薬局をやっていてい、安全を意識しない日はない。たくさんの人に、たくさんの薬を渡していて、その錠数たるや相当なものである。それが全国の薬局で交付され、国民が服用する。合計を考えると、恐ろしくなる。
それだけの薬が日夜、消費されている。「安全を確認して交付している」なんて、実は何事もありませんようにと祈りながら渡しているにすぎないのではないか。
果たして、「安全な薬物療法」なんてあるのだろうか。安全を願いながら薬物療法に臨むことはあっても、安全を保証することなどできないはずだ。
こんなことを思ったのは、「なぜ、かくも卑屈にならなければならないのか」のp.81、病院が「安全」だなんて誰が言い出したのだろう、の章を読んでからだ。
設備を整え、スタッフを教育し、どの病院もより安全なところであろうと努力しているが、そういった努力の及ばぬところ――病院というものがどうしても内包する性質として、100%の安全はない。
薬そのものが“危険なモノ”、“取り扱い要注意”であるはずだ。少しでも薬理作用が“暴走”してしまわない条件下で使用しても、患者に及ぼす強さまでは制御しきれないし、薬を使用する患者自身の体調が急変しないとも限らない。またゼッタイ誤服用しないという保証もない。
薬局で提供することのできる「安全」なんて、しれたものかもしれない。安全を「提供する」というのも書いていてヘンな表現だとふと思った。提供できるものを持っているのなら、小出しにする必要などなく、惜しみなく与える必要や役割が薬剤師にはある。「惜しみなく」与えられるほどの量の安全を持つことに、すべては始まるのかもしれない。
それだけの薬が日夜、消費されている。「安全を確認して交付している」なんて、実は何事もありませんようにと祈りながら渡しているにすぎないのではないか。
果たして、「安全な薬物療法」なんてあるのだろうか。安全を願いながら薬物療法に臨むことはあっても、安全を保証することなどできないはずだ。
こんなことを思ったのは、「なぜ、かくも卑屈にならなければならないのか」のp.81、病院が「安全」だなんて誰が言い出したのだろう、の章を読んでからだ。
設備を整え、スタッフを教育し、どの病院もより安全なところであろうと努力しているが、そういった努力の及ばぬところ――病院というものがどうしても内包する性質として、100%の安全はない。
薬そのものが“危険なモノ”、“取り扱い要注意”であるはずだ。少しでも薬理作用が“暴走”してしまわない条件下で使用しても、患者に及ぼす強さまでは制御しきれないし、薬を使用する患者自身の体調が急変しないとも限らない。またゼッタイ誤服用しないという保証もない。
薬局で提供することのできる「安全」なんて、しれたものかもしれない。安全を「提供する」というのも書いていてヘンな表現だとふと思った。提供できるものを持っているのなら、小出しにする必要などなく、惜しみなく与える必要や役割が薬剤師にはある。「惜しみなく」与えられるほどの量の安全を持つことに、すべては始まるのかもしれない。