自殺がゼロ件」という報告は、子供の教育は二の次で、そういう統計的数字にすることのほうを優先していたと言われても仕方のない状態は、教育者たるもの、誰のために仕事をしているのか、おおいに疑いたくなる。それはごまかしであり、実態隠しだ。おそらく、いじめの調査も甘く、実態把握もいいかげんなものだと十分推測できる。いじめよりも教育者たるものの資質のほうが重症かもしれない。

 これを本末転倒と言わずして、何と言うのだろう。田中秀征さんいわく「見識のない指導者ほど、数値に頼る」という。
 これまで、薬局の活動を営利優先で金儲けの数字ばかり見ていることを批判してきた。深刻な問題を引き起こす土壌、背景において、薬局と学校で、これほどまでに共通する因子がいまさらのように浮かび上がってきて、悲しいやら、苦笑するやら 

 成果主義というか、利益志向は、それに携わる者の良心をも蝕み、プロ意識まで失わせてしまうことを再確認しておきたい。「業績は体質の結果である」。悪しき体質から、望む業績などえられない。業績が未達なのは、利益を最優先課題に掲げているからだといってもよい。やることをやれば結果として業績がついてくるよう、体質を見直すべきだし、業績が出なければさらにノルマを課したり、経費等を絞るのではなく、自分たちの活動の進め方に問題があったのではないかと、謙虚に冷静に反省することだろう 
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人不足なのに、リストラ?

2006-10-21 16:16:29 | 薬局経営
 今や、とくに地方に行けばいくほど、薬剤師不足が深刻だ。薬剤師に求められるレベルが上がってきており、単に薬を渡していればいいというものではないので、誰でもいいというわけにもいかない。毎晩、遅くまで仕事をしているのも、当たり前の店舗も多いという。

 人不足の薬局では求人をかけないわけにはいかないが、かけてもそう簡単に良縁に恵まれない。新卒が出てくる春までにはまだしばらく時間がある。あるチェーン薬局では結婚退職やら(家族の)転勤やら、諸事情での自然減を見越して、計画的な人員確保をしておけばいいのに、どうしてそれをしてこなかったのかと、スタッフは経営者に疑問を投げかける。

 しかし経営者は、求人はしている、だが応募者がいないと説明する。だから、避けられた退職者を出さないように、と逆に現場に言い返す。

 ところがその経営者は実際のところ、いまや薬局も経営が苦しいので、人件費がかさむと思うと、退職者が出ても募集していないのである。収益がとれない分、人件費が浮いて、帳尻があったと喜んでいる始末だ。

 予算達成のほうが優先で、現実はもちろん、将来を見越して「人を採用しない」。この事実はまさに、人不足で残された者の苦しさより、金儲けのほうが大事だと言っているようなものだ。スタッフは、ネジか駒か、奴隷扱いかもしれない。

 こんな薬局に現有スタッフは魅力を感じるか? 当然モチベーションなんてあがるはずもないだろう。雪崩減少で次の退職者を出さないことはできるのか? こんな考え方のところに、魅力が生まれるのか? だから応募者がいないのではないか?

 地方で募集してもすぐ人がなかなか来ないのもまんざら間違ってはいないけど、募集を渋っているのも事実なのである。この実態にスタッフは目を向けるべきであろう。この経営難のときに退職者が出ても補充しようとしないのは、退職希望がまるで“渡りに舟”でもあるかのように、都合よく人員削減しているようなものではないか。

 辞めて欲しい人に辞められるのと、辞めさせたい人を辞めさせるのとで、若干の違いがあるとはいえ、結果を見れば、人不足にもかかわらず、体よくリストラしているようなものだ。

 予算成就、金儲けのために、ますますヒトの面でのインフラを削減する、それでいて営利優先志向だからますます現場に金稼ぎのノルマを課す。人員削減をしておきながら売上げをあげろ、利益をもっと出せというこの矛盾に気づかない経営者につけるクスリはあるのだろうか

 薬局に魅力を失ってしまっているのも、求職者に恵まれないのも、現場がやる気を失ってしまい、ときに体をこわす者が出ているのも、そういった悪循環に陥っているのも、すべて経営者の利益優先体質が原因なのだといってよいだろう。
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薬局は、今どのように変わるべきか

2006-10-19 10:17:53 | 薬局経営
 家の近くにあるV●LKSというステーキ中心のファミレスが近く閉店し、系列で肉料理中心のファミレスとしてリニューアルするという。うわさでは、サラダバーは継続し、ブレッドバーが設けられるという。メニューも若干変わるのだろう。店舗は内装や設備面では、それほど老朽化した感じではなかったが、土曜の晩でも、あまり流行っている様子ではなかった。新店舗がどうなるかは楽しみにするとしても、果たして活気を取り戻すことができるのだろうか、今から危ぶむ声が聞こえてくる。経営者が全く変わるわけでもなく、肉料理という路線も変わらない、変化に乏しいのではないか、という不安なのだと思う。

 いま医療も、とりわけ薬局が変革の時代といわれている。医療提供施設、代替調剤、薬学教育6年制、一般等医薬品の取扱い、薬局機能評価など、大きな波が短期間に押し寄せていることでもわかる。
 これらは確実に現実に降りかかりつつあるのだが、現場が一番実感しているか、関心を示しているのが、医療費抑制>調剤報酬改定による収益の減少である。実入りが減ったから、どうやってこれまでのように持っていくかに躍起になっている。国レベルの波と現実の影響と、関係しているのだが別物のようでもある。

 そんな中、出てくる意見が事業の拡大であるとか、他分野への進出、といったものだ。調剤はこれ以上の発展性が望めないと考えるからであろう。ひらたくいえば、調剤は苦労ばかり多く儲からない、と思いはじめているのだろう。

 これまで(調剤)薬局とドラッグストアは、薬を扱いながら薬に対するスタンスや業態がまったく別と言われてきた。実際その違いが減る気配もない。ところが、その薬局もここにきてどうやら運営が2分されてきたように思う。医療提供施設として取り組むものと、薬局は利益確保の手段にすぎないとする考え方である。それが日本薬剤師会と日本保険薬局協会(NPhA)の2派に代表されるのではないだろうか。

 調剤にこれ以上の発展性が望めないという考え方は、調剤の、とりわけ調剤報酬において、黙っていても入る部分が今後は期待できない、というところから湧いているように思う。分業バブルで、調剤を続けているだけで追い風が吹いていたときの心地よさから脱却できないのではないかと思う。さらに、その心地よさに浸りながらも、こんなことは分業推進の恩恵に預かっているにすぎず、自分たちの使命や社会に果たす責務は何であるかを、冷静に考えて来れなかった人たちではないかと思う。

 薬局機能評価の各項目に見るように、またグランドデザインで示されるように、薬局のあり方を追求していれば、まだまだ薬局が薬局としてすべきことは山ほど残されていることは容易に理解できる。しかし、それも出店さえすれば利益が増えるとばかり、拡大路線をとってきた者にすれば、小さくてもお粗末でも薬局の店舗である以上、拡張性がない店舗を残してきた以上、無理な注文、理想に走りすぎるようにしか受け止められないのではないか。

 これから医療費の伸びも最小限に抑えられ、少子高齢化が進む時代において、国民が薬局に望むのは、あくまでも薬局であると考える。薬剤師に望むのは、薬剤師としてである。他の例に示せば、寿司屋に望むのは、より旨くてリーズナブルな寿司であって、ラーメンやトンカツ、はたまた雑貨販売などではない、ということだ。
 薬局が有すべき機能を有していないのであれば計画的に整備することである。期待されてもいないものに手を出さず、ひたすら出店拡大路線に走らず、薬局や薬剤師の高度化、レベルアップ、きめ細かさ、問題解決能力、かゆいところに手が届く、といった深化が、薬局の進むべき路線であり、そこに向けて変わるべきではないかと思う 
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医療において利益追求は誇りなのか

2006-10-15 11:32:53 | 薬局経営
 今朝のサンデーモーニングで、北朝鮮の地下核実験の強行について、空港で北朝鮮の国民に感想を求めている様子が放映されていたが、多くの者が「誇りに思う」と胸を張って答えていた。批判的なコメントを求めていないまでも、せめてもう少し冷静な意見でもあれば・・・、と期待するほうが無理なのか。

 それに重なるように浮かんだのが「医療において利益追求(優先)主義を取り続けるのは医療機関にとって誇りなのか」ということだ。昨晩のNHKの特集番組「医療に安心できますか」において、医療側、患者側、それぞれにサービスとその費用(国民にとっては負担や支出、医療側にとっては収入)のはざまで葛藤していたことも、その遠因だったかもしれない。

 医療機関のスタッフは、ときに薄給や苛酷な労働を強制され、その状態を課した側から苦しみからの脱却という口実のもと、新たな“利益追求政策”に一体となって取り組むよう指示、命令され、貧困から解放されるのならと、同調しがちだ。しかし、その結果がこれまでスタッフにどれだけ還元されてきただろうか。数字が上がらない、伸びない責任をスタッフに押し付けられ、それまで以上に苦しんでいるのが実態ではないだろうか。

 新たな施策も、金儲けのための手段という構図のもとでは、施策は少ない投資で大きなものを得ようとするから、薄っぺらで素安なものになりがちだ。利益追求の思想が意識された取組みそのものが売り手の都合が重視されているから、顧客にすればニーズとかみ合わない異質なものとして映ることだろう。

 儲かっていることが医療機関の誇りなのか。通帳残高を見てほくそえむような、数字が活動の目安なのか。薬漬け、検査漬け、過剰サービスが敬遠され、医療機関の信頼を失っているにもかかわらず。

 利益追求(優先)主義の思想があることで、組織は将来が安心できるのか。NHKの問いは、誰にとっての安心を問いかけているのか。医療機関が安心したいためにどうするかを問いかけたのではなかろう。医療機関は、自分たちをかかりつけと頼りにしてくれる患者がいてくれることで、安心できるのだと考えるべきではないか。

 売り手志向は、自分たちだけの世界にスタッフを引きずり込み、外の様子、とりわけ患者の思いなどを否定し、考えようとはしない。それは社会の中で孤立するような、価値観が患者とは著しくズレた、運営方法になりかねないのではないか。それはまさに“かの国”のように・・・ 
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いま変革の時期に薬剤師がすべきこと

2006-10-11 18:53:28 | 薬局経営
 今年の日本薬剤師会学術大会で中西敏夫会長は、2006年度は薬剤師の歴史が始まって以来の大きな変革の前触れを実感する年だと学会の冒頭で語った。変わらざるを得ない、変わらなきゃいけない、そういう意味だろう。

 変わるための行動を取るのは薬剤師以外にいないが、変わったかどうかを判断するのは、薬局側ではない。その顧客であり、国民が評価する。小手先で済ませたり、目先を変えた程度では、変革の評価は得られず、いくら“変わった”と主張したところで始まらない。

 表面や外見を少しいじった程度では、せいぜいマイナーチェンジの域を出ず、根っこの部分は何も変わっていないんだ、ということが相手にもバレてしまう。その程度では変わったウチには入らないと、むしろマイナス評価として跳ね返ってくることすらある。
 見栄えを変えても元を変えずにいるということは、「元は変えたくない、変えずに済ませたい」ということの裏返しでもある。計らずもそういう逆のメッセージを送っていることにもなってしまう。

 人は成長したい、あるいは深化したいという想いを基本的に持っている。今のままでよい、あまり変えたくないなんていうのは、成長過程にある者の言う言葉ではなく、ある地位や状況に達し、満足している者のいう言葉であろう。そういう人が逆メッセージを発する、いわば無意識に保身を優先させているのではないか。

 変わらなきゃいけない今、一方で変わりたくない人がいる。薬局は医療提供施設としてリスタートを切らなければいけないというのに、チェーン薬局では「会社」の論理で足元を固めようとする者すらいるという。6年制を持ち出すまでもないが、ますます専門性や倫理性が求められているにもかかわらず、そうでもしなければ自分たちを維持できないからではないかと思われる。

 そもそもその程度の者だから、これまでも「変化」は提案されてこなかった。変化こそ生き残りや使命だと考える経営者は、自らが先頭きって変化に突入していった。しかし保身が強い者ほど、変化は最小限に留めたく、あるいはかなりの高確率で成功が保証されなければ変化は受け入れられないとする経営者がいる。

 守旧派は、変化の波を前に、それが自分たちの行ってきたこと、足跡に対する否定に写るのではないだろうか。もともと先読みして、時代を先取りして、切り開いて来ようとしてきた者ではない。そんな経営者に対し、誰が尊敬し、ついていこうと考えるのだろう。
 変革の時期に求められているのは、過去の否定であり、発想の否定である。これまでの考え方は、今後通用しない。だから周りに対してこれまでの自分たちは間違っていたという謝罪こそ、優先すべきではないだろうか。同じ発想が残されたまま、新たな提案をしたところで、成り立つ土台が変わらない以上、効果的なものは出来上がることはないだろう。経営者は絶大な権限を持ってやってきた、それに見合う謝罪とは簡単に済むものではないだろう。

 ましてや大きなトラブルを起こしたり成果を残せて来なかった者は、明らかに運営能力、判断能力の欠如を自らさらけ出してしまったようなものだ。潔い対応しか、残されていない(求められていない)のではないだろうか。
 見据えるべきは自分自身の事態ではなく、薬局の将来であり、利用者の健康であろう 
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資格は「安全管理」のため

2006-10-09 11:51:18 | 思いつくまま
経歴偽って資格取得、派遣の5人働く JR東の工事で(朝日新聞) - goo ニュース

-----転載ここから
 JR東日本が発注する線路付近の工事現場で、人材派遣会社員5人が、経歴を偽って資格を取り安全責任者として働いていたことが分かった。JR東日本は、人材派遣会社が社員の経歴を偽造し出向させたとして、工事を請け負う「鉄建」(東京都千代田区)に指示して契約を打ち切った。

 JR東日本によると、偽って取得されたのは同社が内規で定める「工事管理者」の資格。現場で作業の安全を監督する。JR各社が委託する社団法人「日本鉄道施設協会」の講習と試験を受ければ取得できるが、受講には大卒で3年以上など実務経験が必要になる。

 今年3月にJR立川駅付近の工事現場で、管理者の男性が特急通過前に工事用踏切を渡るトラブルがあり、その後の調査で、男性に実務経験がないことが発覚した。

 男性は警備会社「三和警備保障」(東京都中野区)の契約社員で、同社が実質的に経営する人材派遣会社が、男性を社員として経歴書を偽造し資格を取らせた上、鉄建に出向させていたという。

 JR東日本は、工事の元請け会社に出向できている工事管理者約300人の経歴を調査。同じ人材派遣会社の別の4人にも経歴偽造が見つかり、7月末で契約の打ち切りを指示した。ほかにも36人について経歴が確認できず、管理者の仕事から外させたという。

 JR東日本は、元請け各社に面談の強化や卒業証明書の点検などを指示、再発防止をはかりたいとしている。
(朝日新聞 2006.10.9)
-----転載ここまで

 本件が発覚した経緯が、工事現場でのトラブルを経てというから、作業員が電車にはねられるなどの大事故が起きてからでなくて良かったとはいえ、任務にあたらせる前に、その確認ができていなかったのは、手順として検討の余地があるだろう。

 工事を元請けした「鉄建」(東京都千代田区)などによると、この5人は警備会社「三和警備保障」(中野区)が設立した派遣会社「コンストラクション・サービス」(同)の社員だという。(時事通信 2006.10.8)

 アウトソース先がさらに孫請けに作業をやらせて、そこの杜撰さが問題や事件になるのは、ふじみ野市の市営プールで女児が吸い込まれて水死したプール管理(ふじみ野市>太陽管財>京明プランニング)や、川での作業船のクレーンが送電線に触れて首都圏での停電を起こした事件(大林組>三国屋建設)など、類似する構造だ。
 公共団体・地方自治体で落札したような公共性の高い工事等に、落札先の運営状況が問題となることも多い印象だ(シンドラー・エレベータも同様)。

 さてJR東日本の資格偽証は、現場の作業安全を監督する「工事管理者」であり、安全管理という側面を軽視していたことによる。
 翻って、薬局・薬剤師に囁かれている“無資格調剤”と、どう違うのだろうか。

 国家試験を受けるということは、試験を通じて求められる知識を持った者が然るべき業務にあたることが必要とされているわけで、その知識を活かして業務にあたることが求められていると解釈される。
 その知識を使わないくてもよい業務なのであれば、誰が行ってもよいことになる。であれば、無資格調剤や薬剤師不要論まで取りざたされている現状は、どう捉えるとよいのだろうか。2通りの考え方が浮かぶ。
・現状はその知識を活かしきれておらず、その知識を活かすべく、作業水準を上げる。
・現状はその知識を活かすほどのものは必要でなく、そのような業務は他に任せてしまえばよい。

 果たして「計数調剤」、「ピッキング」などと言われる業務はどうなのか。薬学部6年制に移行したり、国家資格に加えて認定薬剤師制度などがさらに重要視されてくる趨勢は、前者的だ。一方、テクニシャンなどにより薬局内の業務に“分業制”を導入しようとしたり、定数緩和(削減)を意識したりするのは、後者だろう。

 どちらも今後おおいにありうる話なので、資格の活かし方、国家資格のあるべき方向について、本質を見据える必要があろう。自己都合に合わせた勝手な解釈であってはならない。OTCの販売は規制緩和が進行しつつあるが、いくら販売品目に段階を設け、それに応じた適切な取り扱いをするといっても、その段階が明確に違わなければ、なし崩しの言い訳を与えるだけになってしまいかねない。

 とすれば薬局や薬剤師の進むべき方向は、資格に求められる知識や技術を最大限に国民に向けて発揮することなのだろう。今は就職とともにそれが形骸化してしまっている。大学で学んだことが、そのまま活かせる・活かさねばできない薬局や薬剤師であることが、これからのあるべき姿なのではないだろうか。
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薬局の受付で

2006-10-07 17:18:54 | よくわからないこと
 病院に受診すると、受付で診察券を入れるケースが置いてある。それも「診察あり」と「薬だけ」だったりする。前者の場合、当たり前の話だが診察を受ける。後者の場合は、慢性疾患などでいつもと同じ薬を継続したい患者が、処方せん発行(だけ)を希望し、無診察により短時間で病院を済ませようとすることが多い。例外的に「薬だけ」を希望しても、診察に呼ばれることがないわけではない。

 無診察診療がよくないことは皆承知なのだろうが、待ち時間の長さや診察の多さから、苦々しく思いながらも黙認しているのが現状だろう。本来、診察しなければ処方という薬物療法という治療手段でよい、という判断が出て来ないのであるから。よって「薬だけ」でいつもと同じ薬の処方せんをもらうだけでも、診察していないにもかかわらず、診察料が請求されている。医者と顔を合わせなくても、これまでと治療を継続していてよいと、“判断”されたことになる。

 その是非はともかく、診察という重要なプロセスであるにもかかわらず、患者は時に応じて、必要であるとか、不必要である、と判断するという事実が存在する。患者側が診察の有無を選択しているともいえる。

 さて薬局において、待ち時間が問題になることは日常茶飯事である。改善により、今では非常にスムーズな薬局も、過去に悩んだことが皆無などという薬局はないだろう。
 昨今、投薬時において、薬の説明について、患者側が煩わしく思っていることも少なくない。「いつもと同じ薬をもらうだけなのに、あれこれ聞かず、早く渡してもらって帰りたい」、「必要なことは医者に話したので、薬局で改めて同じようなことを話すのは面倒である(不要ではないか)」とする意見をしばしば聞く。

 医者は診断という治療方針を検討するうえで症状や体調変化を聞き、薬剤師は薬学的管理の観点で、副作用が見られていないか、飲み合わせの心配はないか、服薬を進めるうえで問題点はないかなど、同じようなことを聞いていても、その果たす機能が異なるのだが、いまだにそこの理解が得られていないケースがあるようだ。

 それはそれとして、薬局ではいわゆる「診察券」のようなものはなく、処方せんの提出(応需)をもって受付に代えているのであるが、受付時に薬の説明や相談等が必要か必要でないかを聞いて、投薬時の対応にメリハリをつけるというのはどうだろうか。「説明・相談・確認あり」と「説明・相談・確認なし」に分けて、受付をするのである。

 処方変更や新規処方のある場合、前回からの確認事項のある人などは、「説明・相談・確認なし」には、“自動的に”しない。慢性疾患で、いつもと同じ薬である場合で、薬の飲み方や副作用などについての説明や確認、相談などを必要としない」場合において、そういう対応をとってはどうかということなのだが・・・。

 患者が不要といったら、いくら希望通りに対応するといっても、あーそうですかというのが専門家として適切な、好ましい対応なのかどうか。これは薬剤服用歴管理料の加算にも関連して、悩ましい部分であり、少なからず摩擦も見られることも予想されるのであるが、薬剤師としての責務の遂行を確実に行うために、あえてその重要性を明確にし、薬剤師の関与の有無がいかに違いをもたらすかを示すうえで、この2パターンの受付をするというのはどうだろうか 
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金沢紀行(2)

2006-10-02 22:42:39 | 心に残ること
 金沢での宿泊は、犀川べりにある「さらら館」というところをネット予約していった。安いのと、学会会場に歩いていけそうな距離であったからだ。
 ホテルかとおもいきや、なんとペンションといった感じの、それもけっして新しくはない造りだった。アパートの一室みたい、といったほうがよいのかもしれない。

 高層ホテルの窓から景色が一望できるのもいいが、窓から川が、それも土手越しにではなく、眼前に横付けしているようにあるというのは、また風情があるものだ。犀川も、けっしてドブ川ではないが、さして見栄えのするほどの川でもない。犀川を挟んで向こう岸の小高い坂にある家並みが、寂しさを紛らせてくれているようでもある。

 永六輔さんが、この宿の常連であるという。ツーショットのスナップ写真が自慢げに飾られている。女将さん曰く「あの人は高級ホテルは合わないようで、ウチみたいな辺鄙な宿が気にいっているの」と。便箋に5~6枚も書いて、写真を飾らせて欲しいと手紙を出したら、「どうぞ、どうぞ」とたったそれだけの返事なのよ、とまたうれしそうに言う。“どうぞ”が1回し書いてなかったら、冷たく面倒臭そうな印象がするが、2回書いてあると、それだけで十分、それ以上は何も言葉がいらないんだ、と腑に落ちたことを喜んでいる。この宿は上菊橋と下菊橋の中間にあり、川沿いを桜橋、犀川大橋と北上すると、片町の繁華街まで20分ほどで着く。京都の四条大橋や河原町、鴨川を思わせるような風景も、何か気持ちを落ち着かせる。

 エクセル東急に宿泊している友人が、市の中心部の一流ホテルへの宿泊を自慢していた。「大理石の風呂なんだぜ」と、今回は立地もよく、リッチな旅をしたようだが、こちらは失礼ながらボロ宿ではあったが、何か心休まる豊かさという点では負けずとも劣らない感じがした。

 金沢駅からも遠く、交通の便もけっして良いとはいえないが、また金沢に行く機会があったら行ってみたいと思う。ワンルームマンション並みの風呂だし、単なるシングルベッドで、エレベーターもない。すれ違いもできない狭いらせん階段があり、部屋のカギもオートロックではない、回すだけのものである。しかし慣れないところに行き、気安く旅ができて、その土地にお世話になった感じがしたのは、自分にとって初めての貴重な経験だった 
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金沢紀行(1)

2006-10-02 22:21:31 | 心に残ること
 先週末は学会で金沢に行く。学会発表もあったが、今回はその他に伯父の墓参りと、高校の同級生に会うことが予定されていた。同級生も3児の父として、それなりに苦労しつつも、立派に居を構えていた。伯父の墓参りは、本当は十数年前に果たすべきところを、遠方と多忙を理由にこれまで不義理を続けていた。今年は17回忌があったとのことで、よくもまぁ・・・といったところだった。

 酒好きの伯父は、出勤前にウイスキーをストレートでコップ一杯飲み干したうえで、運転して出ていくほどで、よくぞ飲酒運転でつかまらなかったものだと思う。そんな伯父を竜淵寺まで訪ねていった。市内中心部からたいして離れていないものの、ひっそりとした感じの、高木や竹林で囲まれた閑静なお寺だった。あいにく住職は所用で不在で、奥さんがお墓へと案内してくれた。伯父の墓はその中でも奥のほうに位置していた。

 花も線香も持っていなかったが、ビールだけは持っていった。本当はウイスキーの小瓶をと思って2軒探したのだが見当たらなかったのだった。

 手を合わせると、それはもう涙が止まらなかった。不義理は、詫びても詫び足りないほどの時間が経過している。そんなに昔ではないような、高校の先輩でもある伯父の、活き活きとした声が聞こえてくるようだった。その声は甥の私に対して叱咤、説教しているようでもあり、ちょっぴり「よく来た」と言ってくれいるかのように思えた。最も、勝手な判断であるが。

 寺を後にするにあたり、入り口で振り返って頭を下げた。そこで気づいたのが「不許韮酒山門入」の石塔。ビールを墓の前に置いてきたが、まぁ大目にみてもらえれば幸いだが、どうなったことか 
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